美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

小川芋銭『草汁漫画』の「陽炎」と「機張」

2019-07-14 11:15:00 | 小川芋銭
『草汁漫画』36頁に掲載されている2図については北畠健氏が既に茨城県近代美術館の「研究紀要」第3号にきわめて重要な見解を示している。
 
そこで、ここに提示しようとするのは、氏のこの見解を踏まえた上で、これらの図についての、さらに新たな見方である。
 
先ず「陽炎」と題される縦長の図、この作品名は何を意味しているのだろうか。
 
図を見ると、作品上方では西洋風、または現代風の装飾的な窓際に黒い手がすっと伸びるように描かれ、下方には、縦縞や格子の縞文様に、花魁のような衣装の女性が白抜きのように描かれている、いや、断定はできないが、そのように、人によっては見えるように描かれている。
 
この奇妙な図像は何を意味しているのだろう、それは本当に花魁のような女性の形象でよいのだろうか、私にはこうしたことが前から解らず、不思議であり、気になっていた。
 
今回、この謎が私なりに解決がついたのでここに書いてみる。
 
さて、北畠氏は、かつてこの図に「十指不動衣満筺」の賛があったが、漫画36頁では、これが削除された事実を上の紀要で明らかにした。
 
ただしその句の意味、およびその典拠(もちろん、それがあるとすればだが)については触れていなかった。氏の最新のホームページの「小川芋銭研究」や『小川芋銭全作品集』にも当該頁に言及がない。
 
そこで、今回まずこの削除された賛には典拠があり、それが分かったので、それをここで明らかにしておく。
 
それは、唐代の詩人王建の「當窗織」から芋銭が引用したものである。
 
嘆息復嘆息,園中有棗行人食。貧家女為富家織。 翁母隔墻不得力。水寒手澀絲脆斷,續來續去心腸爛。 草蟲促促機下啼,兩日催成一匹半。輸官上頂有零落, 姑未得衣身不著。當窗卻羨青樓倡,十指不動衣盈箱。
 
これである。まさにこの詩の最後の句が引用されていた。
 
「十指不動衣満筺」のフレーズは、芋銭が以前から気に入っていたものである。意味は、自らの手は労さず、衣装が筺に満ちるということが、この詩を読むことによって解る。
 
誰の筺に満ちるのかと言えば、それが正にこの図が描かれた所以だろう。すなわち、王建の詩で言えば、芋銭によってこの図から削除された句の前の句、
 
當窗卻羨青樓倡
 
の部分に関連していると推論できる。
 
つまり、芋銭のこの図において、白抜きされた形象が、花魁のように見えたのは、まさしくこの詩の「青樓倡」に対応しているからだと解る。
 
そして、影のような黒い手、これは「十指不動衣満筺」の十指不動の手であると合理的に推論できよう。
 
白抜きされたように描かれているのは、やはり、「青樓倡」に対応する花魁であり、この図が「陽炎」と題された理由と考えられる。
 
白抜きだからその存在が陽炎ように見えることを暗示したのだし、そのように描かれているのだ。
 
だが、この問題は、もちろんこれで終わらない。
 
ここまで書けば、芋銭に詳しい人なら既に直観したかもしれないが、この図は、この頁の下の図である「機張」に密接に関連していることを明確に証することができる。
 
次にそれを書いてみよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

20190705〜10の呟き(小川芋銭『草汁漫画』など)

2019-07-11 14:54:00 | 日々の呟き
小川芋銭『草汁漫画』の「妹許(いもがり)」 の図像を読んでみる。
 
小川芋銭『草汁漫画』の冬の部「北風」 を解釈する。
 
小川芋銭『草汁漫画』における瓢箪の図(1) - 「閑眠」
 
小川芋銭『草汁漫画』における瓢箪(2) - 「虫に鳥にも」 令和に脚光を浴びた大伴旅人の酒壺世界
 
小川芋銭『草汁漫画』における瓢箪(3) 「恵子のふくべ」考 芭蕉の「四山の瓢」と関連付けて考えました。
 
小川芋銭は、『草汁漫画』の「月雪甚之丞」でも鉢叩きで瓢箪を描いていた。#空也上人 #鹿 #六花
 
小川芋銭『草汁漫画』にもいくつか誤植はある。
 
小川芋銭『草汁漫画』の「炉開きや床は維摩に掛替る」は、蕪村の句「炉塞ぎや」を芋銭が無意識のうちに間違えたのか、何か意図があるものなのか、どうも解らなくて、今、考え中。
 
