藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

似島の事を何故知っていたか

2018-10-23 09:53:27 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和40年成人式で一人の人物に出会った。 広島市教育委員会職員の人間である。 その人は、後に知ったのだが、岸、佐藤両総理の甥っこであった。 山口県に就職すれば県の教育長に成れる家筋だったが、自分は教育現場一筋に生きて行きたいと、広島市に就職したそうだ。 妙に私と気が合い、酒を酌み交わして議論する内に、兄弟以上の付き合いとなった。 その方の友人で、広島の三滝寺と言えば知らない者がいない寺院の住職、佐藤天心住職を知り、その教えを受けるようになった。 師は、少年院の子供たちの心のケアーをされており、二週間に一度少年院を訪ねておられた。 その少年院に同道するようになり、非行少年との交流の中で、少年たちが抱えた心の問題の広さと深さを知って行くうちに、社会教育に嵌ってしまった。 しかし師、曰く、「彼らは甘えているのだ、彼らには甘える身内がいる、身内も無く一人で生きている少年少女がたくさんいる。」 その事が契機となり、孤児院でのボランティア活動を始めた。 そこは、昭和20年の原爆で孤児となった子供たちが収容された孤児院で、私が出入りし始めた頃は、すでに原爆孤児は成人しており、一般の孤児ばかりであったが、その生活環境は劣悪であった。 興味を持ってくれた、同年代の女の子もボランティアに参加してくれたが、その匂いについて来れなかったのだ。 お寝小の匂いのすごさは並ではない。 布団を干せば解決できるがその手間が無いのだ。そのことがきっかけで、市内の青年団体に声を懸けてボランティアを募り、「新生学園」「似島学園」を訪問し活動していた。 その中で、吉川栄治氏が、戦後、被爆孤児の為に奨学金を送り、東京の大学を卒業させていた事実や、私の同級生の両親が、財産を擲って東京に寄宿舎を立て、支援していたこと等、戦後の混乱期に人の優しさが溢れた時代が存在したことを知ったのです。 その中に、「似島学園」の歴史や、そこで起こった悲劇や、「似島」自体が、明治以来の日本の膨張政策によって、いかに多くの犠牲者が生まれたのか学んだのです。 その中に、「バームクーヘン」と「サッカー」とが有ったのです。 国は似島の国有地が、不要となり、払い下げられることとなり、広島市は押し付けられる事と成りかけた時、当時の市会議員の中の良識派或は、革新系議員から反対の意見が出ました。 それは当然な意見に聞こえていたのですが、歴史的見地からこの土地を引き取るべきだと私は説得して歩きました。原爆の悲惨さを、戦争の悲惨さを伝える土地こそ、国際平和文化都市に相応しいと思ったからです。 その土地を買い取ったことにより、広島市はドイツ・ハノーバー市と姉妹縁組する事と成りました。

 今私が高齢者と成り、残念に思う事が有る。 広島市議会議員の質の低下だ。 話せば理解できる議員の少なさ。 秘書をこき使い、取り寄せた昼食を議員控室で食べる。 そんな議員ばかりである。 市議会棟の地下には議員用食堂があるが、利用する議員はほぼ居ない。 嘗ては、保守、革新入り乱れる中で、昼食を食べながら議論していた議員の姿が有った。 それを市の職員が見て本気で仕事をしていたように思うのだが・・・・・。 嘗て戦後の悲惨な生活の中で、孤児院を立ち上げ、育て上げた先人たちの気力を、今こそ思い出すべきだと思う。  ○○48なんぞに浮かれた若者諸君に言いたい、「浮かれていると君たちの老後は、アメリカ社会の様に、ホームレスが溢れる社会に成る事は間違いない。」と。

 そして再び、力の政治がのさばり、軍国主義が闊歩するようになる。 泣きを見るのは貴方たちなのだ。

 

コメント (2)
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