・・・ここのメスキータは殺風景な壁に囲まれている・・・、8世紀~13世紀(ルネッサンス以前)のモスクとはどんな礼拝堂の内部なのでしょうか、
宗教の教義ではなく、建造物の内装に多少好奇心を持ちながらの入場です。
メスキータ コルドバ大聖堂 のガイドブックを参考に、撮影した写真でモスクからカトリック教会への歴史を見てみましょう。
・・・イスラム軍がアフリカ・モロッコから攻めてきて西ゴート王国を滅ぼし、711年からこのコルドバは後に「後ウマイヤ朝」と呼ばれる王国の首都となりました。
占領後イスラム支配が70数年続き、権力基盤が確立された785年、大モスク(今日のメスキータ)の建設が始まります。
では、歴史がわかるメスキータの平面図を見てみましょう、上側が南東、下が北西になります。
(最初のモスクが黄色プラス緑の1/5位、次の増築は、上(南西)に(オレンジ)、第三次増築(濃いオレンジ)、第四次増築(朱色の東側と緑の部分))
南北175m、東西128m 総面積22,400㎡、これは城壁で囲まれた現在の面積です。
右側の②から中庭に入ってきました。
・・・第一段階は、平面図の黄色の部分に西ゴート王国の教会を壊して、モスクを建て始めます。
建築時のレイアウトは、左右(東西)73mくらいです。⑥が正面中央の入り口、入り口の先には礼拝の間が必要となります。
入り口の手前にサフと呼ばれる、みそぎのための中庭(785年当初は、黄色い部分の半分くらいの面積で、下側の緑の部分に存在した)が用意され
中庭の端にアルミナール(ミナレット)(尖塔)が建ちます。
この「尖塔」、「中庭」、「礼拝の間」の3点を東洋風の角張ったギザギザ模様を上部に付けた壁で囲み、要塞の印象を与えています。
・・・ところで、ここのメスキータ(現在のコルドバ大聖堂)内部に入るには、入場料10ユーロが必要となります。
中庭の ⑥免罪符の門から内部に入ってみましょう。(免罪日の門の中にチケット売り場があります)
思ったより明るい室内です。ただ柱が多く自然と天井まで目線が上がると、平天井なのでガード下のような違和感があります。
この柱の上部にアーチを乗せた円柱が無数に並んでいる様が、メスキータ構造上の特徴といわれています。
ガイドブックによれば、第一段階の礼拝堂(黄色い部分)では、台石、柱、柱頭にはさまざまな色がみられ、
素材も大理石、花崗岩・・・いろいろな石が使用され・・・博物館のようとあります。
これは建築当時存在したローマ帝国時代の遺跡や、西ゴート時代の教会を取り壊した建造物の柱を利用しているのが理由とか。
床の上に台石が固定されその上に柱が建っている所が最初の礼拝堂、(上の写真)
石材をあちこちから集めてきて再利用する・・・織田信長が安土城の普請で墓石まで使用していましたが・・・
この地ではフランカと呼ばれる化石を含む酸化カルシウムからなる石が近郊で大量に採掘されるのですが・・・
再利用を優先したのには、体制を安定させるには宗教の一本化・・・それには早普請をしてモスクの完成を急ぐ必要があったのでしょう。
再生品は長さの異なる柱も多く、全体の高さを揃えて天井を支える必要があります。
柱を台石に乗せ、柱の上には柱頭の部材を繋ぐ、これらの部材で全体の高さ調整をするという知恵でこのような景観になりました。
竹馬の様に上部が長い柱も見られます。
白い部分が石灰石、赤い部分は赤レンガ、交互にアーチを架けていきます。
「二重アーチの上部のがっしりした半円アーチが事実上建物を支えている。
下部の馬蹄形のアーチは支柱、高さ調整の役目をしていて、同時に天井を高くする解決法だった。」と書かれています。
柱だけでは横方向の強度が弱く、斜め方向に筋交いが必要です。これを古代ローマ水道橋のアーチ構造を参考にして補強しています。
最初の礼拝堂では、11身廊が設けられ、(身廊は中央部で柱の間隔がやや広く、両端がやや狭い)各身廊は12列からなっています。
結果、最初の(黄色の部分)礼拝堂の建築に、柱が152本も必要になりました。
後年の増築の際もこの柱方式で統一されたので・・・・、最終的には1012本、残念なことに13世紀に一部が破壊されて現在は856本とか・・・。
・・ モスクの特徴・・・ムスリムと呼ばれるイスラム教徒は、日に5回の礼拝はどこに向かって行うのでしょうか、祭壇でしょうか?
