上社 本宮は、少し解りにくい順路となっています。
一部修復中で通行禁止だったりすることもありますが、本来は東の鳥居から境内に入る造りだったようです。
下図はグーグルのマップを使用していますが、方位は上が北です。
この地図で、右下に神宮寺下り仁王門跡とあります。
この前を走っている道路は、東からの一方通行です。
この道路をさらに右下(東)方向へ約100m進んだ所に、三之鳥居があります。(下の地図の枠外)
かつては、神宮寺方向から神社に向かうこの道路が東参道でした。
三之鳥居から進んできて、240mくらいで右カーブとなります。
そして坂道を下って200m弱、国道16号の手前に四之鳥居が立っています。
このカーブの地点に、このような案内板がありました。(現在地から左側が東参道)
江戸時代に航空写真はなく、これは諏訪市博物館展示の諏訪大社と神宮寺模型からと記載されています。
神宮寺と法華寺の勢力が大きかったようですが、神仏分離令で主に寺院が棄却取壊しとなっています。
では、元に戻って、・・・上記の案内図で右端の一之御柱から、順を追ってこの場所に進んで来ましょう。
この一之御柱は、境内の4本の内でもちろん一番立派です。
この右側に通路があり、通路の右先に社務所があります。御朱印帳はこちらで依頼します。
では右の通路から、正面の階段を登ると正面の門(塀重門)は閉っています。
順路は、右に折れて塀に沿って進むと、少し先の左側に入口門があります。
中に入って、右側の建物は授与所、正面に見えるのは宝物殿のようです。
ここで左に90度、東向きに向きを変えると、前方に参拝客が見えました。
左手に・・・小さい龍が
東に向かった正面に・・・これは簡素な造りの?・・・拝殿ではないようで、参拝所とあります。
両側が柵でその先には入れないようです、左に回り込んで
檜皮葺の苔むした屋根が見えます。
下社で拝見したような拝殿・裏が幣殿、左右に片拝殿が連なり、・・・尚且つ脇片拝殿もあります。
この石畳の部分は斎庭と呼ばれ、社務所で祈祷を願い出た人が神主と共に入り弊拝殿で願い事をします。
弊拝殿の奥は、・・・上社も本殿は無いようです。
裏山(南西側にあたる標高1650mの守屋山)が「神体山」とあります。
重要文化財の説明があります。
前方の建物以外に四脚門までが、昭和58年指定、遅れて布橋などが近年指定されています。
では、戻って塀に沿って東に進み「四脚門」から下に続く階段を降りると、・・・正面に神楽殿があります。
左横の案内板を見てみましょう。
元旦の朝に打たれる大太鼓も、1827年に奉納されたとあります。
東側に回っても確かに四方に壁や戸が無く、吹き抜けですから傷みも激しいでしょう。
しかし、この太鼓は新しい雰囲気です。よく見ると
諏訪家太鼓店が奉納されています。ということは、近年でしょうか。
・・・暗くて判り難いですが、右奥にもう一つ埃だらけの太鼓があるようです。
何故、・・・埃だらけの太鼓の案内が立てられたままで、新しい太鼓は?
・・・調べてみますと、2010/4/25、奉納されたようです。3時間かけて神楽殿に据え付けられたと。
欅の大木から輪切りで胴をくり抜く・・・そのような丸太の入手は困難だったのでしょう。
胴の製作は薄い欅の板を6枚張り合わせた合板を、樽を作る要領で組み上げて接着されたようです。
龍の姿が描かれていますが・・・。反対側は未確認です。
その東隣に屋根が無く、雨ざらしとなっている土俵がありました。
年一回の奉納相撲の前に、造り直されるから管理はこれでいいのでしょう。
この場所へは、大鳥居から入り、右側の雷電為右衛門像の横を通れれば、神楽殿に進むことができ、その先に土俵があります。
そのまましばらく進むと・・・左に神馬舎、その先右側に、二之御柱があります。
・・・昔の参拝(神宮寺方向からの東参道)の(案内板のある)場所に出ました。
山側に、臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 法華禅寺が奥に見えます。
そして右側の小さな神社が、・・・旧字が読めない。
「社神玉蠶」旧字の蠶・(蚕)です。杉の丸太でしょうか、この鳥居が神社と妙に良い感じです。
この神社も御柱が立っていて、柱の太さが不揃いな点も、気にすることは無いと言っているようでした。
・・・では、ここから右(北西側)を見てみましょう。
諏訪大社 上社本宮、ここに表示されていました。
山からの小川に架かる橋もあります。
青銅の立派な大鳥居が参道に立っています。
そして、入口御門の右側に、御柱が見えます。
こちらが、二之御柱です。(三之御柱は、山側になります)
入口御門は、布橋と呼ばれる渡り廊下のような建造物が、ここから神楽殿の横まで続いています。
斜面に沿って建っているので、右側は石垣などで土盛りされ、神楽殿に降りるには階段が設けてあります。
そして右側に、こちらも重要文化財、四脚門
この門の先は斎庭で、奥に硯石があるそうです。
左に見えるのは、弊拝殿です。
天正10年(1582年)焼失とあります。この時期といえば、信長の甲州征伐の際起った事でしょう。
「信長公記」では若い織田信忠が大将で3月2日、籠城している武田軍の高遠城に総攻撃、
・・・陥落させると、翌日本陣を諏訪に進めています。
その際、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払ったようです。
・・・同年、天下統一寸前で、6月2日本能寺の変が起こりますが(新暦7月1日)。
その後、慶長13年(1608年)徳川家康が建立させたとあります。
この時期、彦根城の天守閣も完成、豊臣大名に負担を掛けさせ、名古屋城も1609年築城開始、1615年完成させています。
さて、諏訪大社の最後は、前宮、こちらも・・・神社の起源を考えることになります。
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