美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

小川芋銭『草汁漫画』「小春の午後」(短文)とロバート・バーンズ

2019-08-29 11:30:00 | 小川芋銭
芋銭の短文「小春の午後」(短文の内容を示す画像は前の記事を参照されたい)と「柿の秋」図とは、<柿の収穫>に多少の関連性が認められるとはいうものの、主題に関しては、ほとんど共通点を見出し難い。

柿の収穫に招かれた「愛らしき客人」が、猿である可能性も考えたが、それでは、その後の文章との繋がりもうまくいかないし、蟹に相当する者も見当たらない。

だから、ここでは「小春の午後」は、全く独立した短文として読んでみる他はない。

しかし、それにしても、この短文の意味を理解するのはかなり難しいのではないか。

柿の収穫に招かれた客人は、貰った柿を持って小鳥のように嬉々として家路や野辺に帰る。

次に雄鶏が登場し、餌を見つけて雌鶏と雛とを呼ぶ。
雌鶏は7羽、雛は16羽で、なぜか見つけた餌は、先着の雌鶏が喰べてしまうが、これは何か比喩的な意味があることなのだろうか。

そして場面は変わり、今度は小蝶が「拙き農夫」の手元に飛んできたようだ。が、この農夫はなぜか「南瓜の蔓に鎌かけて、妻の怒りよりひそかにバーンスが悔い」に恥じている。

これだけの筋書きだが、小蝶や農夫やバーンスの互いの関係も何だか解らないし、農夫の妻もどうして怒っているのか曖昧だ。

「バーンスが悔い」を農夫もしでかしたから妻の怒りを買ったようなのだが…それにしてもかなり唐突な展開だ。

そもそも、この短文に突如出てくる「バーンス」とはいったい誰なのか。

私には、芋銭の時代にはよく知られていたスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ のことが思い当たる。

彼は「農民詩人」とも評されることがあるようだから、これは当時の芋銭の注意を引いたかもしれない。

芋銭は田舎に住んではいても、日頃、農業に従事したわけではない。ただ彼も田舎に住んで俳句などを嗜んでいたわけだから、「農民詩人」の面はある。

芋銭がロバート・バーンズに関心を抱いていても不思議はない。

バーンズは、「蛍の光」や「故郷の空」などの原曲の詞を書いた詩人として最も有名だが、一方、奔放な女性関係でも知られている。

寺西範恭氏の論文(「ダンフリースでのロバート・バーンズと女性たち」)によると、バーンズの妻は、彼が37歳で亡くなった直後、第7子を産んでいるが、彼は他に「5人の女性に5人の私生児を産ませた」ともいう。
すると単純計算でもバーンズは12人の子をもうけたことになろう。

さらに彼が愛し、その詩の創作に多大な影響を与えたことで、その名が知られている女性も相当数いるから、短い生涯ながら、18世紀の詩人バーンズが思いを寄せた女性の数は正確に数えることが難しいほどである。だが、10人ほどはいたと考えてもよいのではなかろうか。

その彼が女性を愛することについて何らかの「悔い」を残したかと言えば、どうもそうではない。むしろ反対に、自己の詩作の源泉として必要なことだと主張している。

だが妻はそれをどう見ていたか…嫉妬や怒りがなかったとは、あまり想像できない。

しかし、これだけ自己の内面における恋愛の欲求に忠実であるなら、現実の生活ももちろんただでは済まなかった。

子どもの養育費などはやはり大変だったらしく、彼は収税吏の仕事に就いて、家庭の生活を破綻させることなく維持していく現実感覚も一方で持っていた。

さて、ここまでバーンズの伝記的事実を見ていくと、ここで思い出されるのは、芋銭の短文における、妙に数字に拘る雌鶏7羽、雛16羽などというフレーズではなかろうか。

芋銭がバーンズの恋愛相手が何人いて、何人の子を妻や女性たちに産ませたと考えていたかは今のところ分からないが、明治時代の文化人から見てもいかにバーンズが多くの女性たちと交際し、多くの子どもたちを産ませたかはやはり驚きの数字であったのではなかろうか。

しかも、それでも彼は生活を破綻させずに名を成した。それもいっそうの驚きであったろう。

もちろん、1羽の雄鶏が見つけた「分つに足らぬ少量の餌は先着の雌が馳走になり了りぬ」という家庭の状況ではあったろう。餌は雛にも充分、行き渡らない。

先着の雌鶏だけが馳走にあずかる。これは、すべて比喩的な表現だが、比較的早期に先着した雌鶏は妻のことだろうか。

こうしてこの芋銭の短文を読んでいくと、その内容は、スコットランド18世紀の国民的詩人、ロバート・バーンズの伝記的事実に重ねられ、いくぶん皮肉を交えて、ここに紹介されているように思える。

