気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ローテンブルク マイスター・トゥルンク

2014-01-07 | 旅行記

あわただしく師走から新年へ!

2014年正月、東京は穏やかな日差しに恵まれました。元旦に珍しく行列覚悟で初詣にでかけてみました。

例年元旦に車で交通規制の神社の前を通り、道路にならぶ参拝の行列にここもすごいなぁと感心していた東京大神宮に・・・。

境内が狭いから多くの人が並んでいるが1時間くらいだろうと最後尾に並ぶ。最後尾から通りを2~3渡った多分ここから200mくらい先の左に神社がある。

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これが何と境内まで約2時間、右側の手水に並び手を洗い清めると巫女さんから手拭き用の紙を手渡される親切さに驚く。

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鳥居の横で更に、「謹賀新年 お寒い中を ようこそ 東京大神宮へ。」 と挨拶文が添付された東京大神宮関連のご案内(パンフ)を頂く。

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境内に入ると、参拝者の列の右端に神官が・・・参列者に次々に・・・お祓いをして頂けた。

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この東京大神宮、東京のお伊勢さまといわれる。明治13年東京における伊勢神宮の遥拝(ヨウハイ)殿として創建されましたとあります。

遥拝:はるかに遠い所から拝む、 このため伊勢神宮のご分霊をおまつりされているとのこと。

昨今、縁結びの神様として大人気のようで若い女性が多く見られた。そして伊勢神宮といえば

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全国的に有名な赤福のコーナーもお正月の名物行事。心のこもった人気の「東京のお伊勢さま」でした。

・・・

ROTHENBURG O.D.T.(ローテンブルク・オプ・デア・タウバー)・・・その2

1142年から続いているといわれるこの風景、周囲を3.5Kmの城壁で囲み、周囲は穏やかな田園風景が一望できる。

1274年神聖ローマ帝国の直属の自由都市に認可され、約300年繁栄しました。もちろんローマ・カトリック教です。

しかしルターの宗教改革によって、新教派(プロテスタント)とカトリック教に分裂・対立します。

紆余曲折の末プロテスタント側に付いたこの町は1618年からの30年戦争に敗れ、1803年に自治権を失い、領土の半分を削除され・・・

中世の時代のまま発展できずに時は流れ・・・極貧生活、街は城壁の外側に拡大することもでず。

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(これは当時のカラー写真?・・・お店のディスプレーです。良く見ると人物が・・・)

その後、1945年3月米軍空軍機の誤爆で東部地区破壊・・・・

戦後、世界からの寄付・援助で当時の街並みのまま忠実に再建・復興しました。・・・時代から取り残された中世の町が、今日ドイツで一番人気のある観光地といわれています。

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町の南のホテルから北側に向かって緩やかなメインストリートを登ると、直ぐにマルクト広場に出る。

マルクト:市場の事で、ドイツ各地にマルクト広場の名称があるから注意が必要になる。土地の名前ではないので、ローテンブルクのマルクト広場といえば、この場所になる。

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広場の北側(正面)に市議宴会館、あるいは参事宴会館(ラーツヘルン・トゥリンク・シュトゥーベ)と呼ばれる1446年造の三角切妻屋根の建物がある。

西側(左)は、二棟式市庁舎(ラート・ハウス)、前棟はルネッサンス式(1572~78造)で、アーケードが1681年造。市庁舎の壁面には当時のエンブレムが

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後棟は鐘塔60m、火災を免れた13世紀のゴシック造りの建物が残っている。

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この鐘塔には階段で登れるが、広場に戻ってみよう。

さて、始まるかな・・・30年戦争時代町を救ったある物語

マイスタートゥルンク (Meistertrunk)・・・「市長の一気飲み」とは?

