美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

小川芋銭『草汁漫画』「春風春水」の図と白居易の詩

2019-07-24 16:02:00 | 小川芋銭
標記本、17ページ、春の部に「春風春水」と題される図がある。
17ページには3図が載っている。これらは3図とも「春風春水」の図なのだろうか。それとも違うのか。

『草汁漫画』には題目を掲げている目次に相当するページに、あって然るべき図の題目が何も示されていないものや、1ページに複数の図があって、どの図がその題目に相当する図なのか不明確なものがある。

これらは、果たして当時の編集上のミスなのか、それとも作者に何らかの意図があるものなのか、考えていくと迷うことがある。

この17ページの「春風春水」もそうしたものだ。

先学によれば、半裸の女性が野外に横たわっている図は、以前に制作された作品を改作したもので、以前の作品には「春風春水一時来」の賛があった。

この『草汁漫画』の17ページの一番下に掲げた図では、この賛が削られた状態だが、上の事実から、これが題目の「春風春水」に関連している ことは間違いない。

それはいい。では、上の2図は「春風春水」とは関係ないものなのか。そこが問題である。

『小川芋銭全作品集』挿絵編を見ると、一番上の図は、"無題「出征」"と題され、真ん中の図は、そこに添えられていた俳句にちなんで、"無題「網に透きて」"と題されていた。

上記の本で、無題とあってさらに「」に題名が書いてあるのは、凡例によると、編集者サイドが与えたものである。

真ん中の図は作者がその図に添えた俳句から取ったものだからあまり問題ないとしても、一番上の図が、果たして「出征」を主題にした図かどうかは、検討を要するのではなかろうか。

と言うのは、私は、これら3図は何れも「春風春水」を主題とした図として、このページを読み解くほうがより自然なのではないかと思うからだ。

先の「全作品集」においてこの図に「出征」の仮の題を与えたのは、おそらく画面右下の制帽を被ったような人物を軍人と認め、風に揺らめく幟を出征に関連したものと解釈したからかもしれない。あるいは、さらに左上の遠景部分に鳥居が描かれているのも「出征」に関連付けて見たのかも知れない。

けれども、そうすると、画面前景に大きく描かれた四人の人物のうち、中央部に最も大きく描かれた人物の意味が全く解らなくなってしまうのではないか。

ケーテ・コルヴィッツのある種の版画のように死の表徴のようなものと見られなくもないが、それでは、全体の意味はますます混乱してしまうだろう。

仮に「出征」の図がそもそもなぜ春の部に出てくるのか、その必然性も曖昧になる。

この人物は、他の人物たちとは明らかに違う謎の人物として登場しているのだ。

だが、この人物を素直に見れば、そんなに難しい意味が込められているようには思われない。

燕や蝶の飛んでいる春の図に相応しくなく、頭巾を被り、マントを着たこの人物、これはまさしく冬の寓意像でなくて何であろうか。

この像の背後に風に揺れる幟が描かれているのは、出征の兵士を祝うそれではなく、冬の寓意を追い払う春風の寓意と解釈できよう。遠景には春の川面が描かれているようにも見える。

従って、これも「春風春水」の図であり、春の部に相応しい主題と読める。

さて、真ん中の図は、その句が示している通り、蜑(あま)の子がもはや冷たくはない水の中に素足で入って遊ぶ図であり、子供の頭上に見える筆太の線は、風に流れ行く雲を示す形象であることは間違いない。だから、これも「春風春水」に違いないだろう。

どちらかと言えば、上の図が冬を追い払う「春風」を、下の図は温んだ「春水」に関連してこの「漫画」を読んでも、もちろんいいだろう。

最後に「和漢朗詠集」にも載っている白居易の詩「府西池」を書いておく。

言うまでもなく、芋銭のこれら3図は、下の詩句の内容やイメージを忠実に図として再現しようとするものではない。

あくまで「春風春水」なる題目の典拠がこれであると言うにとどまるが、面白いことに、起句が主に春風を、承句が主に春水を表現したものだから、芋銭の上の2図に相当し、結句が半裸の女性と結びつくのである。

