気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ノイシュバンシュタイン城 (新白鳥城)

2013-10-23 | 旅行記

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2012年12月まで、こちら側の城壁(北、西)が修復中だったそうで、この工事も無事終わりきれいになった城が見れそうだ。

ここはオーストリアに近いバイエルンアルプス山中の町フュッセン、その町外れの高台に目指す城がある。

近くの駐車場から山道を登る、距離にして1㎞強だろうか。歩くのが苦手な人は、・・・駕籠は無いが、馬車が利用できる。

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馬車はお土産を落としていくので、よそ見をしながら歩くのは危ない。

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下の地図のP4、(駐車場前の建物は2階建てのお土産屋さん)から歩くことになる。

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黄色の道はバスが走るが、この時期は運休のようだ。

ピンク色の道は、そんなに急勾配でもなく散歩気分で歩く。急いで到着しても城の入場は予約制で入れない。

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案内板がある。後で辞書で調べてみよう。

・・・schloβ(シュロス)城 <英:castle>、 neu(ノイ)新しい <英:new>、  schwan(シュヴァーン)白鳥 <英:swan>、  stein(シュタイン)石 <英:stone>とあります。

オッと、また見かけました。子供の遊具かと思っていたら、大人に人気があるんですね。

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しかし、このソリ こんな緩斜面を引いて登って・・・この先にスキー場があるわけでもなく、この道を帰りに滑って降りるのでしょうが、・・・女性の目的はダイエット?・・・仲の良い夫婦のようです。

しばらく歩くと木立の先の高台に、目指す城の見張り塔が見えてきました。

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道の左に建物が・・・ここで馬車は終点となる。この建物には、お土産も販売している。

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もう少しで城の手前の展望台に到着するだろう。城の北側斜面の下を進んで行く。
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道路の左側に広い展望台が貼り出している。

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ここから赤い城門が良く見える。澄み切った青空に、戦乱とは無関係なお城が建っている。

標高1000m、古い城跡の基礎を更に掘り下げて拡張し、ここに中世の夢の城?というより宮殿を建てた王様がいた。

展望台から右に大きく曲がり、急な坂道を100m位進む・・・城の真下に案内板が立っている。

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現在地から左に回り込むように・・・帰りは本館(右側)の横が出口となっているようだ。とすると、城内は一方通行で右からの道を降りてくるようだ。

・・・城壁に沿って左に進み、回り込むと赤の城門に到着する。
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門は開いていて、中に入れそう。

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中庭までは自由に入れる。さて、チケットを見てみよう。

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上はチケットの表、裏には、ツアー番号が印字されている。No.427、オーディオガイドが借りれるのでグループ分けされる。

下はホテルのパンフ。新緑の季節も良いですね!森と湖に囲まれた別荘地・・・

・・・別途、ジオラマの写真と、ポスターで城内の簡単な説明を・・・

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ジオラマの城は、昔 銀座伊東屋で買ったプラモデルで、周回するNゲージの中央に城を創ろうとしたら、この組み立て式の城を勧められた。

山、谷、トンネル、湖にマッチしそうで購入したが、悲劇の城と印象に残っていた。

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城門の先に中庭があり、奥の建物(本館)1階は調理場、1869年明治維新のころ建築に取り掛かっていますから、鉄骨も使用していますし、調理場には水道も引かれています。調理場で料理を作り4階の王の元へリフトで運ぶ最新式のようです。

見学は4階から・・・一番高い北の塔は68m・内部はラセン階段があり、そして南の塔にもラセン階段があります。

このラセン階段を登って4階玉座の間など・・・さらに階段を登って5階、歌人の間などを見学します。

2階は使用人の部屋があり、3階の隅に売店がありますが未完成の部屋も多く、この城は中庭に90mの天守閣、その1階に礼拝堂の建設予定だったが未着工の状態で王が亡くなり、後は資金も無く建設中止

・・・観光施設になり、今日まで少しづつ手が加えられていますが、公開されている部分が限定されています。

この城は現在バイエルン州政府の所有で(ホーエンシュヴァンガウ城はドイツ国の所有)、この地区はローマに続くロマンチック街道の終点となり年間100万人以上の観光客が訪れる重要な観光資源です。

