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ベルニーニ、広場は未完成のまま今日に

2021-02-27 | 旅行記

ローマは見飽きることがない、2、3度訪れたくらいで、多くの教会までは開館時間の制約もありなかなか拝見できそうにない。

はるか昔、ギリシャ文明では既に彫刻・建築の完成度が高く、ローマ帝国時代では壁画に遠近法も取り入れられていた。

これらの遺産がローマの地中から出土する・・・この異教の芸術作品を競って枢機卿や教皇が購入し、17世紀は芸術活動に投資が続いた。

16~17世紀の教皇や枢機卿は最初に何をしたかったのでしょう?

・・・自分や一族の墓所を由緒ある教会に持つこと、そして一流の芸術家に礼拝堂を豪華に飾って欲しかったのです。

彼らに富が集中し、その富は礼拝堂と芸術コレクションの収集に流れ、世は階級社会のまま繁栄したようです。

1605年、ベルニーニの一家がローマの(現テルミ二駅近く)サンタ・マリア・マッジョーレ教会横にナポリから引っ越してきました。

(googleの画像を拝借)サンタ・マリア・マッジョーレ教会の後陣が見えます。

この通りが、リベリアーナ通りで、右側の手前の角の一帯でしょう、ここに住まいを定めていたようです。

住所は24番地とあります。(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

教会の両側に、大きな丸屋根クーポラが見えます。

左に少し見えるのが、シクストゥス5世(この教会から放射状に道路を拡張するなど公共事業に邁進された教皇)のシスティナ礼拝堂、1585年完成。

右がボルゲーゼ家出身のパウルス5世が建てたパオリーナ礼拝堂、1606年完成

このパオリーナ礼拝堂の装飾が、ベルニーニの父ピエトロの仕事でした。

・・・ローマ帝国によってキリスト教が公認されたのが313年、その後、皇帝により次々に教会が建てられますが、この教会は特別でした。

(googleの画像を拝借)サンタ・マリア・マッジョーレ教会、こちらが正面(ファサード)です。

この教会には逸話があり、356年夏、当時の教皇が「数日のうちに雪が降る地に聖堂を建てよ」という聖マリアのお告げを夢の中で聞いた。

そして8月に雪が降ったという地に建つ教会で、建造は5世紀、イエスの母を聖母として祀る最初の教会だったでしょう。

その後修復と増築が繰り返され、豪華なファサードは18世紀に改築されています。

歴史のあるローマの四大聖堂の一つです。

パウルス5世は、枢機卿時代からこの由緒ある教会に礼拝堂を持ちたかったので、元教皇と後陣の左右に建てられて大願成就です。

1623年、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「アポロとダフネ」の大理石像がローマ中に賞賛の嵐を巻き起こす中で新教皇が誕生します。

バルベリーニ家の枢機卿が55歳の若さで選ばれ、ウルバヌス8世誕生となりました。

ウルバヌス8世の肖像、左は教皇晩年の作、右は何か話しかけてきそうです。 (ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

