美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の書簡、「けれど私のソーニアは何処へ…」

2024-07-04 15:41:33 | 中村彝

 中村彝の友人洲崎義郎の著書『洲崎義郎回想録 進歩と平和への希求』(1984)の中に大正11年ころに撮られた家族写真がある。そこには義郎夫妻の他に二人の女の子と三人の男の子たちが写っている。

 そのうち女の子は章子(明治42年生まれ)と淑子(大正2年生まれ)の名が記されている。そして長年彝の書簡を保管してきて淑子は「次女」とある。

 しかしこの本の「年譜」を見ていくと、17歳で亡くなった章子は長女だが、淑子氏は「三女」とあり、以下年譜では若菜は四女、双子の万里英と百合英は、それぞれ五女と六女と記されている。が、なぜか次女の名前はどこにも記されていない。

 このようにこの本の写真のキャプションと年譜に違いが見られるが、次女を除く六女の名前まで記されている「年譜」と写真のキャプションと、果たしてどちらが正確な記述なのだろうか。

 そこで思い出されるのが、大正5年の彝の洲崎宛書簡である。

 この書簡は『藝術の無限感』では9月31日となっているが、新潟県立近代美術館では8月31日としているもので、少なくとも「裸体」の制作についての記述から、後者の日付が正しいと考えられるものである。

 この書簡は、何かの創作物についてでなければ、現実に彝が洲崎に哀悼の意を表しているものと読める。

「然し父としての経験のない私に何であなたの深い悲しみや思いが分かりましょう。あなたの手紙を読みながら、只胸苦しく涙ぐまれる許りで、慰めの言葉一つを申し上げる事の出来ない自分を今は情けなく思います。耳を澄まし心を緊(ひ)きしめて誠の声をききましょう。あなたの孩児(がいじ)は今も猶叫んでいる。否、永久にあなたの名を呼んで居ると心に思う事は出来ても、あなたの悲しい顔を思うと口に出す勇気がありません。『けれど私のソーニアは何処へ行ったの』と呼ぶあなたの声を聞きながら私は静かにあなたと母親の手を握って居たい。」

 もし先の本の年譜が正しいとするなら、彝がこの書簡で「ソーニア」と呼んでいる洲崎の幼女(次女)が大正5年の夏ごろに亡くなっていたと推測されることになる。

 しかしなぜ彝がその幼女を「ソーニア」と記しているのかは、分からない。ただ次のようなことを考えてみた。

 ソーニアと言う名は、よく知られているように、ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくる罪人の主人公ラスコーリニコフに救いを与えるきわめて重要な女性だが、ここでは彝が中村屋の相馬夫妻の四女を哲子と名付け、彼女をソフィアと呼んでいたことが先ず思い出される。なぜなら、ソーニアはソフィアの愛称であるからだ。

 そして、その哲子(ソフィア)は大正4年の12月に幼くして亡くなったばかりだった。彝には、洲崎の孩児を、相馬夫妻の孩児、哲子(ソフィア)に重なるように思え、「ソーニア」と呼んだのかもしれない。あるいは、洲崎の孩児も「哲子」のように「ソーニア(ソフィア)」に通じる名前を持っていたのかもしれないが、洲崎の本に何も記されていないので、そこまでは分からない。

 ただ、いずれにせよ悲しみにある洲崎を救ってくれる存在として、当時、洲崎自身も「ソーニア」を必要としていたことが書簡内容から想像される。

 「『けれど私のソーニアは何処へ行ったの』と呼ぶあなたの声を聞きながら私は静かにあなたと母親の手を握って居たい。」このように彝が洲崎への(おそらく返信として)これを書いているからだ。

 


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