美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

『偽りの来歴』からのメモ(1)

2015-09-11 12:50:39 | 西洋美術
L.ソールズベリー、A.スジョ著、中山ゆかり訳
2011年9月発行

贋作者と被害者との間にはしばしば微妙な共犯関係がある p51

フランスにおける「著作者人格権」は遺産相続人の権利であり、法的拘束力を持つ;最終的な裁決者となりうる

ハノーヴァ・ギャラリー:25年の存続期間中に扱った作品の写真を記録したアルバム→ジャコメッティなど p100

贋作は1点あれば他にもある。p114

写真の印画紙には時代性がある

写真には画廊独特の参照番号がある

アーカイヴ用語:ファイルが<汚染>されている p115

第三者の専門家の公式証言を基に贋作の判定が下れば裁判所は作品を破棄するか、原告の管理下に置くかを決めることができる。p122

告訴の手続きを開始すると脅かした。p124

古書を用いた策略 p125

本の中に水彩画が挿入されていたことにし、その証明書を書かせた。p130

写真家のスタンプ p134
光沢のあるRCペーパー:1970年代後半以降

サザビーズ:紳士の皮を被った商売人p151
クリスティーズ:商売人になろうと必死になっている紳士たちの砦

BBCのアンティーク・ロードショー、ピーター・ネイハム、1981年来、サザビーズ17年の経歴を持つ。p150

フォートナム&メイソン ターコイズブルーのバック p152

  *

プロヴナンスの確立 p13
アーキヴィスト

ランナー:店舗や在庫を持たない流動的なタイプの美術品ディーラー。個人宅、アンティークショップ、オークション会社から目を引きそうな作品を探し出す。p38

油彩画のヒビ:大半は最初の5年で生じる。完全に硬化するには約50年かかる。硬化すると細かい網状になる。p168

競り札(パドル)p179

ヨーロッパの全殺人事件の98パーセントは配偶者、近親者によるもの p173
放火魔は連続して事件を起こす傾向がある。同じ手口
放火 別の犯罪を隠すためということあり

代理ミュンヒハウゼン症候群 p186

詐欺の立証責任 告発側にある p196

エリック・ヘボーン 20世紀の最も悪名高い贋作者 p210

鋲の錆 塩水で人工的に p211

テートにハノーヴァギャラリーとオハナギャラリーのファイルがある p221
そこに関連作品の図録や受領書、手紙類がある

Mark Jones,ed. "Fake? The Art of Deception" 1990

古代ローマではギリシャの古代彫刻がステイタス・シンボルとなった。
オリジナルとされるギリシャ彫刻の90%がローマ製。p259

16,17,18世紀の工房ではミケランジェロ、ティツィアーノ、リベラの作品を製造した

若きミケランジェロはギルランダイオの贋作を造った。眠るキューピッドを古代彫刻として売った。

コローは他人が描いた模写に自分のサインをした

1990年にR.ヒューズが「コローは800点描いたが、4000点がアメリカにあると言われている」と書いている。

贋作はその時代の文化的痕跡を持っている。18世紀まで発見されていなかった青でそれ以前の作品が描かれていたとか

ベレンソンは来歴に左右されないように注意した。p260

ベレンソンは手数料のためわざと違う判定をしたという批判も

メ―ヘレンは1939年代後半から40年代に10点ほどの贋作
アナグマの毛の絵筆を使用
ライラック油で溶く
2時間オーブンで焼いた
ナチのゲーリングが買った→逮捕→贋作の自白