柳無気力枝先動
池有波紋冰尽開
今日不知誰計会
春風春水一時来








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小川芋銭『草汁漫画』を読むためのノート(1)

2019-07-23 15:57:00 | 小川芋銭
27ページ
二七計の美人
兵法三十六計の一つ。二七計は仮痴不癲。
 
教坊
宮廷音楽を教習させる機関。
 
白玉楼中の人
文人墨客の死。→李賀の臨終
 
28ページ
曲路不見人
→曲終不見人の誤植だろう。
 
群玉
むらたまと読んで、ここでは「狂ひ」にかかる枕詞としているのではないか。
 
湘蛾
→湘娥清涙未曽消
 
科戸の神
→科戸の風
罪、汚れを拭き払うという風。級長戸、しなと。
 
15ページ
猿丸大夫
三十六歌仙の一人。
 
あこくそ
阿古久曽(幼名)、紀貫之。
蝉丸などの丸はまろとも読み、不浄を入れる容器を意味する。くそは不浄。
 
 
 
 
 
 
 
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20190717〜21までの呟き

2019-07-21 18:23:00 | 日々の呟き
7月14日の毎日新聞より。フランスでは単に「7月14日」と呼ぶ。日本では同名の映画が「巴里祭」と訳され、季語になるまで広まった。自由平等友愛の理念と憧れは革命200周年を境にフランスでも日本でも失われているらしい、と。
 
例えば人を見る目のような「暗黙知」の軽視と、そういうものの「測定」の仕方を巡って、長谷川真理子氏が7月14日の毎日新聞に書いていた。
 
酒井邦嘉著『チョムスキーと言語脳科学』について、中村桂子氏の毎日新聞書評を読む。「脳内に語彙、音韻、読解、文法に相当する部位があり、…」
 
奥田祥子著『夫婦幻想』の新聞広告を見た。
 
荻野富士夫氏による山本宣治に関する3冊の本の、毎日新聞での紹介を読んだ。
 
井波律子著『書物の楽しみ』について、池内紀氏の新聞評を読んだ。
 
南原繁の生涯を小説で描いた村木嵐著『夏の坂道』の、伊東光晴による新聞書評を読んだ。
 
『限界病院』の著者久間十義氏の紹介記事を読んだ。
 
「国民が主体的、自発的に国策に動員される仕組み」の大規模なボランティアには要注意との新聞記事を読んだ。
 
「家族というものは…友人や恋人のように遊ぶことのできるものではない。…すでに、いつでも、ただそこにあるもので、だからときどきこうやって、見つけなければならないのだろう。」谷崎由依さんの言葉。
 
「この五大堂からの眺めがすぐれているのであろうか。いや、そうではあるまい。恩讐の情を去った心に、ようやくありのままの景色が見えたのだ。」『流人道中記』312より
 
暗号資産リブラが話題だが、かつて読んだ『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』は面白かったな。
 
ラウシュ『ハピネス カーブ』の山崎正和による今日の毎日新聞書評を読んだ。「幸福の度合いは年齢に応じて同じU字型の曲線を描き、40歳代から50歳代が最も幸福度が低い…」「青春期の奮闘のわりに現在の収穫が乏しく、しかも一家を成したため、その不満を誰にも語れない」…
 
宮坂静生『俳句必携 1000句を楽しむ』の小島ゆかり氏の書評を読んだ。「何が面白いか。いかに生きるかなど、人間のことなど問題にしていないからだ。…ふだん人はもやもやして、自分の気持ちのあり方にとらわれている。修練を積むと、もやもやが吹っ切れて、見る対象のことだけに精神が統一される。」
 
承前「写生とは気持ちの切り替えを自在にする訓練のことだ。宝生流能役者の家に生まれた作者の作」。「萍(うきくさ)に亀乗りかけてやめにけり」(松本たかし)の句について、宮坂静生『俳句必携』より。今日の毎日新聞小島ゆかり氏の書評から
 