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中庭に入り、城門の内側から振り返ると3階にバルコニーのある部屋が、・・・この城門館は最初に完成し(1873年頃)、王が建築中の城を眺め宿泊できるように・・・そのための王の部屋です。

この中庭に、何やら表示されています。426の数字・・・チケットの裏のNo.を確認するとツアーNo.427、次が入場の順番。
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自動改札機を通り、柵の向こう側を右に進み階段から中の廊下に進むことになる。

城内はカメラ・ビデオ撮影禁止となっている。

廊下で、オーディオガイドを借り、ツアーグループ単位で移動する。

ガイドブックから、間取りを見てみよう。

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北の塔ラセン階段を登り4階に、・・・最初が控えの間、壁画は「ニーベルンゲンの指輪」の基になった伝説から第一部の場面が壁面に描かれている。、

この上の5階の控えの間に第二部の場面が描かれていますが、ジーグルト伝説を知らないので・・・?

玉座の間(公開されている資料から)

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4~5階吹き抜けにした重要な玉座の間、階段の上手に玉座が・・・無い。玉座を据え付ける前に、王が亡くなってしまった。洞窟が最優先で玉座はその内に・・・

王の死後有料で公開するには、正面も天井もこの部屋は簡素すぎる?・・・右上に見える900㎏のシャンデリア、これは王の死後、1904年に据付けられた。

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居間などには、騎士、白鳥、中世の城など鮮やかな彩色の絵画、名場面と思われる物語が描かれている。

良く見かける著名人の絵画や、ギリシャ彫刻は見かけず・・・

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「白鳥の間」があったり、陶磁器製の大きな白鳥が置かれていたり・・・
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洞窟?・・・この本館の内装で最初に取り掛かったのが洞窟・・・居間と執務室の間に・・・鉄の枠組みで人口の鍾乳洞を創らせ、滝も配置し照明の効果も考え・・・舞台装置を城の内部に造らせた。

上層階は

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歌人の広間が中心です。

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王が22歳の頃、ヴァルトブルク城の「祝宴の広間」を見て感動し、自分の城にも素晴らしい広間を創ろうと思った・・・

さて、広間は・・・ワーグナーのオペラの題材にしたクリングゾルの魔の城を舞台にした「パルシファル」の伝説が描かれているという。

・・・この城を造った王様について調べてみました。第4代バイエルン国王。

バイエルン国は、6世紀頃からドイツ南部ミュンヘン一帯で公国や王国の時代が続いたが、第一次大戦後の1918年に滅亡しています。

1845年8月、主人公が長男として誕生、祖父が国王で、誕生から3年後に父親が国王に即位し、本人は王太子になった。

1864年3月10日父の国王が逝去し、王太子は18歳で、第4代バイエルン国王・ルートビッヒ2世の誕生となります。

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・・・父親が廃城を再建したホーエンシュバンガウ城(昨日の夜景)には、中世の騎士像や白鳥が描かれていて、ローエングリンの城とも呼ばれていた。

この城でルートビッヒ2世は弟らと英才教育を受けて少年時代を過ごしているが、友人も無く、孤独で、ケルト神話のローエングリンや中世の騎士の世界にあこがれを持つようになります。

・・・「聖杯の騎士・ローエングリンは、白鳥の姿をした天使の引く船に乗って現れ、公爵の娘エルザを救います。騎士は自分の身元や名前を決して尋ねてはならないとエルザに告げます。

・・・世界には似たような話があるものですね ・・・

エルザが聞き入れたので結婚します。・・・物語は、・・・訳あり結婚・・・悲劇の結末に」 。

この物語は、オペラ「ローエングリン」として1848年ワーグナーが発表します。

ルートヴィヒ2世は、12歳の時にミュンヘンでオペラ「ローエングリン」が上演されていることを聞き、台本を入手します。

15歳で、念願の「ローエングリン」を鑑賞できました。

18歳で、国王になり、ワーグナーに使いを送ります。

ワーグナー・・・波乱の人生を送っています。30台で貧乏生活からやっと宮廷指揮者になるが、ドイツ3月革命に参加して・・・革命は失敗

指名手配され、スイスに9年間亡命、この時期に「ローエングリン」を完成させる。作家の経歴もあり、オペラから発展させた総合芸術を目指し「楽劇」理論の論文も書いています。

