『草汁漫画』36頁に掲載されている2図については北畠健氏が既に茨城県近代美術館の「研究紀要」第3号にきわめて重要な見解を示している。
そこで、ここに提示しようとするのは、氏のこの見解を踏まえた上で、これらの図についての、さらに新たな見方である。
先ず「陽炎」と題される縦長の図、この作品名は何を意味しているのだろうか。
図を見ると、作品上方では西洋風、または現代風の装飾的な窓際に黒い手がすっと伸びるように描かれ、下方には、縦縞や格子の縞文様に、花魁のような衣装の女性が白抜きのように描かれている、いや、断定はできないが、そのように、人によっては見えるように描かれている。
この奇妙な図像は何を意味しているのだろう、それは本当に花魁のような女性の形象でよいのだろうか、私にはこうしたことが前から解らず、不思議であり、気になっていた。
今回、この謎が私なりに解決がついたのでここに書いてみる。
さて、北畠氏は、かつてこの図に「十指不動衣満筺」の賛があったが、漫画36頁では、これが削除された事実を上の紀要で明らかにした。
ただしその句の意味、およびその典拠(もちろん、それがあるとすればだが)については触れていなかった。氏の最新のホームページの「小川芋銭研究」や『小川芋銭全作品集』にも当該頁に言及がない。
そこで、今回まずこの削除された賛には典拠があり、それが分かったので、それをここで明らかにしておく。
それは、唐代の詩人王建の「當窗織」から芋銭が引用したものである。
嘆息復嘆息,園中有棗行人食。貧家女為富家織。 翁母隔墻不得力。水寒手澀絲脆斷,續來續去心腸爛。 草蟲促促機下啼,兩日催成一匹半。輸官上頂有零落, 姑未得衣身不著。當窗卻羨青樓倡,十指不動衣盈箱。
これである。まさにこの詩の最後の句が引用されていた。
「十指不動衣満筺」のフレーズは、芋銭が以前から気に入っていたものである。意味は、自らの手は労さず、衣装が筺に満ちるということが、この詩を読むことによって解る。
誰の筺に満ちるのかと言えば、それが正にこの図が描かれた所以だろう。すなわち、王建の詩で言えば、芋銭によってこの図から削除された句の前の句、
當窗卻羨青樓倡
の部分に関連していると推論できる。
つまり、芋銭のこの図において、白抜きされた形象が、花魁のように見えたのは、まさしくこの詩の「青樓倡」に対応しているからだと解る。
そして、影のような黒い手、これは「十指不動衣満筺」の十指不動の手であると合理的に推論できよう。
白抜きされたように描かれているのは、やはり、「青樓倡」に対応する花魁であり、この図が「陽炎」と題された理由と考えられる。
白抜きだからその存在が陽炎ように見えることを暗示したのだし、そのように描かれているのだ。
だが、この問題は、もちろんこれで終わらない。
ここまで書けば、芋銭に詳しい人なら既に直観したかもしれないが、この図は、この頁の下の図である「機張」に密接に関連していることを明確に証することができる。
次にそれを書いてみよう。