今日の毎日新聞、『俳句必携』の小島ゆかり氏の書評を読む。ここに出てくる「地貌季語」の言葉、これは、芭蕉など伝統俳句の理解にも繋がる。というか、そういう伝統的な俳句への一つの回帰だし、再解釈でもあると思う。
 
今日の毎日新聞、#坪内稔典 氏による季語刻々を読む。#山本純子 さんの朝市の句と「水たまり」の詩を紹介したもの。「それも夏野菜みたい」という坪内氏の批評眼。「空に落ちなくて よかった」という詩の紹介が印象に残った。
 
池田彌三郎「日本の旅人 在原業平」の毎日新聞評読む。
 
「人は幸福を語らなくなって、代わりに所得や健康、家や車、子供の成績といった価値基準で人生を測るようになった。特に健康は重視され、…数値が人生の努力目標に化した」と思っていたら、と山崎正和氏。今日の毎日新聞書評、ラウシュ著『#ハッピネスカーブ』
 
本の広告からのメモ齋藤亜矢『ルビンの壺』若松英輔、『『こころ』異聞』
 
森まゆみさんの団子坂、藪下坂の毎日新聞記事を読んだ。後日、ネット検索で確認してみよう。
 
イアン・カーショー氏の毎日新聞記事を興味深く読む。「欧州人」の意識築けず…
 
ビル エモット氏による「香港デモ対応に見る中国」の毎日新聞記事を読む。
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20190710〜16までの呟き(小川芋銭『草汁漫画』など)

2019-07-16 14:52:00 | 日々の呟き
小川芋銭は、『草汁漫画』の「月雪甚之丞」でも鉢叩きで瓢箪を描いていた。#空也上人 #鹿 #六花
 
小川芋銭『草汁漫画』にもいくつか誤植はある。また、思い違いや記憶違いなどもあるのかもしれない。
 
小川芋銭『草汁漫画』の「炉開きや床は維摩に掛替る」は、蕪村の句「炉塞ぎや」を芋銭が無意識のうちに間違えたのか、何か意図があるものなのか、どうも解らなくて、今、考え中。
 
7月8日の毎日歌壇より くるまがきけんとおもってもわざわざおりたひとがさしにくるせかい #柳本々々#加藤治郎 評 「夢の世界のようだ。意識の奥深くを探っている。危険は承知で人が刺しに来る世界の真っ只中にいるのだ。」
 
小川芋銭『草汁漫画』の「陽炎」と「機張」 2図の関係性を読み解く。「陽炎」の主題は王建が典拠。
 
小川芋銭『草汁漫画』「陽炎」と「機張」(2) 2図を対比して、その対比の妥当性と、対比された図像の意味を考察しました。
 
小川芋銭『草汁漫画』「さいかちや」の図は、先学の指摘があるとおり、『東海道中膝栗毛』8編下 からの筋書きが図像上の源泉。さいかちやは団子屋。河太郎が日傘代わりに団子屋で買った障子を巡って、往来で一悶着。そこに馬方が通りかかって…
 
#小川芋銭『#草汁漫画』「#寝積」に「ミレが画の牛も羊も寝積むか」の句が添えられている。ここで、なぜミレーかというと、それは「寝積」だからだ。つまり、寝積むは、新年の #忌みことば で、イネツムと古語で読ませる。すなわち「稲積む」なので、#ミレー の絵が出てくるという訳だ。
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小川芋銭『草汁漫画』「陽炎」と「機張」(2)

2019-07-14 19:15:00 | 小川芋銭
『小川芋銭作品全集』を見ていくと、王建の詩句「十指不動衣満筺」に関連する図は、他にも複数ある。中でもとりわけ重要な図は、この全集の挿絵編651番の作品である。
 
