大正9年1月18日に書いたと推定される中村彝の書簡は、その内容がきわめて重要なものながら、『藝術の無限感』にも、1997年の『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(新潟県立近代美術館刊)にも載っていない。
しかし、この書簡は、新潟県立近代美術館の『研究紀要』第16号(2017)に掲載されており、ネット上でも見られる。こうした寄贈された貴重な書簡(20点)が、松矢国憲氏により、他の関連書簡と共に紹介されている意義は大きい。ただ残念なことに、書簡資料の写真図版は小さく、PC上で拡大しても、文字を判読することは、かなり難しい。そのため検証はできないが、それでも文脈から明らかに誤読か誤植と思われる箇所が散見される。しかし書簡の内容は摑める。
書簡を読んでみると以下のようなことが書いてある。
①5日ほど前から「ばァや」が発病して、寝込んでいる。持病の腎臓病が悪化し、寒さと感冒が加わり、「死の転機」を見るかもしれないと恐れた。
②気の毒だが、自分も病気なので、面倒見られない。金平君に頼んで、慈善病院への入院を交渉させた。
③実家に帰らせるのは、彼女が家族から「憎悪と唾棄」の対象になっているので、難しい。帰らずに済むように、病院で「癒るか死ぬか出来る様に」祈っている。
④「可愛い、偏屈なばあや。お前の病弱と老と無力とは、次第にお前の頑固をほどいて漸く人生の会得に導きつつ、お前の魂に初めてのすがすがしい喜びと輝かしい自由とを蘇生らせかかって居たのに、ああこれからは、その同じ病と老と無力とが再びお前を運命の針の床へ追い込もうとして居る様に見える。」
⑤「ばァや」がいなくなった後は、神田の「オバサン」が押しかけてきそうだが、これは「不自由と苦痛を忍ぶ以上の苦痛なので…この親切だけは断じて」拒絶したい。
⑥しかし、新たな女中を見つけるのに窮している。(そこへ)貴兄の電報を拝見してとても喜んでいる。
以上のような内容だが、何だか③のように残酷にも見える表現がある。また、この書簡はもちろん洲崎宛だが、「ばァや」に直接呼びかけるような印象的なフレーズもある。それが④である。そして⑤のような、意外に見える彝の思いが記されている。
この書簡から分かることがある。
すなわち、ここに書かれている「ばァや」とは、岡崎きいのことではない。なぜなら神田の「オバサン」こそ彼女だからだ。腎臓病で入院した「ばァや」を《きい》としている詳細な年譜があるが、この書簡に従うなら、それは訂正しなければならない。その年譜では《きい》が腎臓病で倒れて入院したので、20日過ぎに洲崎が土田トウを柏崎から連れてくると記されている。
ではこの書簡における「ばァや」とは誰だろう。この書簡の解説によれば、その根拠は明らかでないが、それは土田トウだと言う。だが、そうすると伊原弥生宛ての書簡(大正9年1月21日)の末尾に「今明日中に越後の友人がばァやを連れて来て呉れることになって居ります」の「ばァや」とは誰なのだろうという疑問が出て来てしまう。
先の詳細な年譜では、腎臓病で倒れたのが岡崎きいで、越後の友人である洲崎が連れて来た「ばァや」が土田トウという読みであるが、腎臓病で倒れたのは《きい》ではないから、その場合、この病で倒れた人物を特定する必要があるだろう。
私は腎臓病で倒れたのは、これまであまり言及されることがなかったが、「鬼山のバアサン」というのもその候補かもしれないと思う。
「鬼山のバアサン」は、『中村彝・洲崎義郎宛書簡』に掲載の大正10年2月5日の書簡ではこんなふうに登場する。
「ばァヤはこちらでもまだ見つかりません。一二ありかけたのですが、丁度鬼山のバアサンの様に体に故障が出来て早速の間には合わないというのです。」
「鬼山のバアサン」は過去に体に故障が出てきてしまったバアサンであるから、腎臓病で倒れたばあやである可能性はあるだろう。(続く)