してみると、「花蕎麦の床を離れた」小蝶も「拙き農夫」も、実はバーンズ自身のことを指しているのかもしれない。

このように読むかどうかは、もちろん読む人次第だ。だが、バーンズは明治の多くの文化人にかなり早くから知られていた。
夏目漱石や国木田独歩もバーンズについて書いている。

それについては、例えば難波利夫氏の「明治期のバーンズ流入」といった論文があるので参照されたい。

この難解な芋銭の短文をどう読むか、もっと筋の通った読み方があるのかもしれない。

上記の仮説は、あくまで現時点での私の読み方に過ぎない。


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小川芋銭『草汁漫画』の「小春の午後」(短文)と「柿の秋」図

2019-08-27 19:19:00 | 小川芋銭


(国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
上記の引用画像に見られる芋銭の短文、いったい何を言おうとしているのか、私にはよく解らないものだった。

秋の部における短文「トロイ合戦」と「あかき名はちりてもたかし」の賛のある次の頁の図との関連は、明確に読み解けたが、短文「小春の午後」と次の頁の2図「柿の秋」と「虫に鳥にも」との関連性は非常に謎が多い。

もし、「小春の午後」と次の図に関連があるとすれば「柿の秋」の図だろう。
なぜなら、この短文に「柿の収穫に招かれたる愛らしき客人」なる言葉が見出されるからである。

ところが、そう思ってこの短文を読んでいくと、ますます「柿の秋」の図との関連性の謎が深まっていくばかりだ。

何しろこの図と短文との関連性は「柿の秋」というタイトルと「柿の収穫」という語以外ほとんど見当たらないからだ。


(「柿の秋」(上)と「虫に鳥にも」(下)、画像は国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

「柿の秋」の図の上方に書いてある2文字は、右から「秋旼」とも読めるかもしれない。
だが、短文に見られる「柿の収穫」との関連からではないが、私は「秋収」と読んでいる。「春耕」に対する「秋収」である。

「春耕」は、春の部にその図があるので、その対比語の図があってもおかしくない。

「秋」の字は禾と火が、反対に位置して「秌」となっているが、このように書くのはそれほど珍しくないし、芋銭は他でもこう書いている。

「収」の字は、旧字体の旁では「收」で、偏は異字体で「将」の偏、またはその旧字体の「將」の偏が使われることがあるから、画像の2文字は「秌收」と読めるのである。

「秋旼」にも読めるが、それにしては日偏の第2画が長すぎないか。

「秋旼」、これは、秋の空を意味する言葉だ。ところが、図を見ると農家の屋根に満月を思わせる円が描かれ、その中におそらく柿の木とそれに登る猿、そしてその尻尾をハサミではさんでいる蟹が描かれている。

柿の収穫を狙った猿、それを阻止しようとする蟹のモティーフは、明らかに猿蟹合戦の物語から採られたものだろう。

ただし、屋根の上の蟹はここから独立して、王羲之の屋根の上の鵞鳥とともに、『草汁漫画』のシンボル的モティーフとなっている。これに加えて柿の木の天辺で弓を弾く案山子。
その証拠が、この本の表紙にあるこれらを合わせた図である。

さて、猿蟹合戦に由来する蟹に戻るが、実際、これを裏付ける芋銭の別な図もある。

が、この『草汁漫画』の「望の月」の上下2図のうち、上の図にも柿の木を挟んで蟹と猿とが対峙する図がある。

これらはいずれも蟹と猿とが影絵のようにシルエットで表現されており、物語の筋書とは異なるかも知れないが、連続して見ていくと、あたかも月夜に柿を盗みに来た猿とそれを阻止する蟹の時間展開が追える構成となる。

とすれば、「柿の秋」図は、藁葺き屋根の上方に満月が出ており、その中に猿蟹の対決の影絵が見られるものだから、2文字は秋の昼の空を意味する「秋旼」より、むしろ「秌收(秋収)」と読む方がよいのではないか。
ここでは直接的には柿の収穫の意味である。

しかし「柿の秋」と短文「小春の午後」をあえて関連付けると、そこに「午餉の後、柿の收穫に招かれたる愛らしき客人」とあるから、これは明らかに秋の昼下がりの光景だとも思われよう。

すると、文字の読み方ではなく、図として描かれているのは「秋旼」でもよいことになる。

けれども、猿が「愛らしき客人」というのはやはり引っ掛かりがある。
しかも、この短文を読んでいくと、この客人はどうも複数いるようだ。
柿の種をくれた意地悪な一匹の猿ではないし、猿という語も出てこない。

