美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

20200126までの呟き

2020-02-18 21:01:00 | 日々の呟き
依頼書やら賞状やらを受け取る人と与える人の写真が新聞に載っていた。
なぜか与える人だけがカメラの方向に顔を向けていた。
そんなに自分の顔が写されたいのか?

今日の毎日新聞、人生相談の回答。相談者は発達障害らしい46歳の娘とその娘に育てられている小六の孫のことを心配しているのに、発達障害の心配に触れた視点からの回答ではなかったのが残念。

電子マネーやデジタル通貨ばかりが流通するようになれば、本物の紙幣などにリアリティがなくなる。当該国民がそれを本物と見分ける能力も衰え、偽物紙幣で払われても気づかなくなる。そして、元々人為的な発明品である印刷された本物紙幣の価値崩壊が始まるに違いない。

世の中の他のすべての価値と同様に大多数の芸術作品の価値は、きわめて不安定なものであり、本質的に主観的なものだ。美術館や評論家や美術史研究なども、その不安定で主観的な価値の一部を可能な限り共有して客観的で永続的な価値に置き換えたいと思っている人々の国際的な装置と捉えうる。

土浦市の図書館下にあるギャラリーで吉田正雄の世界展。1961年に氏がパリに行った時はまだアンカレッジ経由しかなく乗客は8人で、日本人は二人という心細さ。機内で「何なりとお申し付けください」と言われたので「僕の隣に座って」とお願いしたら笑われたとのこと。パリ行きもまさに隔世の感!

画家、吉田正雄氏は、1961年のパリは本当に真っ黒だったとその印象を語っている。パリの建物が洗浄されたのはその後のことだったのだな。今、パリをそんな風に言う人はいないだろうから、なぜそんなに真っ黒だったのか分からないだろう。#土浦
#吉田正雄

<思い出すだけだけで恥ずかしくなり、「ワアッ!」と叫び出したくなることがたくさんある。私もそう。詳しくは書けません。たぶん小説でも書けないでしょう。…「あの頃」の自分を知っている誰かの眼…彼らこそ…>
今日の毎日新聞、人生相談、高橋源一郎氏の回答より。

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小川芋銭『草汁漫画』「柚味噌」の画賛

2020-02-18 20:37:00 | 小川芋銭


(画像は国立国会図書館のデジタルコレクションから引用)

『草汁漫画』の冬の部にある「柚味噌」の図の画賛に「炉開や床は維摩に掛替る」というのがある。

冬の部の画賛に一見相応しいような月並俳句に見えよう。

しかし、この画賛句、非常に問題が多い。
まず、第一に意味がよくわからない。

炉開きになると床の間の掛け軸は、なぜ維摩像に替わるのだろう。それは、一般的、習慣的なことなのか…?

ところがこの画賛句、既に北畠健氏に指摘されているように元の句は、蕪村の
「炉ふさぎや床は維摩に掛替る」
なのだ。

炉開きと炉塞ぎでは、まるで季節が反対だから、これは実に問題だ。

絵は柚味噌だから冬の部にあり、当然、「炉開き」の画賛句でなければならない。
だから、これでは全く画賛として解釈のしようがないではないか!

では、本来の蕪村の句
「炉ふさぎや床は維摩に掛替る」
とはどんな意味なのだろう。

これもなかなか解釈が難しい。
炉塞ぎの句としてよく例に挙げられているのだが、その意味を教えてくれるものはネット空間には無さそうである。

なぜ、炉塞ぎの季節になると、床の間の掛け軸が維摩像に「掛替る」のか?

維摩像にするのは、当時のある範囲の文人たちの習慣なのか、それとも蕪村だけの意味付けがあるのか?

そして、この「掛替る」は、「掛け替える」と読むべきなのか、「掛け替わる」と読むべきなのか?

こんな疑問が次から次へとわいてきた。
芋銭の(とり違え?または思い違いによる?)画賛の意味を解釈する前に、本来の蕪村の句の意味もどうにもよく解らないでいた。

それでお手上げ状態だったのだが、私の地元の図書館司書であるMさんの助力で、参考になる文献を探していただいた。次回はそれについて次に書いてみよう。
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