専門家はある作家や時代について先入見を持っており、その自身の考えがまれに見る発見によって証明されるのを待ち望んでいる。p263

ブレディウスはフェルメールの宗教的主題に未発見作品がまだあるかもしれないという説を唱えていた。→ミッシングリンクがあると予測している学者の危険。

歴史家や画商たちは失われた宝は自分たちに発見されるのを待っているという考えに常に魅了されている。だからそれらしきものが出てくると、調査の基準を下げてしまう。

ユーゴスラビア ザグレブ美術館、1987

修復家・画家のエリック・ヘボーンはティエポロやルーベンスの贋作を100点を描いたと告白→ワシントンNG,大英博、NYのモルガン・ライブラリー&ミュージック

ヘボーンは1996年ローマで殺された

どんな絵もそれ自体が嘘をつくわけではない。人を騙しうるのは専門家の意見だけである。ヘボーンの言葉p264

もしその絵が優れたものなら、それ自体固有の価値を持つのではなかろうか。鑑定家アリーヌ・サーリネンの言葉

ピカソは偽物でも本当によいものならサインすると言った。



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ピサロの「農家の娘」とMETの関連作品

2015-09-02 15:52:11 | 西洋美術

茨城県近代美術館蔵のピサロのパステル画「農家の娘」は、ニューヨークのメトロポリタン美術館(The MET)の油彩画「二人の若い農婦」の画面前景に大きく登場する左側の女性を描いたものである。
つまり茨城県近代美術館の作品はMETのこのピサロのための習作である。

METの作品は、「おしゃべり」と題されることもあるが、同館では単に「二人の若い農婦」としている。
実際、この作品を見るとそんなに夢中で<おしゃべり>しているような気配はあまり感じられない。(METのタイトルは、1892年1~2月の展覧会カタログに従ったものである。また「おしゃべり」は、1939年のカタログ・レゾネに拠るものである。)

ここには<おしゃべり>と言うよりも、何か大きくモニュメンタルな、静かな威厳に満ちた雰囲気がある。

農村風景とそこに配した人物に対するピサロの芸術的=思想的信条が画面に滲み出ているからだろう。

ピサロにとって急速な近代化は決して愉快なものではなかった。
この作品の背景のような大地とそこに生活する人間こそが第一に重要なものである。

しかし、農村生活と働く人間たちへの尊厳の眼差しは、ミレーのようにかなり理想化した姿によって表現されるのではない。むしろ、ありのままに生きている人間の姿にそれを見ていこうという態度なのである。
そして、その同時代性や画面作りには、ドガやスーラの人物設定と共有するものがある。

ただし、この作品の二人の女性のポーズは、それほどは似ていないのだが、ピサロが見ているはずのミレーの木版画から借りてきた可能性も指摘されている。

だが、そこには頬杖をついたポーズはない。これは、日常的な姿勢だが、描くのは難しい。これには、実際のモデルを使って入念な予備的習作を必要としたのではないか。

それが、茨城県が持っている作品となったのだろう。

METの作品における右側の女性を描いた同等な習作は知られていない。
これは、頬杖をついたポーズほどは難しくはなさそうなので、鋤を持った人物像のミレーの木版画がかなり参考になっているのかもしれない。

さて、画面前景左側の女性だが、この人はウージェニ・エストリュック、通称ニニと同定されている。彼女はピサロの妻ジュリー・ベレイの姪にあたる人物で、ピサロの母のメードとして働いた。1863年に生まれ、1931年に亡くなっている。

この情報は茨城県近代美術館にとっては重要だろう。

なお、METの作品解説では、「農家の娘」が茨城県近代美術館蔵になっていることは、2014年時点でも承知していない。フランスの個人蔵のままになっている。

それから、茨城県の作品は1892年作となっているが、METの作品が1891年の夏に始まり、1892年の1月半ばに完成しているのだから、むしろ1891年の可能性が高いように思われる。

METの作品は、ピサロが初めて大きな成功を収める1892年1月下旬から始まった展覧会に出品された。が、この作品は売られずに、後に彼の妻に贈られた。

ピサロの様式は、1891年までに、それまで過去5年間ほど続いていた点描法から離れている。
しかし、METの作品には、非常に明るい点描法的な雰囲気やパステル画風な筆致や色彩も感じられる。




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ピサロ2点(茨城県近代美術館蔵)の関連作品はメットにある!

