美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

中村彝の洲崎義郎宛書簡(大正9年1月18日)《きい》か《トウ》か、それとも…(続き)

2024-06-18 11:34:30 | 中村彝

 前回のこの記事で、標記の大正9年1月18日の書簡に出てくる腎臓病で倒れた「ばァや」は、「きい」ではなく、土田トウでもないとすれば、それは「鬼山のバアサン」に当たる可能性があると述べた。

 《きい》でないことは、正にこの書簡の存在によって、証明される。ここには、《きい》が「神田の『オバサン』」として語られているからだ。しかし、腎臓病の《ばァや》は土田トウでもないと思われる。《トウ》は、20日過ぎに洲崎が上京して連れてきた《ばァや》と思われるからだ。

 いまのところ柏崎のばァやとして可能性があるのは、名前が知られている人としては、「鬼山のバアサン」しかいないのだ。だが、本当に彼女が柏崎から上京していたかどうかは分からない。

 しかし、いずれにせよ上京していたとすれば、1月13日以前からであることは、手紙の内容から分かる。

 この問題を考える上で、実は、興味深い別の書簡がある。この書簡は『藝術の無限感』には含まれていないが、すでに公刊されている。それは大正8年における彝の平磯行の前に書かれた書簡(6月18日)である。

 彝の平磯行の要因の一つとして、川崎久一氏が既に指摘しているように、「ヒステリー的カンシャクを起こす」ある《バアヤ》の存在があった。

 しかし、川崎氏はこの《バアヤ》を、彝としばしば衝突を起こした気性の激しい《きい》であると、あまり検証することなく述べている。そして優しく親切な《トウ》と対比的に記述する。だが、そうすると、この6月18日の書簡に「オバサン」として出てくる人は誰なのかという疑問が、ここでも出てきてしまうのである。

 すなわち、6月18日の書簡に出てくるヒステリー持ちの《バアヤ》は、「あなた(=彝)が死ぬとオバサンが来て又苛めにかかるから」と彝に言ったのであるが、このオバサンこそ神田のおばさんであり、《きい》のことではないか。彝はここでも《きい》を「婆や」と呼ぶのでなく、いつもの通り、「おばさん」と呼んでいたのだと思う。そうすると、ここにも《きい》でもなく、《トウ》でもないバアヤが彝のアトリエにいたことになる。しかもこの人は書簡の内容から、少なくとも2,3か月前からいたのである。

 それは誰なのか。

 既に彝の平磯行前からアトリエにいて、「不行届で病身」であり、「出るの入るの」と彝を悩まし、「若し私が病みついたりした時御世話してくれるか、どこへでも(病院の意)入れて手当てしてくれるか」と同じ病人の彝に「虫のいい要求」をし、しかも「給金」も貰っているバアヤは誰なのだろうか。

 彝は彼女のことを、この書簡の文脈の中で《奴》とか《彼奴》とか、呼んでいることも注目されよう。

 「奴が恐ろしいヒステリーを起こして器物を蹴飛ばしなげ散らかした」とか「奴の不安焦燥狂乱の原因」とか「彼奴が餘り夢を見過ぎて居る」とか厳しく批判し、小熊虎之助の影響かどうか、彝は彼女のヒステリーの原因も分析しようとしている。(続く)


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