生活は、・・貧乏→スポンサーが現れ(一転浪費の生活)→借金・貧乏を繰り返し、女性も数多く登場し、当時50歳

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ワーグナーは借金取りから逃げ回っていたので、探すのに時間がかかった。

ルートヴィヒ2世は、ワーグナーの借金を肩代わりしてやり、宮廷に招いた。

しかし、ワーグナーには悪いうわさが流れていて、家臣の反対が強く、1865年12月、ワーグナーを追放します。

若干19歳の国王は、これ以降国政を嫌うようになる。幼少時代から金は使い放題だったようで王室費・私財はあります。

オペラの舞台・劇中舞台の中に浸りたい、聖杯の騎士として・・・パリのヴェルサイユ宮殿は素晴らしかった。

・・・1868年、城の建設を発表します。新白鳥城です。

一方、追放されたワーグナーはスイスに流れ、人妻と不倫の後、再婚します。

1872年理想の「楽劇」を上演するには自前の劇場を・・・ドイツ、バイロイトで寄付とルートヴィヒ2世からの援助を受けて「バイロイト祝祭劇場」の建設を開始します。

1876年完成、ルートヴィヒ2世、31歳、8年振りにワーグナーと再会します

この頃建設中の城は、城門館が完成し、本館建設と進行中、大量のセメント、石灰、砂、大理石、レンガと多くの資金が必要でした。

資金繰り?・・・借金でしょう、国務を放棄して夢の実現に・・・ところが、金銭感覚がないから更に2か所で城を建設しています。

1881年本館の外観が完成し、5階の歌人の広間と4階の居住部分の内装工事が始まります。

・・・・・1883年2月、リヒャルト・ワーグナー旅行先のヴェネツィアで「人間における女性的なるものについて」の論文執筆中に、心臓発作で亡くなります。

1884年5月、早春の候、4階居住部分が完成し、王が入城します。

・・・・・1886年6月12日、バイエルン政府は計画通り王を形式的な診断で精神病と認定し、逮捕、そしてミュンヘン郊外のベルク城へ送られました。

翌日、グッデンと散歩に出かけた王が夕方になっても帰らず、・・・夜半に近くの湖で王の水死体とミュンヘン精神病院長で王を診断したグッデンの絞殺体が発見された。

・・・・・謎のまま時が過ぎ・・・、一方城は有料で公開されると・・多くの入場者が押し寄せたそうです。

1892年、城の中庭の横には崖・・・崖が見えなくなる効果があるから、ここには基本設計通りに貴婦人の館を建てようと、簡素な造りで建てました。

1904年、王座の間に玉座は無いし、せめてシャンデリアは取付けようと、上下動のできる900㎏のシャンデリアが据付けられました。

本来の基本設計では、上の中庭にシンボルである90mの主塔が建ち、その1階は礼拝堂になる予定だった。

1988年、多くの観光客が訪れるこの城に、主塔を建てるとこれまでとイメージが変わる、建築費も・・・中庭に白い石版を敷き、建設地が分かるようにしました。

謎の国王の死後、未完成のこの城を元手に商売している関係者が、この処置で完結?・・・とはならないでしょう。

静かなフュッセンの町外れ、その高台に、夢の城を造りたかった青年の物語、・・・物語が完結せずに埋め込まれた観光の城がありました。

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城から4㎞、フュッセン中心部、

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15~16世紀の建物が多い旧市街、銅像はフュッセンの守護聖人マグヌスでしょうか。

約2000年前、地中海からアルプスまで、古代ローマ人が建設したローマ街道が通っていました。

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南に1㎞位でオーストリアの国境のある町フュッセン

ここから、今日では南ドイツの観光街道(ロマンティック街道)が続く、全長385㎞
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フュッセンで食事後、また高台に見えてきたノイシュヴァンシュタイン城に別れを告げて、ヴィース教会へ、25㎞、農村の中に突然と・・・

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