気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

稲葉山城炎上

2012-10-24 | 旅行記

岐阜城天守閣からの眺望、現在の東美濃の一部です。

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かつて、・・・犬山城の川向いに伊木城、その上流約2.5㎞に鵜沼(ウヌマ)城、さらに上流約3.3㎞に猿啄(サルハミ)城・・・ここまでは攻略した。

1564年、斉藤家の家臣、竹中重治が造反し、安藤守就(モリナリ)らの協力で稲葉山城を乗っ取り、斉藤龍興は城を捨てる。

しかし半年後、半兵衛(竹中半兵衛重治)らは龍興に城を再び明け渡す。

これ以降斉藤氏の衰退が明らかになり、家臣らの離反が目立つようになる。

1564年9月 藤吉郎は信長から 「坪内党、川並衆を率い稲葉山城下に侵入、放火し、騒乱に乗じて加納に砦を築け」 と言う命令で動き始める。

稲葉山の西に隣り合う瑞竜寺山に侵入し薪を蓄えた、・・・11月下旬西風の強い日、稲葉山城・城下の長森口等に坪内党が放火し、続いて川並衆が瑞竜寺山の各所にも放火した。

西風の強風にあおられ全山大火となる、この騒乱に乗じ加納口を占領し、8㎞程に渡り、馬柵等で砦を固めた。

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木曽川沿いのこの地を坪内党が守備し前線基地となった。

1565年(永禄8年)5月 征夷大将軍 足利義輝(30歳)が下克上の世とはいえ白昼、三好三人衆らによって暗殺された。・・・各地の大名に衝撃が走った。

・・・この頃から、信長に天下布武の意識が強くなる・・・。

さて、猿啄城から約20㎞奥の加治田にも美濃勢の拠点があった。

1565年(永禄8年)7月、加治田(カジタ)城の佐藤親子が丹羽長秀を通じて信長公に忠節を申し入れてきた(斉藤方から織田方へ寝返った)。

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加治田の西に関城があり、南約2.7㎞に堂洞(ドウホラ)城(砦)があり、各々同盟して信長の侵攻に備えていた。

しかし、加治田の佐藤親子が寝返ったのを知ると、堂洞の岸信房に嫁いだ加治田の佐藤忠能の娘は殺害され、その娘の首が何と長尾丸山にさらされた。

そして9月、斉藤方が加治田城を奪還しようと、堂洞(ドウホラ)砦に兵を集め、関(セキ)城に本陣を構えた。

信長公の織田軍が加治田城危機に際して援軍を送り、9月28日、佐藤親子も出陣し、三方が谷となって落ち込んでいる堂洞砦を囲み風が強いのを利用し火攻めにした。

この堂洞の戦いについて、信長公記の筆者太田牛一(当時の名前は、太田又助)が、堂洞の二の丸が炎上し焼け残った屋根にただ一人登り、本丸の敵を矢で射続け信長公から知行を与えられたと書いている。

この堂洞城(砦)は夜になり落ちた。

信長公は加治田に出て佐藤親子に対面し息子の屋敷に泊まっている。

翌29日、信長公は首実検を行った後、帰陣の支度にかかっていた。そこに知らせが・・・

斉藤龍興自ら出勢し、関(セキ)城の長井勢と合流押し寄せてきた。その数約3000人。

信長公わずか7~800人、手負いの者も多く、急ぎ退却した。

・・・戦国時代、城主は領土保全が第一で、あわよくば拡張したいと考える。

しかし隣国で拡大戦略の動きがあると近隣の情報収集に明け暮れ、・・・結果、疑心暗鬼になり、親子・兄弟も状況の変化によっては殺害対象になる。

同盟も密約も保証されず、競争に生き残るのが優先される。

残虐?・・・友人・知人と戦い、感情を捨てて首をはね、戦勝後「首実検」、持ち帰った首の切り口を洗い、化粧を施し(担当は女性、・・・無表情に作業をするのでしょうか?)・・・これが日常・・・

制御が聞かない放縦の状況ですが、人間の本質の姿でしょうか?・・・・・

・・・ふと、頭に浮かんだのが「シエナ」で聞いた「八百長のない競馬」・・・

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騎手の談合・買収は当たり前(合法)、肘で相手を押し倒そうが、騎手が落馬しても馬がゴールすれば成立・・・

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イタリアの中世に栄えたシエナの街、今も伝統が残るこの競馬、地元の人々は、一番汚れのないスポーツと自慢する・・・

スポーツと戦争では、次元が違いすぎますか・・・

・・・

1566年4月上旬 信長公再び木曽川を渡り、美濃の国各務野へ侵攻する、斉藤龍興も新加納へ、この地は地勢が悪く(沼・沢、湿地)軍の進退が難しいため信長公は交戦を断念し、その日のうちに帰陣した。

・・・・・この頃、西美濃を調略していたのが木下藤吉郎・・・

信長は竹中半兵衛を近江の東で探し出し、何度も使いを送り織田家に仕えるよう誘うが断られていた。

この話を信長から聞き、藤吉郎は半兵衛を説得、客分として木下の陣地で居候することになった。(陣地とは、蜂須賀小六・川並衆の協力で墨俣に築城した墨俣城の説が有力)

「西美濃三人衆」は斉藤家の前任、土岐(トキ)家の頃から由緒ある家柄で、その筆頭家老が安藤守就(モリナリ)である。稲葉、氏家はともに頑固で保守的、織田側への調略は難しかった。