・・・先程のディンケルスビュールの町は、改宗しないでカトリック教が続いていました。その結果、プロテスタント側のスウェーディン軍に敗北してしまいます。攻め込んだ将軍に町を壊さないように訴えたのが子供たち、願いが聞き入れられ町は救われたのでした。・・・

ここローテンブルクの町もカトリック教でしたが、ルターの宗教革命後、紆余曲折の末プロテスタントに改宗しました。

この町は1631年10月、カトリック側の連盟軍ティリー将軍の率いる3万以上の兵に包囲、占拠されました。

ティリー将軍は、この町のわずか700人余の兵隊と女・子供たちに、自軍が大きな損害を受けたことに腹を立てていて、町の議員達を全員処刑し、町も焼き払うという決定を下しました。

町の人々はマルクト広場に集まり、女・子供たちはティリー将軍に皆の命ごいをしたが、・・・聞き入れてもらえませんでした。(ディンケルスビュールのようにはいかなかったようです)

そこで少しでも将軍の気持ちをやわらげようとワイン管理人の娘が、この地方の美酒フランケンワインを、町の宝である選帝候の大杯についで将軍に差し出しました。

将軍は美酒に酔いしれ機嫌が良くなったのか、この大ジョッキのワインを一気に飲み干すものがいたら、町を救おうと言い出しました。

ヌッシュが名乗り出ました。当時の市長です。市長は将軍に念を押しました。

・・・「私は43才の今日ここで倒れて死んでもいい。しかし将軍、あなたは必ず約束を守ってくれるか。私がこのワインを飲み干したなら、死刑も、町に火を放つこともすべて許してくれるか」

約束を取り付けると今度は町の人に向かって叫びました。

・・・「見ててくれ、みんな!  これまで市参事会がある度に飲んできたのもダテじゃない。
今日は私がこの町のために飲もう!」

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そう言い終わると、10分間で3.25リットル入りの大杯を見事飲み干したのです。

町は救われ、この町の伝説(史実)となる。

                                
市議宴会館の切り妻部分は、上から日時計、帝国直属の自由都市を象徴する双頭の鷲、カレンダー時計、1683年に設置された町の主時計があります。

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ここに名物の Meistertrunk (マイスタートゥルンク)見事な一気飲み:約2分間の仕掛け時計です。

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左右の窓は時間になると開き、マイスタートゥルンクの主役の2人、ヌッシュ市長とティリー将軍が現れる。この仕掛け時計は1910年に設置された、ローテンブルクの名物です。

次は、聖ヤコブ教会・・・この広場から3分、市庁舎と市議宴会館の間を抜けて北西に・・・しかし、まだ時間が早く閉館中。冬季はAM10:00からでした。

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西側のブルク公園へ・・・

マルクト広場の南西に泉がある。

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この泉はゲオルクスの泉と呼ばれ、ドラゴンを踏みつける聖ゲオルクスが頂部に鎮座しています。冬季の間は破損しないように彫像が保護されていた。

角の建物に素敵な看板が掛かっている。

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コップに?の模様、さらに杖に何かが・・・拡大してみよう。

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これは薬局・・・、杖に蛇が巻き付いている。ギリシャ神話の医の神の名前に由来するようで、アスクレピオスの杖と呼ばれる。

医薬との関連は、蛇は毎年脱皮する・・・それで若返りを連想する。この杖と蛇の紋章はヨーロッパ中の薬屋のマークになっている。

この大きな看板は、動物が・・・

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HOTEL Goldener Hirsch 「金鹿館」 金色の鹿の看板でした。

壁面広告がなく袖看板も無い、入口の上部に一定の高さから腕を出す方式で、鍛冶屋が腕を競ったのでしょう。

ワイン、パン屋と楽しい看板が見られます。

マルクト広場の南端からブルク公園に向かう大通りがヘルン・ガッセと呼ばれ、左右には貴族の家が並びます。

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中央には泉ヘルン・ブルンネンが、昔ここは馬市が開かれていた。

そして広場の南から西に向かって、かつての馬市の場所がある。

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右端に見えるのがブルク門、ここは城外・・・ここがブルク公園です。

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右側前方で塔が数本みられるのが旧市街の南地区。

ローテンブルク オブ デア・タウバー:タウバー河沿いのローテンブルグの意味で、右の斜面の下がタウバー渓谷となる。

また広場のほうに進む

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この付近は住民の駐車場なのか・・・スロープ式で地下に駐車場を造ればいいのに・・・

旧市街の中は、掘ればあちこちから遺跡が発掘されるので無理なのでしょうか?

