東京は連日の猛暑、暑さだけならまだしも、湿気が多いのは困りもの。湿気が嬉しいのは胡蝶蘭。
ブルーベリーの鉢が4鉢と減り、ハイビスカスの鉢、そしてぶどうの鉢が減ったので、この夏はゴーヤで緑のカーテンを作り、オクラとモロヘイヤを各々3m位並べて・・・緑の草原の雰囲気。
さて写真の整理が残っている、岐阜城について
戦国時代 稲葉山城(今日の岐阜城)は、この地域が井ノ口と呼ばれていたので「井口城」、あるいは金華山にある城で「金華山城」と呼ばれていたそうです。
信長が1567年8月この城を攻略し、この地方一帯を平定し、「井ノ口」の地名を「岐阜」と改称し岐阜城となったのは有名な話です。
この当時の城主について
その後、1600年8月 当時の城主織田秀信が西軍に味方したため、関ヶ原の前哨戦として東軍に攻められた。
東軍には、元稲葉山城主 池田輝政が参戦していた。・・・・・運命ですね、激戦の末落城する。
翌1601年6月 岐阜城は廃城となり、天守閣、櫓(ヤグラ)などは加納城に移された。
最後の城主が、織田信長の孫 織田秀信(幼名が有名な「三法師」、信長の後継者に担がれました) 落城当時若干21歳(数えで) 波乱の人生です。
織田秀信・・・父は信忠、・・・祖父は信長、曽祖父は信秀
当時は誕生すると1歳、年が明けると(元旦に)2歳、12月に生まれたら1か月後に2歳です。
年齢の数え方(数え年)と月(旧暦)が現在と異なるので注意が必要です。(誤記もあります、あしからず)
現在の城は、1956年(昭和31年)7月 当時の建築を推定して復興され、鉄筋コンクリート造り三層四階構造、棟高17.7m。
1階 「武具の間」
刀の鍔(ツバ)
合戦で斬り合いになった時重要なのは甲冑(カッチュウ)に負けじと突きの動作、この時、持ち手が刃先まで滑らないように柄の部分に取り付けられた。
斬り合いで相手の刃を受け止めるには大きいサイズが有利だが、合戦の組打ちでは大鍔(ツバ)は帯につかえて動きが妨げられ弱点にもなる。
刀の長さも色々で(腕の長さが抜き易い基準のようですが)、鍔の大きさ、仕上げも色々あり交換部品として商いされたようです。
鍔は付いていれば良い時代から機能美・そして加飾、名工も美濃を始め全国に生まれ、透かし、彫金、・・・技法も発達していきます。
刀剣も、太刀(タチ)は最初は刃が直線でした。徐々に刃に鎬(シノギ)があり、反り(ソリ)がつくようになる。
馬上での切り合いが主流の平安・鎌倉時代から室町時代までは、太刀が主流のようです。
太刀は刃を下(地面)にして腰に吊り下げる様式、鎧兜で防御した武者人形のイメージでしょうか。
戦国時代は、武士の中でも主に武将達が使っていたといわれています。
江戸時代の無名の刀・・・豪華な鞘袋ですね。鞘袋は鞘(サヤ)・刀身の損傷防止や雨対策もあったようです。
刀身、柄(ツカ)、鍔(ツバ)、鞘(サヤ)・・・武士は細部まで手入れを怠らず・・・
名刀が手に入ったら、実戦で即使ってみるでしょうか?・・・そうは簡単に戦場で使用できないでしょう。刃こぼれするし、破損するし、せいぜい試し切り?
機能・耐久性が向上したわけでもなく、高額な美術工芸品を購入して鑑賞できる喜びでしょうか。
名刀はコレクションされ、諸大名への贈答に重宝されました・・・茶器と同様ですね・・・そして新品同様の品が、このように展示され美術品として後世に残った。
信長が桶狭間の勝利で、敵将義元の名刀「義元佐文字」を手に入れ、茎(ナカゴ)に自分の銘を刻みなおしています(参考:建勲神社蔵)
武士は、武具にはお金をかけたようです。
江戸の初期、肥前の刀工に刀を頼んだら・・・金100貫(=1文銭1000枚) 約200万円とありました。貧乏武士は、数年のローンが必要なくらいの金額です。
ところで黄金が大好きな豊臣秀吉は、関白時代どの位刀剣を所有していたのでしょうか?
1598年8月死期を悟り、五奉行を枕元に呼びよせ息子の将来を頼み、そして形見分けに刀箱を7箱持ってこさせると・・・・・
名刀「一期一振吉光」(国宝)を含め、何と高価な刀が82振も入っていたそうですよ。・・・ザックリ 約300億円!ともいわれます。
前田利家、徳川家康らに形見分けされた名刀は、現在国宝指定となっています。
室町中期以降から江戸時代には、刀身の刃を上向きに鞘に納め、腰の帯に差す刀が主流になりました。
このスタイルの刀剣を打刀(ウチガタナ)と呼びます。
・・・抜いたら即袈裟に振り下ろす・・・一瞬の勝負
剣術の流派が数多く誕生します。
江戸時代は大小2本の打刀を差すようになり、これが大刀(ダイトウ)・小刀(ショウトウ)となり、今日TVで見慣れたスタイルになりました。
鎖鎌: 田畑で収穫時襲われたら草刈鎌など身近な農具で戦う、・・・農地を守るために武装した・・そして武士が生まれた、・・・身近な武器の発展系
兜:・・・馬上で自己主張した個性ある優雅な兜は、弓矢対策から鉄砲の時代へ進化していく
2階 「城主の間」
根性のある策士の顔ですね・・・、美濃、稲葉山城の元城主 斉藤道三
織田信秀(信長の父)が1547年、何度も美濃を攻めるが道三(美濃の衆)には勝てない。
そこで家臣の平手政秀が、我殿 信秀の息子・信長と何と道三の娘・濃姫(帰蝶)との縁談をまとめた。
その後、濃姫が信長に嫁いだ時期については、各種の説があります。
1548年 信長15歳(数え年)の説や、1549年3月23日 信長に嫁いだとの説・・・etc.
