中村彝は、生涯の終わりの頃にテーヌの『藝術の哲学』を和訳した原稿を残しているが、これは公刊されるに到らなかった。(この原稿は、現在、茨城県近代美術館にある。)
またルノワールが序文を寄せたヴィクトール・モッテ仏語訳のチェンニーノ・チェンニーニ『藝術の書』も訳したが、これは後年、藤井氏による和訳文が補足されて、出版されることになり、今日でも読まれている。
これは彝が敬愛するルノワールが序文を書いているので、彼は興味を抱いたのかもしれないが、ルノワールが一度古典回帰したように、彼自身も西洋絵画の古典技法を基礎から学んで置きたいと思ったのかもしれない。
彝のごく若いころのフランス語に関するエピソードでは、後に学者となった多湖実輝が語っていることが思い出される。
すなわち、明治39年12月、彼は彝とともに静岡県興津の亀島楼に遊んだが、その頃のことを、こう言っている。
「彝さんの仏蘭西語の力は驚くほど達者なものであったが、此の頃も毎夜私のためにレ・ミゼラブルを訳してくれた。又ミレーの伝記の仏語の本を持って来て読んで聞かせてくれた。」
さらに大正8年彝が茨城県の平磯に滞在したときには、7月3日の福田久道宛書簡で、「本箱の中のゴーホと和仏辞典(エビ茶色の)」を、チャブ台と一緒に至急送ってくれと述べている。
このように彼は、留学こそできなかったが、生涯にわたってフランス語には親しんでいたようだ。
アナトール・フランスの『聖母と軽業師』も読んでいたが、これは原語で読んでいたかどうかは分からない。しかし、特にユーゴーの『レ・ミゼラブル』などはそうとう愛読していたことが分かる。
実際、彝のこんな断章(新装普及版『藝術の無限感』97頁)がある。
「心は制し得ても顔色を制することは難しい。眼を制することは出来ても口もとを制することは出来ないものだ。ユーゴーのブルジョン(ブリュジョン)は優しい愛撫的な眼差しを持っていた。然し残忍な微笑を拭うことは出来なかった。」
しかし、彝が書いている『藝術の無限感』の文章や書簡の中には、その意味がよく解らないようなフランス語もある。
例えば、中原悌二郎の「女」と「若きカフカス人」を論じた一節に出てきて、そこでの大切な概念となっているカタカナ語「レピュテ」とは何だろう。
このフランス語風のカタカナ語は、このような文脈に出てくる。
「物の外観を徹して真の関係を洞察し、物の主眼となるべきレピュテ、例えば距離、深み、密度、融合状態等の如きものを表現しても、そこに何らかの文学的な意味のない限り、彼等にとってはついに単なる写実に過ぎないのだろう。・・・現実の核心に突込むこと、そこに芸術家の全努力と全目的とがあるのではないか。自然を静観し、これらの必然法の中に、美と力と慈光とを認めて、それを渇仰しつつ、僅かにリズムの方法によってそれを表現せんとしても、その作品が完全なる外観を具えない限り、彼等にとっては遂に理想なき写実的努力に過ぎないのである。」
彝はここで、中原の芸術が、生きた現実に「単に、突込み過ぎた」ものか、理想のない単なる「習作」ようにしか見えない人たちに対して大いに弁護しているのだが、どうも「レピュテ」の意味が分からない。
確かに「距離、深み、密度、融合状態等の如きもの」は、造形芸術にとって「物の主眼となるべきもの」だが、「レピュテ」をどう訳すべきか分からない。ひょっとしたら、これは誤植か彝の書き間違いではないのか。そこで、一応『藝術の無限感』の初版に当たってみたが、やはり「レピュテ」となっていた。
しかしながら、今の私に考えられることは、これはやはり初版以来、これを読んできた人たちが、意味曖昧のまま放置してきた誤植ではないかと思う。
すなわちこれは、「レピュテ」ではなく、「ピュレテ」の誤植か、もしくは今日のカタカナ表現なら「ピュルテ」と書くべきところではないのだろうか。
というのは、「レピュテ」なる語が出てくる少し前で、彝は「若きカフカス人」について、「手法の明浄、様式の至純」とか「現実を凝視し、実相の本質を啓示して、早くも古典に見るが如き至純なる完璧と渾一に到達した」などと述べているからである。つまり、芸術における「至純さ」、「純潔さ」が強調されており、そこに「芸術の純度」という意味での「ピュルテ」という語が来ても決して不自然ではないと思うからである。(続く)