・・・アラビア半島、メッカのカーバ神殿に向かって礼拝をします。当初はエルサレムだったそうですが・・・
全世界のムスリムが旅先で方位磁石を使ってメッカの方向を探したり、世界各地のモスクではメッカの方向に置かれた聖なる壁に向かって礼拝をするそうです。
しかし、5回の礼拝だけでも大変なのに、・・・はるかかなたの方向を探すことまで・・・地面は水平と思っていた時代はそれでもよかったでしょうが・・・
・・・やがて球体と知り、正確に測るのにはどうするのと、目的があれば技術も発展するでしょう・・・儀式の継続は、文化となりて
ガイドブックによれば、このカーバ神殿の方向をキブラと言うそうです。
そこで最初に作るのが最重要となるキブラ、・・・このキブラの壁(神聖な場所)から建築が始まったとあります。
・・・最初のモスクでは、礼拝堂(黄色)の中心軸がキブラを目指し、入り口から南西の反対側の壁に向かって伸びます。
入口から入ると、正面最深部の壁がキブラとなりこちらの方向に向かって礼拝をします。
増築にあたって南西に延長したので、増築の度にキブラの壁は奥に奥にと移動しました。
人口が増えて礼拝堂が狭くなり4度目の拡張時には、南西側に延長すると川に向かって傾斜する土地だったのでやむを得ず東側に増築することになります。
結果、全体の中心軸が拡張した東に移動してしまいましたが、当初のままで今日に至っています。(何とメッカの方向がズレていた・・・後述)
・・・少し奥に進むと、偶像の彫刻類と幾何学文様が交差しています。
これはモスクの中央部にカトリック教の内陣を増築したことにより、出現した珍しい光景です。
・・・歴史を知らないと気にならないくらい、接合部はなじんでいます。現場合わせに苦労されたであろうと・・・また、設計者の優秀さにも関心します。
古風な、上品な礼拝堂が目に飛び込んできました。ここは第三次増築部分に位置する所ですが
㉑のカピリャ・デ・ビリャビシィオサでしょう。
レコンキスタ後(13世紀)モスクに最初のキリスト教礼拝堂として改造された部分のようです。
13世紀当時は、多分キリスト教徒達の文化と、ギリシャ、ローマ文明を引き継いだイスラム文化では遥かにイスラム文化が全てにおいて優れていたようです。
キリスト教徒の天下になってもイスラム教徒達でこの地に残った人々も多く、彼らの文化をキリスト教の偶像崇拝文化に融合させたこのような落ち着いた独特の祭壇が出来上がりました。
アーチ状の天井はキリスト教時代のヴォールトです。
こちらは、少し装飾が繊細になっています。
天上界から見下ろしているのは、威厳のある聖職者の雰囲気です。
少し離れて見てみると、左手に大きな鍵を持っています。
キリスト教で天国の鍵を持つ・・・バチカン初代法皇 聖パウロ・・・です。
神、救世主、聖母、天使、預言者、そして聖人とカトリック教は布教にイメージ戦略が有効と登場人物が多く賑やかです。
これは、モスク時代の古いアーチに挟まれて、肖像画と磔刑のキリストを前にこの人は?