聖ヤコブ教会に戻ってきた。

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この町の主教会、1311~1484年に建立されたゴシック様式の重厚な建物。立派なステンドグラスが施されているようだ。

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内部に入ろう。

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天上界に届けと高く、より高くとスッキリした室内に驚く。正面の祭壇、その奥に見事なステンドグラスがあった。ステンドグラスは14世紀に造られ、高さは17m

中央は「キリストの生涯と受難の場面」、左「マリアの生涯」、右「キリストの救済」

主祭壇の扉絵は1466年に描かれていて、火災に会う前の市庁舎と広場が描かれているとあるが、扉が開いているので扉絵は見ることができなかった。

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主祭壇は木彫りで、塗装が施されている。磔刑のキリスト像、6人の聖者(左からエリザベート、ヤコブ、マリア、ヨハネス、レオンハルト、アントニウス、エレミタ)とのこと。・・・残念ながら勉強不足で聖者は詳しくない。

開いた扉の内側には受胎告知や東方三博士・・・などが描かれています。

下部の横長の部分(祭壇飾り台プレデラ部)にイエスと12使徒が・・・この主祭壇は「十二使徒祭壇」と呼ばれる。

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これも見事な作品

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左の側廊にこのような木彫りが置かれていました。この地で制作されたのか、十字軍が持ち帰ってきたのか・・・厳しい時代が思い浮かんできます。

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入口で2?を支払い、2階に登る階段から1階を振り返ったところです。1階は無料で開放してますがこの階段の上が有料です。

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2階西側にあるこの作品が、この教会を有名にしています。聖血祭壇

十字軍はローマ法王の招集で、ヨーロッパ全土から何度も編成されました。この地からも出陣しています。長い戦いの後、地元に戻るには聖地エルサレムから土産を持ち帰る必要があったでしょう。

十字軍はカトリック教徒、キリスト教の信者です。聖地から持ち帰るのに最高なのは、聖遺物と称される物でしょう。従って十字軍のお土産が、ヨーロッパ全土に広まりました。

この地でも1270年頃エルサレムから持ち帰ったというキリストの聖遺物、十字架の中の水晶の玉を祀ることになりました。

祀る祭壇は、元ヴェルツブルグ市長で彫刻家 ティルマン・リーメンシュナイダーが1499年~1505年にかけて市から注文を受けて制作します。

彫刻は地元の家具職人 エアハルト・ハルシュナーが祭壇に組み上げたとあります。

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中央の彫刻は「最後の晩餐」・・・木彫りです。構成・技能、見事な出来栄えです。

左側:イエスのエルサレム入場、右側:イエスの祈り(ゲッセマで)

上方を見てみよう・・・十字架があります。

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聖遺物の部分を拡大してみましょう。

二人の天使が支えている十字架、その中央に水晶玉があり、その中に聖血イエスの3滴の血・・・

血が本当に入っているのか?   ・・・今日では、そのようなことを詮索する時代でもなく・・・、800年前の中世の時代には、教会は聖遺物という錦の御旗と物語があれば信者が喜んだということでしょう。

ルネッサンス・・・、自然科学が発生し、新しい時代が到来し・・・、プロテスタントの教会が現われてきます。

・・・宗教の力とは?・・・全てを捨てて寄りかかると、自立できなくなるような強大な力があるようです・・・ユダヤ教、イスラム教、そして原理主義(教条主義)の影響力を思い知らされることになりました。

太陽の光と風に吹かれたくて、教会を後にする。

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中世以前のヨーロッパは、農耕・狩猟が中心で、地中海、エジプト文明とは大きな違いがあった。あちこちのお店に木のおもちゃや動物が目立つ。

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世界で最初、クリスマス用品専門店が何と1年中オープンしているお店も有名です。

もちろん、熊のぬいぐるみも有名です。

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Teddyland ドイツ最大級のテディベア専門店。他にも、ぬいぐるみ、絵本、食器、文具などもあります。約3000種以上とか。

伝説の市長が住んでいた建物、Roter Hahh(ローター・ハーン):ホテル・レストラン・お土産やが現存していて、宿泊したホテルからマルクト広場に行く途中、右側にあり写真に撮ったはずだが?・・・ドイツの家・・・皆似たようで見つからない、残念!

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