題は「十指不動衣食満」で、明治40年の作とされる。この図には、この題と同じ賛の他に「一糸一粒辛苦身」の賛が加えられている。
 
しかもこの図は、丸で囲まれた図と三角で囲まれた図とから成る。丸の図は豪華な衣装を身につけた歌舞伎役者と見られ、三角の図は機織り関連の仕事をする弱々しげな婦人である。だから、彼らのために相当する2つの賛があるのだ。
 
こうして、丸と三角の中の人物図像が、一つの図の中で、それぞれの賛とともに対比されている。ここまでは自明であろう。
 
一方は、織られた衣服を何も労することなく、身にまとう側であり、他方は刻苦して布を織る側である。後者は、自分が織った布をついに身にまとうこともない、そんな意味合いが込められている。比較的解り易い図式だ。
 
一糸一粒の<粒>は、言うまでもなく穀物を育て作る「粒々辛苦」の農夫を示すが、ここでは、<糸>を撚り、機を織る側の婦人の図像で代表する。
 
さて、ここで『草汁漫画』36頁の「陽炎」と「機張」に戻ると、前者は豪華な衣装をまとう花魁の白抜きの形象であり、後者は機織りの婦人の図である。そして、「陽炎」にはかつて「十指不動…」の賛が付けられていたのだった。
 
そしてまた、「機張」の元となった図像には、北畠氏が明らかにしたように、極めて深刻な画賛の詩句、すなわ陳陶の「隴西行」からとった「春閨夢裏人」との詩句が認められる髑髏の図像があった。
 
今、『草汁漫画』36頁を見ると、「…無定河辺骨 尚是春閨夢裏人」の詩句は、図の中ではなく、活字として組まれているが、それは、2図のうち、確かにどちらの説明か曖昧な位置に見出される。北畠氏は、芋銭が時局判断により、作品の意図を敢えて曖昧にしたのだと述べている。
 
芋銭は、髑髏の図像に代わって瓢箪型の囲みに、范成大の「四時田園雑興」からの、より穏当な表現の詩句を置いた。しかし、これもそこに添えられた詩句の前半部を読むと、「小婦連宵上絹機…」などの詩句も見えるのである。
 
もちろん、36頁のこれら2図は、独立して観てもよい。だが、芋銭がこの2図を同じ頁に配したということは、やはり、これらの図を対比させる意図があったからと合理的に推論させるに足る充分な根拠がある。
 
これら2図を対比してもよいという明白な証拠、それが、取りも直さず全集651番の図である。
 
機織る人、つまり「機張」の人と、華美な衣装を着る人、すなわち「陽炎」の人の強烈な対比、これは、解る人には解って欲しいというのが芋銭の思いだろう。
 
なお、『草汁漫画』36頁に「きりはたりてふてふ 梭の間忘れぬ男縞」の短文が頁の右上に置かれているが、この前半部は機を織る音を表す語であり、「機張」の元の図は織り機の中に実際、蝶が飛んでいる図であった。そこに音があることを表したかったのであろうか。それともその蝶は「春閨夢裏人」の魂の表現だろうか。
 
その蝶は、今や蜻蛉あるいは薄羽蜉蝣のような昆虫に変えられて図から飛び出した位置にいる。一方、「陽炎」の図には元から蝶が飛んでいた。これも、恐らくは、もとより儚き陽炎のような世界に飛ぶ蝶なのだ。
 
以上の通りであるから、作品「陽炎(カゲロウ)」には蝶が飛び、蝶が飛んでいた作品「機張」には、カゲロウが飛んでいるという交錯した関係が仕掛けのようにあり、この2図の図像上の対称性と意味的な対照性が更に強められていると言えるのではなかろうか。
 
芋銭の『草汁漫画』には、一見、単独の図のように見えながら、同じ頁やその前後の頁に、若しくは近似する図像に、ある種の関係性を置いて考察してみると、その謎めいた意図がある程度読み取れるようになっているものがあるように思われる。
 
それを次に別の作品の例で考えてみよう。
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