・・・最深部にやって来ました。
ここがキブラ、最初に建てられたモスクの正面入り口から真っ直ぐ南東に進んだ最深部です。
ムスリムは、メッカのカーバ神殿に向かって日に5回礼拝をします。
モスクで一番重要なキブラについて・・・
「カーバ神殿は、コルドバから南東45度に位置するにもかかわらず、最初のキブラは南東28度で建てられており、
現在のところ、この17度の差に異論のない説明がつかないでいる。」・・・とガイドブックに記されていました。
・・・そして、下の大きなアーチは聖なる窪みと言われる、⑫ミヒラーブへの入り口になります。
ミヒラーブとは「メスキータの中で預言者モハメッドの存在する空間を表わしている」
柵で仕切られ立入禁止となっていました。では天井を見てみましょう。
ここはドーム形状になっています。マクスラ中央ドームです。
素晴らしい・・・これがモスクの特徴でしょう、天使も聖母も、救世主も描かれていない落ち着いた空間でした。
東洋伝来の植物文様、アーチ上辺の壁面には、コーランのスーラ(章)が上下2列に並んでクファ体で刻まれています。
・・・イスラム教のモスクは、正直そんなに関心は高くなかった。
東京、代々木上原に東京ジャーミイと呼ばれる綺麗なトルコ系モスクがあり、内部を映像で拝見したことがありました。
イスラム教の教えの通り、礼拝堂内の内装は偶像崇拝の禁止を守り、デザイン文字や幾何学模様の装飾で構成され、
ステンドガラスの色彩も明るく採光も十分あり、近代的な建築物との好印象が残っています。
・・・イスラムの国と言えば男尊女卑が時々問題となり、石油王国サウジアラビアやイラン、イラクなどでは宗教と教育、女性の社会進出、
男尊女卑の改善、政治体制に反発も起きているようです。
コーランの学術的テキストとされる1841年発行フリューゲル版の日本語翻訳版(井筒俊彦訳)コーランを以前少し読んでみたが・・・
まず、第何章第何節・・・これがどの個所を差すのか明瞭でない場合が非常に多いと最初に書かれてはいますが
・・・アラビア文字は点を上に打つか、下に打つか、一つか二つかで意味が異なり・・・写す段階で間違いが結構あるようです。
・・・第4章 慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
1.人間どもよ、汝らの主を畏(オソ)れまつれ。汝らをただ一人の者から創り出し、その一部から配偶者を創り出し(旧約聖書:アダムの肋骨からイヴを創った)、
この両人から無数の男と女とをまき散らした給うたお方にましますぞ。
アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼み事するときに、いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。
また(汝らを宿してくれた)母の胎(タイ)をも(尊重せよ)。アッラーは汝らを絶えず厳重に監視給う。
女性の章はこんな風に旧約聖書の一文をそっくり引用したようなところから始まります。
神から預言者への啓示の形で庶民に事細かくありがたい説教を・・・神は汝らを絶えず監視しているぞ!、・・・最後の審判・地獄に堕ちる・・・脅しも登場します。
・・・遺産相続も具体的で、男の子には女の子の二人分を・・・
38 (34)節 アッラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、
この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから、貞淑な女は(男に対して)ひたすら従順に、
またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘め事を他人に知られぬようそっと守ることが肝要。(いろんな解釈がある)
反抗的になりそうな心配のある女はよく諭(サト)し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ)、
(それも効かない場合は)罰を与えなさい。だがそれで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。
アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。・・・
コーランは奴隷を認めていますが、紀元前からこれらの土地では奴隷は売買されていましたし、戦場で戦うのは男性で、敗戦は死か奴隷になるかでしかありません。
エルサレムの土地の支配を巡って領土紛争に明け暮れた人々、その様な時代に生まれた男尊女卑、一夫多妻、・・・イスラムの国では今日も存在しています。
妻は4人まで、奴隷はさすがに認められることはなくなっていますが
ローマ帝国軍の領土拡大に奴隷は重要な労働力であったのも事実で、奴隷の補充ができなくなると生産性が上がらず国力は急激に衰えたようです。
・・・コーランには、神からの言葉として広範囲な事柄について具体的な記述が書かれていますが・・、
