エアコンでぐっすり眠れた。今日も天気がよさそうだ、AM7:30、1階のレストランで朝食、中国はお粥が美味しいのだが、ここは具材が少ないしコックさんの調理もなさそうで、洋食にしよう。
・・・台北の北部の丘陵地帯に向かってバスが走る。
今日は金曜日、台湾はバイクの普及率が高く、バイク通勤が多い、もちろん女性も、・・・50ccでも二人乗りはOKとのこと、
そして赤信号になると後方のバイクが車両の間をすり抜け車線の先頭に並ぶ、・・・するとこのように暴走族かと思うような一団になる。
土曜、日曜になると、子供をハンドルとの間に立たせ、3人乗り、背中に一人背負うと4人乗り・・・全て違反だが取り締まりは甘いそうです。
東南アジアでは、後ろの荷台上に車軸と平行に板を敷き、板の中央に一人が立ち、両サイドに人がまたがると後輪の上に3人、ハンドルの前後に一人づつ、計6人の動画を見たことがあります。
交差点付近ですり抜ける際に人や車との接触事故が多いそうで、通行人も気をつける必要があります。
そうこうする内にトンネルを抜けると丘陵地帯が目に飛び込んできました、もうすぐです。
・・・間もなく 故宮博物院 正面へ・・・ここからバスは右側の曲がった坂道を登り、チケット売り場のある地下1階正面入口に着きます。
帰りは、・・・この広場のこの位置の横にある駐車場まで歩くことになります。
帰り際に撮影した画像を逆にご紹介しましょう・・・この場所から正面の建物に歩いて行くとこの様になります。まずは右側に案内図があります、見てみましょう。
では進みましょう、緩やかな階段を登ると三層のアーチがあります。
天下為公・・・”天下は為政者のものではなく、国民のもの” 孫文が好んだ言葉と言われています。
庭園のような・・・また案内図があります。
この左の高台には、三つの建物があり、別料金で特別展などが行われる。 右側が 至善園 約7000坪の庭園です。
正面の第一展覧エリアに向かって進みます。
・・・国立 故宮博物院 世界4大博物館のひとつに数えられています。
紀元前2000年から19世紀の清まで、総点数69万点、一度に展示されるのは1%に満たないといわれ、3000~5000点を数か月に一度入れ替えし展示される。
無休、料金は250元(約800円)、69万点の中華文物コレクションの大半が清国の時代の物といわれます。
最後の階段が左右にあります。
そして階段を登り、地下1階正面入り口が見えてきました。
これが中国の宮殿様式ですが、中央のポールに掲げられているのは・・・台湾の国旗でしょうか
紅色の地、その左上に青地に白いひまわりのような太陽のマーク(青天白日旗)が描かれています。
これは青天白日満地紅旗と呼ばれ、当初は中華民国の海軍旗・・・現状は台湾(中華民国)の国旗とされていますが、台湾の国民感情は複雑なようです。
中国本土の歴代皇帝がコレクションした文化遺産が何故、海を渡った台湾にあるのでしょう。
近代史を勉強してこなかったので調べてみましょう。
・・・1895年、日清戦争で中国大陸の清国が敗戦しました。清国は、日本に台湾・遼東半島などの割譲、賠償金を支払うことになります。(後に遼東半島は返還される。)
その後、清朝は衰退の一途となり、体制内から改革の動きはあるも効果が無く、1911年四川で暴動、(湖北省)武昌で蜂起、清朝からの独立宣言が・・・各地に飛び火し「辛亥革命」が起こります。
革命派は1912年南京で「中華民国」の成立を宣言し1月、孫文が臨時大総統になる。
・・・清朝は軍人の袁世凱(エンセイガイ)に革命派と交渉させるが・・・・袁世凱は、何と・・・自らを臨時大総統に就任させるなら・・・と清朝の宣統帝溥儀(セントウテイフギ)の退位を認めてしまった。
そして、溥儀は中国最後の皇帝として有名になります。・・・・映画「ラストエンペラー」です。
1912年2月、あっと言う間に・・・ここに清朝は滅亡し、秦の始皇帝からの皇帝による長い王朝支配体制が終わることになります。
・・・この年、日本では7月に明治時代が終わり、大正元年となります。
最後の皇帝・溥儀ら皇族は臨時政府から「優待条件」を受け紫禁城で暮らすことが暫く認められます。
・・・その12年後、退去命令で紫禁城を追われ、この城の一角が故宮と名前を変えて公開され、故宮博物院の誕生となりました。
故宮博物院のパンフレットから、各階のレイアウトをご案内します。
地下1階から入場し、エスカレーターで1階へ・・・・・残念ながらパンフレットの院内注意事項に撮影禁止!とあります。
このフロアーの工芸品、106の区画に置かれた象牙透彫雲龍文套球が有名です。・・・撮影禁止ですので・・・・・・ガイドブックから公開されている画像を
多層球と呼ばれ象牙を球状に加工しその内部にも球状の殻をくり抜いています・・・これが19層とか21層とか諸説ありますが・・・中の細工が施された殻が各々回転します。
製法が判らずでしたが、近年になってやっと謎の製法が解明されたと報道がありました。・・・球を8面体に置き換えた場合、各面から球の中心に一定の深さまで穴を掘ります。
その穴に特殊な小刀を挿入し内側の球を加工し、順次薄皮のような殻になおかつ透かし彫りを入れる・・・最新医療でマジックハンドを使った手術よりも困難な作業と思われます。
昔の人は視力が良かったのでしょう、気の遠くなるような根気のいる作業から作り出された工芸品です。
そして3階に上がると、ここには更に有名な細工物があります。
302室のようですが、
・・・しかし、大きな写真が貼られていました。この博物院が誇る作品です。パンフレットも302室は違う作品です。