これだけ味のある肖像を彫り上げるので、歴代教皇から当然のごとく肖像の依頼があります。

あまりに肖像は人気がありすぎて、フランス国王もイギリス国王も何とか頼めないかと・・・肖像画を送り、あの手この手で・・・、

さて、新教皇は、即位後すぐにベルニーニを呼んで、・・・以下の話も有名です。

「騎士ベルニーニよ、枢機卿マッフェオ・バルベリーニが教皇に選ばれたのは、お前にとって大きな幸運だ。

だがそれよりも大きな幸運は、騎士ベルニーニが我々の治世に生きているということだ」と言ったと伝えられる。

ダヴィデ像の製作中に・・・手鏡を持ってやることしかできなかった枢機卿が、シピオーネに遠慮せずベルニーニと仕事ができる。

・・・心底嬉しかったのでしょう。

教皇はベルニーニに、建築と絵画を学ぶように命じた。

ベルニーニは、古代建築の研究や絵画制作を2年間行っていたようですが自画像など残っているのは少ないようです。

シピオーネ枢機卿のデッサン(右)と即興の風刺画?カリカチュアと呼ばれた。

彼は8歳で教皇が驚いたデッサン力がありました、さらに左のように尊敬したカラッチの描き始めたカリカチュアで当事者を喜ばせています。

ベルニーニは2年半と短命だった前教皇(グレゴリウス15世)の時代、サン・ピエトロ大聖堂主祭壇の装飾で4体の天使像を作っています。

しかし、これらは仮設の祭壇の装飾であり、何度か作られ、式典が終われば取り壊されていました。

・・・聖ペテロの墓の上に主祭壇を置き、それをブロンズ(高さ28.5m)で囲い、天蓋を乗せる案が正式決定され、実現させる事になります。

バルダッキーノと呼ばれるこの巨大構造物は、大聖堂の主任建築家のマデルノにではなく、若干26歳のベルニーニの才能に任せられます。

以降、歴代の教皇や枢機卿らの依頼でローマの各所に建築、彫像、噴水を造り、オペラや豪華な催事まで万能な彼は、ローマを造った人と言われます。

サン・ピエトロ大聖堂内部は、ベルニーニが大半の装飾を請け負い、多岐に渡るので、別途大聖堂関連として再度整理したい。

・・・1655年、新教皇アレクサンデル7世が誕生すると、早速自家のポポロ教会のキジ礼拝堂を完成させてと依頼としていますが(前回分)

この時期には、サン・ピエトロ大聖堂は内部もほぼ完成していました。

残る問題は、教皇が聖堂や宮殿から、集まってくれるできるだけ多くの信者を前に、祝福できる場所が必要だった。

教皇は1656年、聖堂前の変形の広場を拡張し、少し斜めの宮殿などを壊さず、大聖堂のファサードを引き立てる広場の案を求めた。

当然のように事務方は、・・・ベルニーニにプランの提出を命じた。

下図のように、横長の変形の広場で聖堂ファサードは東向き、北側に少し斜めに宮殿などの重要な建物が並ぶ。(身廊部は未完成時の様子です)

下図は、もう少し後の様子です。

・・・聖堂の身廊部が長くなり、ファサードと鐘楼が建造中、広場にはオベリスクとマデルノの噴水が1基みえます。

1646年頃でしょう、鐘楼が取り壊されていませんので、当時の版画(ベルニーニ バロック美術の巨星 石鍋真澄より)

この鐘楼は、途中で放置された物をベルニーニが引き継ぎ完成させますが、基礎工事が不十分でひび割れ発生した事件がありました。

ライバル建築家などから非難を浴び、ライバルも含む多くの改善案は教皇が採用せず、結局取り壊されて鐘楼を持たない教会となります。

思ったより雑然としている感じ、クーポラも建物も先に完成していたフィレンツェの花の大聖堂の方が綺麗と言われそう。

ベルニーニの最初の案は、台形の広場だったようですが、・・・すぐに下図の案で構想を説明し、対になるように噴水を追加します。

ファサードからセリ出る台形の部分と柱廊が両手を広げて信者や異教徒まで母のように受容する広場を一段低くしています。

少し低くなった広場に入ってくると・・・聖堂を少し見上げる感じでしょうか、宮殿からの祝福も広場から見えるようになります。

美を追求するベルニーニは、美とは目に最も快く、それ自体完全で、(独立した円柱の・・・柱廊の上部は上から見ると)円形を指す。

まずは広場の正面端から右を見てみましょう

中央にオベリスクが建ち、聖堂のクーポラも見えます。

次に左

少し内側に進むと・・・こんな感じ

4列の柱頭が並び、ギリシャ神殿のように、・・・伏見神社の千本鳥居の雰囲気も

広場中央のオベリスクから右の噴水に向かって進むと、地面にマークがあります。その地点からの眺めが

円弧上に4列の柱頭があるのですが、同心円ですべて重なり、中央に噴水左右に綺麗な美が作られています。

バチカン美術館の模型で見てみましょう。

実に綺麗な卵型です。

クーポラからの実際の眺めが

素晴らしいサン・ピエトロ広場ですが、ベルニーニは完成に向かって、最後の資材の調達が必要でした。

まだ未完だったのです。

近年までこの状態でした。

広場は現在と変わらないですが、・・・。

彼の完成予想図を・・・どこかに・・・あるので、早急に追記します。


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