2015-09-01 11:16:57 | 西洋美術

茨城県近代美術館に油彩の風景画1点(「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」)とパステルの人物画1点(「農家の娘」)、計2点のピサロの絵画がある。

地元の美術館に詳しい方なら、よく知られているかもしれない。
だが、この2点の関連作品がいずれもニューヨークの有名なメトロポリタン美術館(通称メット)にあると言ったら「えっ、ほんとう?そうなの!」と素直に驚いてくれる人もあろう。

また、それによっていっそう興味を持ってくれる人もいようし、そこからさらに作品への見方や評価を改めてくれる人も出て来るかもしれない。

さて、メットにおける前者の関連作品とはグルーエットの丘、ポントワーズ付近である。(その他、メット以外にも、この作品の関連作品は複数ある。)

また、後者の関連作品は二人の若い農婦である。

これは、ピサロのエラニーの家近くの風景を背景にして描いた明るい作品である。二人の農家の女性を大きく、力強く画面前景に据えた構図は、その背景とともに、まさに彼の芸術的=思想的信条を直接伝えるものとなっている。
茨城の作品は、その二人の農婦のうちの左側の女性であることは、このリンク画像によって明らかだろう。

ところで、メットの「グルーエットの丘、ポントワーズ付近」の制作年は、1878年の春頃と推定されている。一方、茨城の油彩画には1878年の年記がある。

茨城の作品もかつては「グルーエットの丘からの眺め、ポントワーズ」と題されていたが、外国の「最新の研究成果」に従って改題された。

グラット=コックとグルーエットの丘では、おそらく今では地元の人でも区別がつかない程度の違いでしかないが、数十メートル、もっと離れていても数百メートル程度の範囲での違いでしかないが、それでも作品名は改題された。

メットの「二人の若い農婦」は、同館の解説によれば、1891年の夏に始まり1892年の1月半ばに完成した。
一方茨城県のパステル画は1892年の制作年となっている。

もし茨城のこの作品がメットの作品の予備的習作とすれば(明らかにそのように思われるが)、制作年の再考も、タイトル改題と同様に非常に大事なものであるから、必要になってくるかもしれない。

(追記)同館が無料で配っている「グラット=コックの丘からの眺め、ポントワーズ」のカードでは、制作年が「1878年頃」となっているものがある。が、これは年記があるのだから1878年としてよいはずだ。

メットのこの関連作品にはかつて偽の署名が画面右下に記されていた。それは消されたが、そういうものでない限り、茨城の作品は1878年作でよいと思う。

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贋作はどのくらいあるのか

2015-08-10 13:00:08 | 西洋美術
メットの館長経験者はこんなことを言っている。

「わたしはメトロポリタン美術館に15年ほど在職し、そのあいだにあらゆる分野の美術品を5万点は調べたと思う。じつにその40パーセントが、偽物か、修復しすぎたものか、年代の特定をまちがえたせいで贋作同然に扱われても仕方がないようなものだった。その後、偽物が占める割合はさらに大きくなっているものと思われる。」

また私の身近なところでは、小川芋銭の作品について、小川芋銭研究センターの首席学芸員が『小川芋銭全作品集』(挿絵編)で近年こう書いている。

「芋銭は贋作の非常に多い画家でもある。市中に出回っている作品の七~八割は、真筆と認めがたいと囁かれているほどである。「小川芋銭研究センター」を立ち上げてから、多くの芋銭作品が持ち込まれたが、総てと言っても良いほど一顧に値しないものばかりで、気持ちの晴れ晴れする作品に巡り合う機会には恵まれなかった。」

大変な数である。ここまでの数値は私もちょっと予想できなかった。芋銭の贋作がこんなにも多いとは思わなかった。

もっとも、私の経験でも、たまたま見たネットオークション経由の、中村彝の真作と思われるものは、1点たりともなかった。

それらは、明白な贋作がすべてであり、持ち主には気の毒だが、一見しただけでそれと判断できるものばかりであった。

美術館では贋作をそれと知って展示することは、特別な場合以外はないが、知らずに展示してしまうことはあるだろう。

あるいは館内でもその作品についての扱いが明確でないものは、展示されてしまうことはあるだろう。

しかし、悲しいのは、自分では真贋が分からないのに、その美術館の慣習に従うだけで、学芸員が展示しない場合だ。

美術館に収蔵されている作品は、すべて真作と見做してよいはずであるが、実際には、館内において贋作の疑いがあって展示できない作品がある場合もある。

本来そうした作品がある場合は、館としての明確な見解を出しておくべきなのだが、噂や館内での言い伝えでそうなっていることもままあるようだ。触らぬ神に祟りなしのまま相当年数放置されている状態である。