さらに、蟹に相当する者が、この短文には全く登場していないのだ。

ここに言及されるのは、いつのまにか「塒につきし尻尾おかしき雄鶏」と、雌鶏7羽、雛16羽だ。

それに突如、小蝶、「拙き農夫」が登場する。

そして、この農夫はなぜか「妻の怒りよりひそかにバーンスが悔い」に恥じている。
その「バーンスが悔い」とは何だろう。

このような登場者たちがいる短文なのだが、全体を通した意味の関連性をつかむのはかなり難しい。少なくとも私には難しかった。

芋銭はこの短文でいったい何を言おうとしているのだろうか。





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小川芋銭『草汁漫画』「立田姫」の図

2019-08-06 22:56:00 | 小川芋銭


(画像は国立国会図書館デジタルコレクションより引用)

秋の部の76と77ページに立田姫に関する句と図がある。

前のページにある画賛句は、二つあり、一つ目は「画賛 横顔の高尾なるらし天の川」、二つ目は「立田姫 すっきりと青空高し立田姫」である。

二つ目の句は次のページの「秋まだ早き立田姫」を描いたものに関連したものと理解できるが、最初の画賛句はその図に関連したものとはとうてい思えない。

それなら、なぜこの画賛句は、唐突にこのページにあるのか。そして、この画賛句は、何の作品のためのものだったのだろうか。

それを考えていくと、どうもこの『草汁漫画』の秋の部に編集上の手違いが生じたのではないかと思う。

と言うのは、立田姫の図が急遽このページに組み込まれたと思われるからだ。

第一、画題を示すページに、立田姫の図の標題が完全に抜けて落ちていることも不思議だし、この図にはこんな言葉が添えられていることも特別な注意を引くだろう。

秋蘋兄遠く那須野より送らるるところ

実は、佐藤秋蘋は、思いがけなくも、この『漫画』が公刊される2ヶ月ほど前の明治41年春に亡くなったのだ。

すなわち、立田姫の図は、秋蘋が永遠に旅立ったことに関連するものであった。

だから、恰も運命の糸を紡ぐような姿で、錦繍を織り、「立つ、旅立つ」という言葉を持った立田姫の図が選ばれたと考えられる。

それに、秋蘋に秋の字が含まれることから、亡くなったのはこの年の春だが、遅くとも夏ごろまでに制されていた秋の女神、立田姫の図に「秋蘋兄遠く那須野より送らるるところ」と書き込まれたのではないか。

「すっきりと青空高し立田姫」の句も、文字通り読んでもよいが、本当は哀しみの青空に違いない。

ゆえにこのページは、おそらく哀悼の意が込められたもので、この本に急遽差し込まれ、様々な編集上の手違いも生じたのではないかと思われる。

そして、更にいうなら、一つ目の画賛句「横顔の高尾なるらし天の川」と二つ目の句「すっきりと青空高し立田姫」があるページは、本当は、大和式ヘレネーの図がある「トロイ合戦」の図に連続すべきだったのではないか、そんなふうに思われるのである。

なぜなら、先に見たように、大和式のヘレネーは、太夫、それも高尾太夫の図であるからだ。

そうすると、最初の画賛句「横顔の高尾らるらし天の川」も「トロイ合戦」に矛盾なく繋がるのである。

しかし、秋蘋の急逝という事情の中で生じた手違いで、おそらく版を組み直す時間もないまま、または、それにほとんど気付く余裕もないまま、このようなページ構成で公刊されたものと推測するのである。

[追記]
北畠健氏の私信(2020年10月23日)でのご教示に拠れば、立田姫の図の制作年は、『小川芋銭全作品集 挿絵編』に示されている明治41年ではなく、秋蘋が亡くなる前の明治37年初秋の可能性が大である。
その場合、本稿は書き改めなければならないが、『草汁漫画』の出版に当たって、哀悼の意を表するため芋銭がこの図を急遽、差し込んだ可能性は残しておきたい。(2020年10月26日記す)
[追記2]
この図が、秋蘋の存命中に制作されたものとしても、秋蘋没後間もなく公刊されたこの本にも急遽、差し込まれたとすれば、芋銭がこの作品をもって秋蘋の死を悼んでいるとは考えられよう。(同日、記す)
[追記3]
しかし、この図が、明治37年初秋の制作とすれば、当然、当初から立田姫に「立つ、旅立つ」の意味が込められて制作されたとか、哀悼の意を表して制作されたと言うことはできない。
とは言え、「秋の人」である秋蘋没後まもなく『草汁漫画』でこの図に接した親しい人々は、ここにやはり哀悼の意味も加えて読み取ったと思われるのである。(2020年10月27日記)
[追記4]
画面右下の読みは、「秋まだ早き立田姫が蛙手」と思われる。かつて「蛙手(かえで)」の部分を「様子」と私も読んでしまったことがあるが、これは「蛙手」と読むべきだろう。(2022年12月記す)


