美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

20200104の呟き(リウォルドの『印象派の歴史』)

2020-01-05 09:19:00 | 西洋美術

印象派の基本的文献とされるリウォルドの『印象派の歴史』の邦訳文庫版が昨年出た。この本だけを読むとモネの「印象、日の出」について多くの美術愛好家はギョッとするだろう。題名も制作年も違うし、最初の印象派展にも出品されていないとされているのだから。だが、現在では従来の説をとる人が多い。

このリウォルドの説に関連しては、同じく昨年出た島田紀夫氏の『印象派と日本人』がかなり詳しく紹介している。なぜ従来の説が再び有力となったかを。ただそれでもまだ釈然としない部分が残っている。
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モネの「睡蓮、柳の反映」

2019-09-09 19:46:00 | 西洋美術
壊滅的な状態で日本に返還されたモネの「睡蓮、柳の反映」、この作品をデジタル復元しようとするNHKのTV番組を見た。

前にブルーレイで録画しておいたものを見終わったのでその感想などを書いておく。

まず、これを復元しようとする国立西洋美術館の関係諸氏の熱意に敬意を表す。

さて、フランスで「発見」され、日本に返還されたというこの作品、恐らくフランス当局では、疾うに展示を諦めて、保管庫にそのまま見捨てられたように眠らせていたものだろう。その意味で今回の「発見」に特別な驚きは感じない。

モネの作品に対するこの数十年、いや半世紀にわたる驚くべき評価の高まりが、こうした壊滅的な作品にまで特別な注意が向けられるようになったということではないか。

この作品を今回、AIなどを使ってできるだけ正確に復元しようする試み、その成果の復元画像は、TVでは大きく3段階にわたって提示されていた。

まず、筑波大のAI研究者による初期から晩年に至るモネの作品200点ほど(だったか?)を(因みにモネの油彩画は2000点以上ある)AIに何百万回も学習させて、白黒画像に色を着けた復元画像を製作する。これが第1段階。

だが、これは、西洋美術館の館長を始めとする美術館専門家に、作品の上半分と残された下半分とに様式的な違和感があると指摘されてしまった。また、特に復元された中央部の黄味がかった色彩に問題があるとされた。

様式的な違和感は、TV画像からでも確かに容易に感じられるものだったし、色彩については、私は作品上方にいくつかあった紺色がかった部分に最も問題があると感じた。

色彩の問題については、モネの初期作品からのデータ入力(データの価値評価に対する不適正さ)の影響が出たと考えられたようである。

初期作品や、もっと多くの真正なデータを入れるのは悪くはないとは思うのだが、復元しようとするのは、年代のはっきりしている晩年の作品であるから、初期作品のデータと晩年作品のデータを等価値のものとして処理したとするなら、あまり適切ではなかったということになる。

美術専門家からの違和感の指摘で、委託された復元担当者は、今度は晩年のモネの作品を多く所蔵するとマルモッタン美術館に向かう。

これが第2段階のデジタル復元画像に向かう最初。

ところが、モネ晩年の未完成作品が多いこの美術館を委託担当者が訪れて、大学のAI研究者とともに製作した第2段階の画像は、私が見るところ、全体になぜかグレーがかった臆病な色調になっていた。これは頂けない。

委託された担当者は、これまでの方法では白黒写真に色を付けていくという感じになって、平板になってしまうところに問題があると反省し、今度は、現存画家にモネのストローク(筆致)を模倣させ、それをAI研究者とともに、デジタル画像に取り入れて、第3段階の復元画像製作に取り組む。

AIによるモネ作品の客観的データ学習では、何百万回やっても、専門家を満足させることはできないと覚ったらしい。

こうして、モネ作品以外の人為的なデータも組み込まれることになった。確か500に及ぶモネの特徴的とされるストロークがデータ化されたようだ。

モネがほとんど無意識的になしている無数のストロークのうちから、意識的、人為的に選ばれたものが、つまり、そのような模倣的に制作された断片が、データ化されたということである。