幼少の年代から繰り返し耳にして抵抗なく受け入れると思われるムスリムの人々と違い、多様な価値観を身に付けた多神教を認める人には・・・、
頭も固く読み続けることすら困難なような気がした、断片的に拾い読みし、・・・本を閉じることになってしまった。
・・・イスラム教(コーラン)について・・・全く理解できていない状態で・・・特徴的な幾何学文様に出会うと
カレイドスコープ(万華鏡)のようだが・・・、あくまで説法の場、その空間デザインとしての役割に徹して・・過剰演出が無く爽やかだった。
・・・すぐ隣では、ここにもイメージ作戦が一番と、この礼拝堂も ショールームのようです。
この様な偶像も掲げられ
・・・中央部に戻って来ました。
「1236年6月29日 コルドバ再征服が完了し、メスキータ全域がキリスト教の寺院として聖別され、
1239年にはサンタ・マリアマドレデ・ディオス(神の母なる聖マリア)の大聖堂として生まれ変わった」とあります。
現在の主祭壇は、⑯ 中央礼拝堂です。
完成までに長い、長い年月が・・・ゴシックから・・・バロック様式まで。
1528年(ルネッサンス後期)マンリケ司教の改造計画(巨大な身廊のために大々的に取り壊す)が司教座聖堂僧会の承認なしに司教の独断で工事が開始された。
僧会は大司教に抵抗できずにいたが、市僧会が王の許可が必要と決議するが・・・無視された。
そこで王の許可なしにメスキータを取り壊したものには死罪ならびに財産と所領の没収を求めることを布告した。
通告はその日のうちに行われたが、司教は布告した王室代理官を破門した。
ついにこの争議が王に持ち込まれ、王は司教座聖堂僧会の言い分を認め、工事の続行を命じた。
・・・王は、セビリアの帰りにコルドバに立ち寄り、メスキータを見てこう語ったと言われる。
「余は、このようなものだとは知らなかった。知っていれば元の建築の取り壊しを許しはしなかっただろう。
そなたたちの造っているのはどこにでも造れるもの、そなたたちが壊してしまったのは、世界に二つとないものである。」
建設には250年の歳月が必要となり、1766年に完成しました。
どこに行っても見られるものを造ってしまった・・・と言われると・・・ガイドブックの主祭壇の説明は・・・若干にしましょう。
中央部を拡大してみましょう
左右にはこの様な彫刻も
祭壇には紅大理石が使われ、バロックの絵画(パロミーロ作)が飾られています。
・・・主祭壇の前の女性は、何を見ているのか?
そちらの方が気になりますか
主祭壇を背にして、反対側は・・・
高窓を通して正面からの西日が強くて・・・逆光にシルエットが浮かぶのは巨大な木彫りの彫刻、中央に司教席
聖歌隊や長椅子もあり一般の人が座って周囲を鑑賞することができます。
両サイド上部には大型のパイプオルガン。
周囲の聖職者用の椅子はマホガニー、豪華な彫刻が施されています。
・・・思い出しました、最初に見たモスクの紅白石積みアーチは・・・増築する際に、塗料で紅白に塗り分けて全体のイメージと調和するように経費の削減をしていたそうです。
イスラムとカトリックが混在する大聖堂を後にしましょう。
中庭に出ました。
夕日に輝く、・・・尖塔改めキリスト教の鐘楼です。
16個の鐘と、コルドバの守護聖人サン・ラファエルの像を取り付けた高さ54mの塔です。
鐘楼に登るには、入場料2ユーロとなります。
・・・では、もう一つの観光スポットとされるユダヤ人の街並みに・・・。
メスキータから北に歩くと・・・商店街でしょうか
イスラムの支配時代、756年から、後ウマイヤ朝の支配者はユダヤ教徒、キリスト教徒を「敬典の民」として容認していたので、地租と人頭税を納めれば、信仰と固有の法を認められていたといわれています。
ユダヤ人は紀元前から迫害の歴史を背負いながら、神に選ばれた民族との強い意志で逆境に強く、財産はいつ没収されるか頼りにならない、
生き残る道は学問、知識であり知恵であり・・・子供には教育熱心な民族のようです。
優秀と言われるユダヤ人の人文学者、官吏、商人などはイスラム国家が潤滑に機能するために無くてはならない存在だったと言われています。
13世紀から15世紀のユダヤ人居住区、世界遺産に指定されています。
キリスト教徒の中にはイスラムの支配に抵抗する者もあったが、多くは平和に共存し、後ウマイヤ朝の都コルドバは文化の中心としても栄えていました。
レコンキスタ終了後、1492年ユダヤ人追放令 布告後・・・この街は 寂しくなっていきます。
メスキータの鐘楼が見えるこの小路・・・この後ろ側は行き止まりの小さい広場
白壁の家並み・・・花の小鉢・・・有名な Calleja de Flores 花の小道 です。
行き止まりの広場にも、お土産屋さんが・・・商売繁盛と笑顔の接客です。
城壁近くの西側にはシナゴガSinagoga かつてのユダヤ教会なども残っているそんなコルドバでした。
・・・セビーリャ、145km 約2時間南下します。
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