1567年・・・西美濃の調略は手詰まりの状況が続いた、そんなある日藤吉郎は、半兵衛から安藤宛ての手紙を託された。

安藤は半兵衛の舅(シュウト)にあたる。

藤吉郎が差し出した手紙は効果があった。その後、安藤は、稲葉、氏家と協議し、織田家に忠誠を誓う「誓紙」を藤吉郎に差し出して、その証拠に人質を供出すると申し出た。

藤吉郎は半兵衛を伴い小牧の信長公に拝謁し、美濃三人衆の織田家寝返りを取付けた「誓紙」を提出した・・・そして信長様に褒美の代わりに半兵衛を傍に置いて頂けるよう土下座して願い奉り承諾された。

・・・竹中半兵衛重治は、この日から織田家の臣となり、信長の軍監(グンゲン・副将軍の次の官、第3等官、グンカン)として、藤吉郎に付くということになった。

8月1日 美濃三人衆の使者が到着し、信長公は美濃三人衆の申し出を承諾し、人質受領に村井、島田を向かわせた。

信長公は人質の到着を待たず、「兵を集めよ!」と・・・急きょ出陣、小牧山城から木曽川を渡り、新加納に布陣した。

ここから稲葉山城まで約5.5㎞、尾張の守備兵まで動員し、最大勢力8000強の兵力、さらに美濃勢も加わり総数12000人。

これに対し斉藤勢は、侵攻を聞いて城に急ぎ集結したのが4000人、さらに困ったことに兵の士気は低い。

織田軍は稲葉山から西方にあり、かつて山焼きをした瑞竜寺山に駆け登った。

正面から総攻撃をかけるが、さすが天下の堅城、猛攻を楽々と跳ね返していたが、稲葉山城下の井口が焼き払われ、山麓に放火して回ると城は裸城になってしまった。

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翌8月14日、城の周囲に鹿垣をめぐらせて包囲した。・・・この頃美濃三人衆が到着した。

斉藤方は西美濃三人衆が寝返ったことを知り、東からも西からも援軍は来ない現実を知ることになる。

・・・わずか10日ばかりの攻防で斉藤龍興は命の保証を条件に、稲葉山城を開城した。

8月15日 龍興は数人の近衆に守られ、長良川を舟で伊勢長島へと落ち延びていった。

1567年(永禄10年)8月15日 稲葉山城落城・・・信長公は井口を岐阜と改称した。

織田信長は、岐阜城を修築し、城下町を再構築し復興しなければならない。

焼け出された人々、寺院、移転して来る小牧山城下の関係者などに資材(木材など)を提供した。(尾張小牧の城は廃城)

この地は東西交通の要、楽市楽座を保護し岐阜の発展に尽くした。

木下藤吉郎は、信長に「美濃攻め功名第一ぞ!」言わせ、地位と名声、そして織田軍の有力武将の仲間入りをし、この時から歴史に登場し始めた。

その後も活躍し、1574年城持ち大名となり現在の長浜に築城する・・・1576年完成し、長浜城城主となる。

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秀吉死後解体され、彦根城の資材にされる・・・1983年推定復元された。


1576年(天正4年) 安土城が完成し安土に移る。

・・・最近の発掘事業で安土城の城跡から秀吉の屋敷跡も発掘されています。

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秀吉邸の案内板

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ここが大手道階段から左に入った秀吉の敷地内、階段の右側は前田邸、もう少し階段上部に徳川邸

ここの階段にも各地の石仏が所々に使われている。

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秀吉の屋敷は2段で、ここは下の段、結構広い、馬6頭が飼える厩があり武士が控える部屋もある、左側は広場。

斜面の石垣に幅2mほどの階段があり、上の段の裏手に上がれる。上の段には、主人の住居・台所など3棟がある。もちろん直接大手道から入ることもできる。

3棟の建物群の平面積は366㎡と案内板に記載されていた。

安土山全体では、大手道以外にも2~3本登城する階段があり、大変な宅地造成工事が想像できる。

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山頂に天守閣跡はありますが、天守閣などの復元はされていません。
・・

ここは、現代の岐阜城、

北の眺望

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城の前の尾根、稲葉山は岩山のようです。

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尾根に、このような建造物が(手前はトイレ、奥は岐阜城資料館)資料館は昔の武器庫、食糧庫を隅櫓(スミヤグラ)城郭造りに1975年4月、復元したものです。

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資料館の案内板

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資料館の内部入り口横に、さざれ石(細石が集まって固まった岩)

尾根を下って戻る途中、尾根横に井戸の跡があり水の確保もできていたことに感心する。

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ここは、尾根近くの100曲りの道です。

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平地に降りて、長良川の鵜飼で有名な金華橋を渡り、鵜川町付近から岐阜城を見上げる。

エレベータの無い高層ビルの最上階を連想する・・・眺望は良いが上り下りが大変、・・・感心する。

さらに北、関城のあった刃物の町、関市に向かう。

そして東海環状自動車道で美濃加茂ICに、夕方になってしまった。

ここから北西に数キロ、堂洞城(砦)跡が残っているようだ。

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東に約1㎞、公園と道の駅、そして日本昭和村がある。

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・・・二日後の昼過ぎ、激痛で病院に駆け込むことになる。胆石と確信し超音波の検査をするとその通り、(その後、運動と水分の補給で流れた)

東名高速 横浜をPM9:00頃通過すれば渋滞も少ないだろう。・・・ゆっくり帰ろう。

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