「みんな逝ってしまった」という悲しみも「みんなを送ることができた」と思うと心が落ち着いた。今日の毎日新聞、主婦の岡本敬子さんの投稿記事より
 
「とりわけ、あなたの仕事について興奮に身を任せてはいけない。」タレーランの言葉、今日の毎日新聞、余録より
 
「交渉という任務には不愉快な相手の愚鈍、不誠実、野蛮、またはうぬぼれに直面する時もあるが、交渉者は怒りを示すことを避けねばならない。」英外交官ニコルソンの言葉、今日の毎日新聞、余録より
 
平静、上機嫌、忍耐は外交交渉に携わる者に欠かせない資質。今日の毎日新聞、余録より
 
地球のN極とS極が逆転することを90年前に論文で提唱したのは松山基範。この論文は寺田寅彦の目にとまったらしい。今日の毎日新聞、土記より。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川芋銭『草汁漫画』における瓢箪(3) 「恵子のふくべ」考

2019-07-08 01:01:22 | 小川芋銭
「瓢中観」は、解釈が難しいので、「恵子のふくべ」を先に考えてみる。
 
この図は、芭蕉の句を賛にした「閑眠」の図に似ている。大きな瓢箪の天辺に、ある人物が乗って、悠然と町の風景を眺めているという趣である。
 
その瓢箪には恵子のふくべと賛が書かれているから、この図は、「荘子」の逍遥遊篇が典拠になっているように思われよう。
 
だが、「荘子」のどの場面を、(芋銭らしく)解釈して描いたものだろうか。おそらく、そういう場面は見当たらない。
 
確かに「荘子」には、恵子の役に立たない大き過ぎるふくべの話は出てくる。
 
恵子は、荘子の思想を、役に立たないふくべに喩えて暗に批判する。すると、荘子は、なぜそれを大樽にし、川に浮かべて遊ばないのかと恵子に応える。そういう話だ。
 
芋銭のこの図の瓢箪に乗っている人物が恵子とするなら、恵子は、荘子の言葉を受け容れたことになってしまう。恵子が既に「無用の用」を実践したことになってしまうだろう。
 
これでは、あまり釈然としない。
 
私は、この図の意味内容は、芋銭が芭蕉の句意を表現したものである、とここに問題を提起してみたい。
 
「もの一つ瓢はかろきわが世かな」
 
これである。
 
ここで芭蕉が瓢と言っているのは、それを米びつとしたものであり、「四山の瓢」と命名したものだ。
 
では、なぜこれが、「恵子のふくべ」に繋がるのかというと、それは、この芭蕉の瓢箪が、「四山の瓢」と命名されたその経過を辿ることによって解る。
 
それを探っていくと、芭蕉が、山口素堂から得た詩とともに、まさに「恵子のふくべ」の話に行き着くのだ。
 
すなわち、大きな瓢を手に入れた芭蕉は、「荘子」の中の恵子のふくべの話をよく知っていたので、それを役に立たない物とするのでなく、むしろ反対に、その使い道を自分の命を守るに必要不可欠な、実に貴重な米びつとした。
 
しかも、それに名前まで付けることにし、素堂から意味深い四つの山の名前が入った五言絶句がプレゼントされた。
 
一瓢重泰山 自笑稱箕山 莫習首陽山 這中飯顆山
 
この詩には註記が必要だが、芭蕉への温かい思いやりと二人が共通理解できる漢文学の素養が詰まっていた。
 
今それをここで詳述してもよいが、ここでは、そこから芭蕉の米びつとなった瓢箪が「四山」と命名されたこと、そして、この詩に「瓢」と「這中飯顆山」の字句があることを確認しておけばよいだろう。
 