当時は縁談だけまとめて、嫁ぐのは未定という同盟協定が優先するのはよくあることでした。
この2階には、濃姫や明智光秀(地元 美濃土岐市)、この城を一時乗っ取った竹中半兵衛重治・・・などの肖像画も掲げられています。
3階 「信長公の間」
岐阜城3Fの信長の肖像:蛍光灯が映りこんで見難いが決断力・行動力がありそうですね。
但し、ワンマン、切れると容赦なし・・・
天下布武:1566年(永禄9年)9月 信長、斉藤龍興を破り美濃制圧に近づき、この頃から「天下布武」の印を使い始める。
天下布武:武力によって天下に号令する、
1565年5月、足利将軍が暗殺された。下克上の世の中とはいえ、天皇・将軍の権威が失墜する。
信長は思っていたのでしょう、武力の支えがなくてこの先世の中が安定するのか?
美濃を攻略できたら京に上る・・・武力によって・・・強い意志を印状で告知し始めた。
天下布武:有名な印章も徐々にデザインが変わります。
信長の黒印状です。信長の直筆でしょうか? 良く見ると、紙の上半分だけ使われています。
「折紙」(オリガミ)といわれ、上下半分に二つ折りにし、細長く半分になった片面に書き始めます。
長い文章は折ったまま裏返して同じように書いていきます。
開くと上半分は上向きに書かれ、同一面に下半分が下向きに書かれた状態になります。
(二つ折りにしたまま読み始め、反対にして読み続ける)
軽微な内容や、目下の者に略式で出される場合に使用されることが多く、信長は圧倒的に折紙が多いようです。
こちらは朱印状、折らずに書くのを「竪紙」(タテガミ)といい本来の古文書の使い方。(こちらも折紙のように見えますが)
印章が使われる前は、花押(カオウ)というサインの1種でしたが、幼少の大将が跡を継いだ場合サインが出来ず印象が用いられた。
朱印が使われ始めると、黒印・朱印の使い分けは?・・・朱印は豪華です、自然に公式で重要な文書は朱印状が多くなります。
この朱印状も信長の直筆でしょうか?
残念ながら、違うようです・・・抱えられていた書記役の家来が大半の文章の執筆をしています。
この椅子に座った信長の肖像、装束より室内の小物が気になりますね。
ペルシャの絨毯?、左のテーブル上の地球儀、右後ろの聖母マリア。
1569年、信長は異国の宣教師ルイス・フロイスと始めて会っている。
彼に質問する:年齢、人種、インド・ヨーロッパと日本の距離、月や星の運行、文化、風俗、デウスの教え、・・・多くの情報に触れることになります。
これより前、1549年、フランシスコ・ザビエル・・・イエズス会宣教師 鹿児島に上陸しています。
なぜ、地球の反対側まで生死の危険を冒し布教に来るのか、彼らは何者でしょう?
当時大航海時代、ヨーロッパ人が見知らぬ土地に到着し(そこは他国の領土であり、住民もいる)新たに発見した土地に対し、自国の土地として勝手に境界線を引いた。
この境界線は、教皇アレクサンドル6世の勅書で教会保護権によるとされていた。
教会保護権には果たすべき義務があった。
新たに発見した土地に対しては福音を伝えなければならない(ということは宣教師が住民に布教をし教会を建て、学校を建てること)を義務付けていた。
当時のヨーロッパは、ポルトガル王とスペイン王に支配されていて、二つの国王はイエズス会による新大陸への布教に期待をかけていた。
イエズス会は1534年パリで結成、6人で活動を開始した。
従来の修道服の規定や歌唱など古い様式を廃棄し、「貞潔・清貧・教皇への絶対的忠誠」を誓い、厳格な軍隊式統制によってプロテスタントへの攻撃と全世界へのカトリックの伝道に従事することで、1540年、ローマ教皇パウロ3世の認可を受けイエズス会として発足した。
スペイン語では「イエスの軍隊」を意味する。
イエズス会はアフリカ、中南米、東南アジア・・・、信長の時代にすでに世界各地で布教している、福音伝道のために各地で学校を設立すること、これも役目である。
・・・・・そしてフランシスコ・ザビエルの時代も今日も、イエズス会の会員は2~3万人といわれる。
カトリック教(イエズス会はカトリック教)が世界の情報を集め、その頂点が、イタリア・ヴァチカン市国、ローマ法王です。
四百数十年前から、日本の情報もヴァチカンに届いていました。そして今日も。
最上階 「望楼の間」 展望台
展望台から西の方角・・・足元を鵜飼で有名な長良川が右から左へ流れてゆく。
この岐阜城では、特定の期間、夜間ロープウェイを運行し眼下の夜景が見られます。(上段の写真)
はるかかなたに名古屋城があります。南南東に直線で約30㎞くらいでしょうか。
清洲城は、南に約25㎞、遠いですねー
眼下を左から(東から)右へ(西に)木曽川が流れ、木曽川の向こうが尾張(信長の時代、木曽川の先は上四郡、その向こう 海側に下四郡)と呼ばれた。
信長は桶狭間に勝利した後、稲葉山城を攻略するまでが難しかった。
7年の歳月を簡単に整理したい。
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