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小川芋銭『草汁漫画』「トロイ合戦」(2)

2019-08-06 17:46:00 | 小川芋銭
大和式の太夫に見立てられたヘレネーだが、さて、この太夫とは誰だろう。

賛には「あかき名はちりてもたかし」とある。最初これは、単にヘレネーのことかと思い、それ以上深く考えなかったが、そうではない。ヘレネーのことでもあるが、それだけではなかった。

すなわち、この太夫は誰か、それを探ろうとした時に、その賛が初めてヒントになり得ることに気づいた。

そう思って探っていくと高尾太夫に行き着くのだ。

おそらく初代、高尾太夫。彼女の句とされるものにこんなものがあるからだ。

寒風にもろくも落つる紅葉かな

彼女こそ、「あかき名はちりてもたかし」の賛が意味する、「落つる紅葉」の太夫なのだ。そして「紅葉」だからこそ、このヘレネーの図が秋の部に入っていたのだ、そう理解できる。

芋銭は、おそらく、彼女が「紅葉」、それも「落つる紅葉」に関連がある太夫であることを、図の一番下に一葉描いて、このことをもとより暗示していた。

そうすると、賛にある「あかき名はちりても」に完全に符号する。

「あかき名」とは「誇り高き、よく知られた、有名な」というほどの意味に解せられるが、「紅葉」の赤色とも掛けていると取れるし、「ちりても」はもちろん「落つる」ということで言うまでもない。

さらに付け加えるなら、芋銭の画賛句「横顔の高尾なるらし天の川」も、これによって「トロイ合戦」の大和式ヘレネーの図に関連付けることができる。

その詳しい理由は、「立田姫」の図の画賛句との関連があるから、次回に述べよう。

その画賛句は、「すっきりと青空高し立田姫」の句に並べられて唐突に76ページに出てくる。

それは、単に青空と夜空の天の川が対比されているというだけではない。

ちなみに「天の川」は、夏ではなく、季語としては秋でよい。また、「横顔の高尾」とあるのは、ヘレネーでもあるからだろう。今は、これだけ述べておく。



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小川芋銭『草汁漫画』「トロイ合戦」(1)

2019-08-06 13:29:00 | 小川芋銭


(画像は、国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
「トロイ合戦」は、周知の通り、「パリスの審判」で有名なトロイアの王子パリスが、スパルタ王妃ヘレネーを奪ったことに起因するとされる戦争である。

芋銭のこの図は、「ヘレナ」を「大和式」に太夫に見立てて短文と賛文「あかき名はちりてもたかし」を添えた「漫画」だが、ここで短文の内容と図の意味するところを解き明かしていこう。

まいまいつぶろ(1)の角の先触氏蛮氏の争(2)や利なり、是は抑トロイの軍物語、大和式に写したヘレナが朱羅宇の雁首(3)から雲雨を起こして希臘の神々さんを驚かす、実にや荒るる大象をも引留るは女力(4)、恐ろしと云へば云へ紅黄緑紫(5)の色あるはトロイの戦なりけり

1)「まいまいつぶろ」、これはカタツムリのことでその角の先の 2)「触氏と蛮氏との争い」だから、「蛮触の争い」で、「蝸牛角上の争い」。これは了見が小さく詰まらない、利を求めた争い。

3)「朱羅宇」は、ここでは花魁などが用いる朱色の煙管の意。煙管の吸口と椀状に曲がった火皿の「雁首」の間を羅宇という。

4)「荒るる大象をも引留るは女力」の「大象」とは、「女の髪の毛には大象も繋がる」の「大象」と同じで、ここでは男の煩悩を表す。すなわち、女は男の心を引きつけ、戦争の種になるほどの強い力を持っているの意味だろう。なお、芋銭は、女の黒髪が蛇になって象に巻きつく図も描いている。『小川芋銭全作品集 挿絵編』293番参照。

5)「紅黄緑紫」は、ここでは色にかかる形容語で、4つの美しいを色を列挙している。
が、列挙される色やその順番などは文例によって異なることがあるようだ。
芋銭は101ページの「露の戯れ」では「黄紅紫緑」と言っている。文筆家により、他の色を列挙している例が見られる。

さて、この図でヘレネーに見立てられている太夫はいったい誰だろう。これを次に推論して、他の図との意外な関連を探っていく。
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