こうして番組の終わりの方で提示された第3段階の復元画像、これには、西洋美術館の専門家も、前の画像に比べると、かなり満足した様子であった。

確かにストロークの効果を取り入れた第3段階の画像は、その力強さのみでなく、なぜか色彩まで見違えるほど修正されており、格段に良くなっていた。

色彩も青や深い緑の階調を中心にかなり脳の中に描かれた復元画像のイメージに近いと感じるものであった。

ただ、今度はストロークがやや過大に強調されているきらいがあることは否めない。

モネと同じ形態のストロークでも、すべて意識的に模倣して描いたものであるから、そこが目立ってしまうのかもしれない。

モネ自身のストロークは、意識的なものばかりでなく、むしろ大部分が無意識的な自然なコントロールから生まれたものである。

すなわち、作品全体に統一感や生動感を持たせつつ生まれたスピード感や力強さをもったストロークではないから、今度は逆にストローク自体がやや目立ち過ぎるものとなっているのだ。

もちろん、第3段階の復元画像は、前の段階よりは、かなり良いものではあった。が、それはAIによる何百万回の学習による成果とはおそらく言えないだろう。

モネの白黒画像が、AIの学習によって自動的にカラー画像にいっきに変換されたのではなく、全く逆に、段階を追うごとに人間的・人為的な要素が復元画像の中に入ってきたのではないか。

美術専門家の批評的眼差しや、データとなるモネの作品の選択領域の制限、現存画家のストロークなどの要素が、回を追うたびに復元画像の中に入ってきたというのが事実だろう。

これは、控え目に言っても、中間に立って最も苦労したであろう委託業者と、美術専門家の眼と、AI研究者との協働作業だったのだ。

だが、TVのナレーションは、なぜかAIの学習の成果を、繰り返し強調し、「何百万回」の学習などと言って、その驚くべき回数を強調しているのが不思議でならなかった。







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カリエールの作品名の変更

2019-08-09 12:07:00 | 西洋美術
茨城県近代美術館蔵ウジェーヌ・カリエール「アキレウス像のためのトルソー習作」という作品名は、以前、単に「裸体」となっていた。

さらに詳しく言うと「アキレウスにヘクトールの死体の引き渡しを乞うプリアモス」という作品https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Eug%C3%A8ne_Carri%C3%A8re_Priam.jpgアキレウスを描いた部分の習作である。

これによって、ヘクトールとプリアモスとの関連におけるアキレウス像だということが解ろう。ホメーロスの『イーリアス』参照。

パリスの審判のパリスは、ヘクトールと兄弟関係にあり、プリアモスは彼らの父。つまりトロイア方。

10年ほど前、まだ、そのタイトルは単に「裸体」となっていたが、2009年度以後、主題の説明を加えて、所蔵館の画題は変更された。

なお、「アキレウスにヘクトールの死体の引き渡しを乞うプリアモス」の画像は、2016年10月号の『美術の窓』、「カリエール 知られざる巨匠」という特集にも小さく載っている。

また、茨城県近代美術館の当該作品については、同館の作品検索システムから見ることができる。



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マネの「白菊の図」

2018-06-14 15:49:53 | 西洋美術

茨城県近代美術館蔵。1881年作。

扇面形式によるマネ晩年の作品。

このような画面形式は1870年代後半ごろからフランスの印象派及びその後の世代の画家たちによって盛んに試みられた。

マネの他、ドガやピサロ、ゴーガン、ロートレックなども、こうした日本的な、特異な形式を楽しんでいる。

その他、屏風のような形式や浮世絵の柱絵のように極端に細長い形式、これらは、特に構図の斬新さや意外さ、豊かな想像力を刺激するものとして、西洋の芸術家たちを驚かせた。

屏風のような形式や極端に細長い画面形式の影響は、特にボナールやヴュイヤールなど、そのあとの世代の画家の作品にもよい例が見られる。

オランジュリー美術館の巨大な装飾画であるモネの睡蓮、二つの楕円形を閉じた特異な形式と内容すら、ジャポニスムの最終局面における偉大な影響と見られないこともない。

19世紀後半からはまさにジャポニスムの時代で、20世紀初頭に至るまで日本の芸術、文化が、ある意味で行き詰まっていた西洋文化に大きな影響を与え、活性化したのは事実だった。