そういう場合、やはり研究しなければならない。学芸員個人がそれぞれに心の中だけで疑念を抱いているだけではだめなのだ。

個人で心許ないなら、グループの研究という形をとって、紀要論文にまとめ上げ、どこまでが分かっており、どこからが分からないのか、または、どこが分からないのか、はっきりすべきだ。

私の経験では、長年展示されずに、あってなきがごとき扱いの作品があった。
しかし実際に調べてみると、なぜその作品が贋作扱いされてきたのか根拠が解らない、そういう作品であった。

例えば幾つかの版画は、すべてリトグラフとなっていた。その中には、明らかに凹版画であり、よく見ればドライポイントであることが分かるのに、リトグラフとされたまま、贋作扱いされていたものがあった。

これは贋作か真作か以前の問題で、最初から技法の識別がなされていなかったという例だ。

美術書で版画の技法について知っていても、実際には自分の眼で何も確かめることができないのなら、謙虚に無知のままでいた方がいい。

贋作と噂されていた作品には、確かに真作とは呼べないような作品もあったが、それ以前の問題もあったのだ。

しかし、一括寄贈や、一括購入などの作品の中には、贋作が混じっている場合も確かにあるかもしれない。

こうした場合、寄贈者や資金の提供者、もしくは上司の仕事に遠慮して、なかなか贋作が混じっている(いた)とは言えないことも、あるようだ。
それが館内の言い伝えという形で引き継がれていくのかも知れない。

しかし、館内でそれが共有されているだけでは不十分である。それは、単なる無責任体制に繋がるだけかもしれない。

もちろん美術品は値段があまりに高いから、真実がわかった場合の予想外の影響の大きさという心配も確かにあるにはあるだろう。

場合によっては、名誉毀損などの裁判に巻き込まれる恐れだってなしとはしないし、そこに良からぬ者が絡んでいたら、刑事事件にすら発展するかもしれない。

実際に現実の世界で、それは贋作です、と言うのには、大きな勇気が必要だ。

いや仲間内や陰で言うのはまだ容易かも知れない。
それを公然と文字にして表現するのが難しいのである。



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シニャックの水彩画「パリのシテ島」茨城県近代美術館蔵

2015-07-22 12:10:16 | 西洋美術



上図の写真は、茨城県近代美術館が無料で配布している、裏にこの作品の解説が付いたカードである。

この作品の画面右下に署名のように見えるのは、実は肉筆の署名ではなく、シニャックのアトリエ印だ。
もっともこれ自体にも気づく人は少ないが。

(このカードの写真では、おそらくそれが視認できないだろうから、所蔵館の作品検索システムから、ぜひ、拡大して この作品の良い画像をご覧ください。)

さて、この作品のタイトルは「パリのシテ島」である。

しかし、この作品ではパリの特徴的な建物が見当たらず、画面右手がシテ島なのか、左手がそうなのか、一見したところでは判断が難しい。

いったい、どちらだ?

分からない。

だが、繰り返すが、この作品のタイトルは、「パリのシテ島」である。

そうであるからには、石壁と木が2本だけ描かれているように見える画面前景部、すなわち画面の右側の方がシテ島なのか、それとも、セーヌ川と建物群が描いてある画面左側、つまり対岸の方がシテ島なのか、何とかはっきりさせなければならないだろう。

来館者からも、「で、どちら側がシテ島なんですか」というシンプルだけれど、まっとうな質問が飛んでくるのが予想される。

前にも書いたが、絵や写真だけ見て、川がどちらの方向に流れているかを判断するのは、至難の業である。
実際に肉眼で見てもわからない場合だってあるのだから。

だから、この作品でも、セーヌ川は画面前景に向かって流れているのか、後景に向かって流れているのか、これも分からない。

このセーヌ川は、グラン・ブラ(シテ島の北側の支流)なのか、プティ・ブラ(シテ島の南側の支流)なのかも、これだけでは分からない。分かるとすれば、天才的なパリ通(こういう人もいるらしい?)ではなかろうか。