台湾南部に昨年末 国立 故宮博物院 南部院区 がプレオープンしたそうです。今後台北と南部院区の2ヵ所でコレクションを公開することになり、只今この作品は台湾南部に出張中でした。
・・・実は、この作品は2年前、日本でも公開されたのです。2014年6月 東京国立博物館で、・・・ご覧になった方も多いでしょう。
作品名、翠玉白菜(スイギョクハクサイ)、清代の作品です。
全長19㎝、翡翠の原石から造られています。
拡大写真は・・・・
上の画像は台北市内の免税売店内に置かれた白一色で50~60cmはある大きなコピー白菜です。
この足が何の昆虫か判りますか?エッ、イナゴ、これはキリギルスと言われています。
こちらのキリギリスより小さい(半分以下のサイズ)昆虫が白菜の葉の反対側にとまっています。これがイナゴのようです。
本物の翠玉白菜(スイギョクハクサイ)では緑色の葉先部分にイナゴとキリギリスがとまっています。
子孫繁栄を意味するようです。
売店ではこの翠玉白菜(スイギョクハクサイ)をマスコットにした小物が数多く並んでいました。
白に緑のグラデーションが見事な翡翠の原石を見て、・・・白菜を創ろうと発想されたのでしょうが発想も技も見事です。
尚、翡翠の緑の葉は一部彩色が施されているとのことです。
・・・野菜に対して、もう一品有名なものがあります。
肉型石、これは大きな画像ではイメージが涌き難いのですが・・・肉です。豚肉の角煮の一種(中国料理では「東坡肉(トンポーロ)」のようです。
こちらの作品は、L=53mm、W=66mm,H=57mm 手のひらサイズです。
層状になった岩石の表面の変化を皮に見立て、この部分に針で穴を開け各種の染料を流し込み、脂身、赤身とリアルに彩色されています。
階段を下り、2階は器物、陶磁器コーナー、また書画エリアは中国の芸術として特筆されるところです。
これらに関し、精緻な造りと、バランスの見事さに感心しながら・・・知識が無いので省略。
公開されているのは、ほんの一部、これらのコレクションは、かつて北京の広大(70万㎡)な紫禁城内にありました。
清朝が滅亡しても時の中華民国臨時政府(孫文)の「優待条件」として、溥儀や親族は城内で生活をしていました。しかし、1924年10月北京政変の際に、約12年間優待を受けたが溥儀らは紫禁城を退去させられます。
そして1925年北京の紫禁城で古い都、「故宮」の名がつく博物院の形態で公開されますが、日中戦争の戦火から逃れるために1931年中華民国(蒋介石)政府は膨大なコレクション(木箱約13,000~20,000箱)を北京から上海経由南京(当時の中華民国の首都)に移します。大量の数です、数回に分け、2年くらいかかったようです。
1937年日中戦争が始まると南京も危なくなり、内陸(四川省など)の洞窟など分散して移されます。
そして1945年、日本が敗戦して、中国大陸の故宮コレクショウンは?、・・・一旦関係者により南京に集められます。
ところが・・・中国大陸では、毛沢東・周恩来らの共産党勢力と、共産党を弾圧していた蒋介石の国民党の対立が激しくなり、1946年から1949年まで内戦状態になります。
内戦の結果、国民党軍が敗れ、日本が撤退した台湾に逃れることになります。
南京から4000箱のコレクションが1948年頃から軍艦で台湾に密かに運び込まれ、山中で15年間隠され続けます。
・・・内戦に勝利した共産党が中華人民共和国を1949年10月1日建国し、南京に残ったコレクションは、管理する北京の紫禁城(博物院)に大半が戻った。
一部は、1933年に開設した「中央博物院」現在の「南京博物院」に・・・、これに対し「北京の故宮博物院」が返還要求を続けているが変換に応じていないようです。
近年、南京分院で2,000箱が発見され話題になりました。
・・・そして1960年代、台湾山中からコレクションが新装なった台北の博物院に持ち込まれます。
北京の紫禁城に故宮博物院がありますが、ここ台湾(中華民国と呼ばれていた)でも国立 故宮博物院として公開されます。(東京オリンピックの翌年、1965年でした)
そろそろ国立 故宮博物院を後にして、市内に戻りましょう。
・・・・・11時を少し回ったころ、チョットした儀式が
5人の衛兵が行進しています。衛兵交代儀式です。第一印象が若い!・・・右隣をSPの様に同行するのは指導員でしょうか。
広場を直進します。
行く手に紫禁城を模して1969年に建てられた大殿が・・・
ここは、中国本土の辛亥革命で亡くなった・・・(台湾に逃れてきた人々は・・・蒋介石の国民党です)人々、その後の戦争で亡くなった人々の霊を主に祀っています。
さて、1時間お勤めお疲れ様でした。2名が交代し、再度大門へ戻ります。
この方は?身なりを正して・・・、笑顔が見えます・・・衛兵二人をフォローする黒子でしょうか、
広場を直進して大門に戻って来ました。
行進は合わせやすいが、スローな動作はどうも・・・、白服は海軍の若きエリート、職業軍人です。・・・日体大の学生パフォーマンスには負けられないですよね。
ここは中烈祠とありました。
・・・平日の昼近く、行列が出来ています。
台北で人気のお店、
小籠包、台湾の料理ではなかったですね。
気がつきました、通りの先に101 台北が世界に誇る高層ビルが見えます。
ここは、明日地下鉄で行ってみましょう。
昼食後2~3か所巡って、夕日が見えるころ九分に・・・天候が心配ですが。
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