それは、これ以前の中国趣味や近東趣味、あるいはマネにも大きな影響を与えたスペイン趣味、これらを圧倒する勢いで多くの美術家や文学者、大衆の趣味にまで及んだ。

マネの「白菊の図」は、こうしたジャポニスムの一端を示すものだが、ここには、また、たった一本のアスパラガスを瑞々しい筆致で描いたマネ独自の、あの珠玉の作品世界を思い出させる要素もある。

マネは、同年、親しくしていた女性メリー・ローランをモデルに「」を描いている。その背景は、日本の着物の色彩を思わせる装飾的なものであった。まるで浅葱地繍入草花文様風とでも呼びたいような装飾的背景であり、そこには菊の花が認められる。

この白菊の扇面画が、「秋」のモデルと具体的な何らかの関連があるとすればもっと面白いのだが…

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ピサロのポントワーズ風景

2018-06-14 10:48:14 | 西洋美術

茨城県近代美術館にかつて「グルーエットの丘からの眺め、ポントワーズ」と題されていたピサロの作品があった。現在では、近年の研究により、「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」と改題されている。1878年作。

常陽銀行寄贈の作品。

グルーエットとグラット=コックとでは、それほど距離が離れているわけではないが、厳密に改題された。

ついでに言うと、ルノワールの「マドモワゼル・フランソワ」という同館作品も、一時、「マドモワゼル・フランソワーズ」と呼ばれていたが(英語版のある画集にこの作品が掲載されており、そこではフランソワーズと読めるように表記されているが)、それはおかしいので、現在の呼称に至った。

ピサロのこの作品は、同館所蔵の印象派絵画(他にマネ、モネ、ルノワール、シスレー)の中でも、1860年代末から1870年代後半に至る最も純然たる印象主義様式が開花した時代の作品として、きわめて重要である。

さて、この作品が描かれたポントワーズは、パリの北西約30キロのオワーズ河畔にある小さな町の名で、フランス語で「オワーズ川の橋」を意味する「ポン・ド・ロワーズ」に由来する。

オワーズ河畔の上方には家々が階段状に集落を形成しており、川の流れや近辺の景観とともに画家たちの眼に魅力的に映ったようである。

しかし、ピサロが描いていた当時、この町は、取り立てて有名であったわけではない。むしろピサロらによって、これまで名も知られていなかった小さな丘や通りの名が知られるようになったのである。

ピサロはこの町に最初1863年から68年まで住んだ後、1872年から74年9月まで、そして1875年から83年までの3度にわたって住み、この地で制作している。

それゆえ、ピサロは1870年代における印象派の高潮期の作品を、まさにポントワーズで生み出したのである。

ところで、この作品に描かれているのは遠景の丘の麓の煙突から煙がのどかにたなびいているような、ごく日常的に見られる風景に過ぎない。

それは、バルビゾン派の描いた静かな、時には理想化されたフォンテーヌブローの森の風景とも、モネやルノワールが同時代に描いた活気のある都市の風景や、都市に住む人々が遊びに来る郊外の風景とも異なっており、自然と都市の中間をいく、いわば人の生活の気配と大地の匂いとが調和した風景と言えよう。

造形の面から彼の作品を見ると、他の印象派仲間に比して、力強く構築された画面と実在感のある作風を持っており、これは、まさしくこの地において互いに影響を及ぼしあったセザンヌの芸術とも密接不可分の関係にある。

そして、この作品にもそうした特質はいかんなく発揮されており、この時期のピサロの作風を知る上で非常に良い作品と言える。

ニューヨークのメトロポリタン美術館に、ピサロのこの作品に強い親近性を持つ作品がある。茨城県の作品の中に小さく描かれた歩いている農夫らしい姿は、メトロポリタン美術館の作品の中にも、似たような雰囲気の姿で認められ(こちらには女性の姿もあるが)、ともに風景の中に完全に溶け込んでいる。







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