このように、この作品は、これを見ているだけでは、その描かれている対象に関しては、何も分からない尽くしなのだ。

そこで、シニャックのカタログ・レゾネであるカシャンの本を参照する。

カシャン本を参照すると、茨城のこの作品を「関連作品」とはしていないが、ほとんど同じ構図の油彩作品が2点あることに気づく。

「ル・ポン・ヌフ(プティ・ブラ)」(1913年作、下図の上)と「ル・ポン・ヌフ、プティ・ブラ」(1932‐34年作、下図の下)である。





これらの作品の画題が傍証するように、実は茨城の作品も、プティ・ブラ側を描いていることが分かる。

ここまで分かれば、あとは、この川の流れが、画面の奥行に向かって流れているのか、それとも、画面の前景部に向かって流れているのかによって、この作品の左右どちら側が、シテ島なのかを決定できるだろう。

すなわち、このプティ・ブラが奥行に向かって流れているなら、画面右側がシテ島であり、左側がセーヌ左岸ということになる。手前にそれが流れているなら、画面右側がセーヌ左岸で、左側がシテ島ということになる。

そこで、地図を広げて、どのような視点が可能かを考えてみる。

プティ・ブラ側のシテ島にかかる橋には、ポン・ヌフの他、サン・ミシェル橋、プティ・ポン(小橋)、ポン・オ・ドゥブル、アルシュヴェーシェ橋があるけれど、画面中央部の橋は、ポン・ヌフであることが先のカシャン本に掲げられた2点の作品名から知られる。

そこで、再び先の同じ構図の作品2点と、茨城の作品とを比較しながらよく見てみると、ポン・ヌフのさらに向こう側に小さくもう一つの橋が描かれていることが分かる。

そして、この橋が何であるかが分かることによって、このプティ・ブラがどちらに向かって流れているのかがわかるであろう。

調べてみた結果、これはポン・デザールである。
サン・ミシェル橋ではない。

すなわち、画面の奥行に向かって、この支流は流れているのである。

だから画面右手が、シテ島なのだ。

どうして、ポン・ヌフの下に見える橋がポン・デザールであることが分かったか。それは次の理由による。

すなわち、コンティ河岸付近のどこからポン・ヌフを眺めても、その向こうにサン・ミシェル橋はあのように見えない。

これに反して、シテ島のオルフェーヴル河岸通りから降りてポン・ヌフを眺めたなら、その向こうにポン・デザールがあのように見えてくるからである。

これを疑問に思うなら、今日ネットにあふれているパリの画像でそれを確認してみるといい。

さて、それが、ポン・デザールと分かれば、ポン・ヌフの上方にルーヴルの屋根が見え隠れするはずである。

事実、カシャン本に載っている2点の作品の遠景には、そう言われればわかるようなルーヴルらしき建物の影がかすんで見えている。

だから、これを根拠に、逆にポン・ヌフの下に見えている橋は、ポン・デザールであると言ってもよい。

ところで、茨城の水彩画では、このルーヴルの影がはっきりとは現れてはいないように見える。

それから、水彩画の画面右側に描かれている木も本当は2本でなく、前後にそれぞれ重なっており、4本以上であることが、2点の油彩画との比較から想定しなければならないだろう。

もともと、茨城の水彩画と2点の油彩作品とは、若干、異なる視点が採られている。
そのため若干の視点の違いによる構図の違いも生じているのだ。

茨城の水彩作品、画面中央最遠景には、2本の塔のように見える部分が描かれているが、実は、これこそがルーヴルの一部だったのである。

画面のちょうど中心部の最遠景部に2本の塔のように描かれているのは、調べてやっと分かったことだが、これはカルーゼル橋に面したルーヴル美術館の「レ・グラン・ギシェ・デュ・カルーゼル」の最上高部分なのである。

最初に触れたカードの図柄には、その位置を2本の矢印で示しておいた。

※この作品のアトリエ印、iphoneなどから、検索システムを通して見ても、よく見えませんでした。私の場合、PCから所蔵館の検索システムを利用し、そこから拡大すると見えました。

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