ここで芋銭のこの図に戻ると、この図の下に「這天浮物」とあり、これは、芭蕉に贈られた素堂の詩「這中飯顆山」を想起させることが解る。
 
芋銭が、芭蕉の「四山の瓢」の意味内容をよくを知っていた証拠である。
 
さらに、ここで芋銭には「閑眠」という、芭蕉をやはり瓢箪の天辺に置いた図があることを、もう一度、思い出してもよい。
 
すなわち、ここでも瓢箪の天辺に乗っているのは、もはやほろ酔いからは醒めているが、やはり芭蕉その人であると確認できよう。
 
芋銭の描いた「恵子のふくべ」、ここには、米びつ一つだけが芭蕉翁の世界だとの表現がある。いわば瓢箪の天辺にいる芭蕉のミニマリズムの世界である。
 
「もの一つ瓢はかろきわが世かな」の句意、それを芋銭が描いた。それは、「這天浮物」と芋銭が言っている世界でもあり、もちろん「荘子」にも通じる世界だ。
 
以上によって、芋銭の「恵子のふくべ」とは、芭蕉の「四山の瓢」のことであり、それは、そこに描かれた大きな雲と同様に、悠々とした天の浮き物なのである。
 
 
ただし、この作品、そんなことはすべて忘れ去って、もっと気軽に見てよいものだろう。これは、「芋銭戯筆」とあるように、決して大真面目な図ではない。
 
この「漫画」の中にある今の自分に通じたものをある程度知的に楽しみ、筋が通るなら、自由に解釈していけばよい。私も、そのようにして、自分が納得できるよう「解釈」したのである。
 
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月30日と7月1日の呟き

2019-07-07 15:26:00 | 日々の呟き
バエス『書物の破壊の世界史』(八重樫克彦、由貴子訳)の書評が今日の読売に載っていた。「ハイネは『本を燃やす人間は、やがて人間も燃やすようになる』と書いた。…書物の破壊の歴史は人間社会の憎悪の歴史と表裏一体だった。」
 
猪木武徳『デモクラシーの宿命』の今日の書評を読んだ。「中間的なものの重要さ…短期の目的合理性の陥穽…」
 
『徳川家康と武田氏』の著者、本多隆成氏とその本を紹介する今日の読売記事を読んだ。引用文献は、2010年以降のものとのこと。有名な顰像、三方原の戦いに無関連と。信康切腹についても「注目すべき説を紹介」とあった。
 
今日の読売、阿部公彦氏と平野啓一郎氏の対談を読んだ。阿部:「教養」として文学を読むようにと言っても、もう誰にも響かない。平野:読書、ゲーム、テレビ、動画、SNSが、横一線に並んでいる。現代人は何に時間を使うか厳しく選択している…
 
なぜ鷗外の「山椒大夫」は、<山椒大夫>という題なのか?鷗外は、この作品の典拠を提示することに意義を認めたのだと思う。この人物は、この物語の時代的、社会的背景を象徴的に示している影の主人公には違いない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月29日の呟き

2019-07-07 15:18:00 | 日々の呟き
「大好きな両親の離婚つらい」という相談、読売、「人生案内」の最相葉月さんの回答を読んだ。
 
「子を怒り子と笑い子と食みしのちどうと倒れて眠るわが妻 小高賢 作者は講談社の編集者、2014年、69歳で急逝」とあった。今日の長谷川櫂氏の「四季」より
 
小川芋銭『草汁漫画』73頁下の図の賛に「此世にしたぬしくあらは来ん世には虫に鳥にもわれはなりなん」とある。これは大伴旅人からの引用だ。この賛は、『草汁漫画』の中で重要な意味を持つことに今、気づいた。
 
小川芋銭『草汁漫画』85頁、「論語」と題された絵に「古今英雄當末路銷磨歳月短檠中」の賛がある。だが、この賛自体は論語からの引用ではないようだ。賛は、清の程簡という人の「冬夜読書」という詩からの引用である。なぜ、この絵は論語という題目なのか。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする