気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

サン・ピエトロ広場の完成図

2021-02-28 | 旅行記

オッ!・・・何だこれ

上図はファルダの版画より (ベルニーニの完成図を描いたものと思われます)

現在は遠目からクーポラが見え、やがて正面に聖堂が見えてきて、ヴァチカン市国に入る手前で広場と左右の柱廊が目に入る状況です。

ベルニーニが意図したこととは、現状の開放的な広場とは全く違うようです。

閉ざされていて、つまり広場があるか否か、内部がどのようになっているか・・・緊張して入り、驚くのは・・・中に入ってからのお楽しみ。

そうです、はるばる遠路、何か月も仕事を休んで、生死をかけて巡礼者がローマのカトリック教総本家にやって来るのです。

まだ免罪符を求めて来られる方も多かったでしょう。

旅の感動がお土産です、おもてなしは、より大きな感動を味わって戴きたい。

ベルニーニはオペラの自主上演も大好きで、自分と工房の素人役者が登場し・・・市民に人気がありました。

舞台装置のアイディアも催事の演出も・・・人々を感動させるのに重要です、・・・広場は劇場に、教皇登場の演出も考えていたのでしょう。

・・・アレクサンデル7世教皇は、この広場の完成前にフランスからベルニーニが招待されました・・・今度は断り切れなかった。

フランスからルーブル宮の設計コンペでイタリア人の4名にも声がかかり、ベルニーニも提案していました。

フランス建築責任者も国王ルイ14世も、66歳の偉大な芸術家ベルニーニに詳細設計をして頂くために、教皇の許可を取り大使級の待遇で招きました。

1665年4月25日、ローマを発ち、・・・6月3日パリに到着、この後フランス側の通訳による滞在日記がベルニーニの人物伝を記録しています。

ルーブル宮の建設予算200万フランと聞いて、教皇の大使はサン・ピエトロ広場の柱廊に500万、でもこれは単なる装飾ですと言ったとされる。

宮殿の詳細になると豪華さよりも住居としての実用・機能性を担当者から求められ、フランス人建築家の反発もあり・・・進捗せず。

ルイ14世はそれよりも、かねてからの肖像をお願いすること、こちらが重要でした。

ベルニーニは肖像に40日かけて、10月5日、・・・王の肖像が完成しました。

後の太陽王ルイ14世は、この時26歳、ルーブル宮建設の熱意は冷め・・・後に郊外に、豪華なベルサイユ宮殿を建てます。

この太陽王の胸像は、現在はベルサイユ宮殿に置かれ、このように目立ちます。

10月17日、ルイ14世も立ち合いの上、ルーブル宮の起工式、・・・式典がすんだのでベルニーニは、10月20日パリを離れ12月3日ローマに到着。

さて、サン・ピエトロ広場の進捗は、東西の柱廊の外観が出来上がりつつあったが、まだ未完成の段階でした。

・・・1667年5月22日、教皇アレクサンデル7世が世を去りました。

ローマ市民の暮らし向きも厳しく、豪華な聖堂は必要ない、パンをくれ~・・・、多くの芸術家は仕事がほとんど無かった。

次の教皇クレメンス9世から広場の工事の継続と、このヴァチカンに入るテベレ川に架かるサン・タンジェロ橋の整備・装飾を依頼されます。

当時はテベレ川を渡る橋はここだけで、橋の装飾は130年ほど前に聖パウロと聖ペトロが飾られただけだった。

教皇は、巡礼者の導入部として、この橋を「受難の道」としよう

聖天使の橋(サン・タンジェロ橋)だから、その天使にキリストの受難の持ち物を10種持たせよう。

サン・タンジェロ城の屋根の上、天使ミカエル像です。

橋が架かるこの場所に、135年にローマ帝国のハドリアヌス帝が壮大な建物を築きあげた、それは皇帝の霊廟だった。

各地によくある話ですが、6世紀ローマにペストが流行して、・・・終結にあたって、天使ミカエルが現れたとされる。

・・・そこで天使ミカエルの像が建物の屋根に取付けられて・・・聖天使城と呼ばれた。

新教皇クレメンス9世と教皇側から発注されたのは、橋の修復と天使像を10体、製作の統括は68歳のベルニーニです。

そこで、8体はローマで活躍中の8人の彫刻家に委託し、残る2体をベルニーニが自分で担当しています。

教皇は作品が気になり歴代の教皇と同様、枢機卿を伴いベルニーニの工房を訪れ、「こんな傑作を風雨にさらすのは忍び難い」となりました。

現在この2体(INRIの銘を持つ天使、いばらの王冠を持つ天使)はサン・タンドレア・デレ・フラッテ教会の身廊奥、台座上に置かれています。

橋の途中です、手前から2列目から奥の5列目まで見えます、この左側2列目が「いばらの王冠を持つ天使」です。

ここには弟子による複製が当初より据えられています。

左の4列目(奥から2列目)が「INRIの銘を持つ天使」で、この複製にはベルニーニ本人の手が入っているので完成度が高いと言われます。

こちらが、教会の「INRIの銘を持つ天使」ベルニーニ晩年、69歳ころの作品です。

夜の聖天使城・・・映画「天使と悪魔」では、枢機卿を誘拐しこの城の一角に閉じ込め、事件を次々に起こしていたのでした。

教皇は15世紀にバチカン宮殿からの避難路として、この霊廟を要塞化して回廊で結んでいます。(一部は城壁の上部を利用します)

1527年、ローマが神聖ローマ帝国の軍隊に包囲され、バチカンに危機が迫り・・・教皇は宮殿からこの回廊で要塞に逃げ込みました。

映画「天使と悪魔」でも夜間に、この聖天使城から城壁の回廊を走るシーンが印象的でした。

橋を渡り、サン・タンジェロ城の横をテヴェレ川に沿って進むと・・・大聖堂が見えてきました。

そして、大通りの先が、・・・

1935~1936年のムッソリーニ時代に・・・主に北ヨーロッパからの巡礼たちが住んでいたボルゴ街区をつぶし・・・一直線の大通りに。

17世紀の光景は、・・・巡礼者はテベレ川を渡り・・・サン・タンジェロ城から小さい建屋が並ぶボルゴ街区に入ります。

建物の間から、・・・遠くに見えるクーポラの頭を目指して歩み始めます。

そして、突然目の前が開けると、 神殿風の柱廊が立ち並び、唖然として柱頭の上を見上げる、無数の大理石像が迎えてくれます。

非日常の空間に戸惑い、立ちすくんでいると周りから促され、内部に入る・・・オベリスクに噴水、周囲は神殿の壁・・・強く瞼に焼き付くでしょう。

教皇は降誕祭と復活祭の大きなイベントの際、この劇場だと数万人の信者が祝福を受けられそう、・・・このプランで大喜びですよね。

柱廊は、高さ13mの円柱が240本・角柱が44本(素材を切り出し加工です)、柱廊の幅が17m、卵型の長軸が240m、内側の広場は最大幅196m。

柱廊は南北が完成するまでに何と・・・11年、他に聖人像は・・・140体もあります、ベルニーニの噴水も新設して対になるように。

・・・教皇クレメンス9世は、短い治世で、・・・2年半後、1669年12月9日亡くなります。

教皇庁の財政も厳しい時代、新教皇は4か月も決まらず、やっと長老の81歳、ローマの枢機卿が選ばれました。

次の新教皇クレメンス10世の時代は・・・ゆとりは無く、芸術の火は消えました。

しかし、新教皇の親族アルベルトーニ枢機卿が、当然のごとく、・・・まずは自家の礼拝堂の装飾をベルニーニに依頼しています。

1671年1月に自家が生んだルドヴィーカ・アルベルトーニ(1533年没)が未亡人となった後、貧者に対する献身で新教皇から福者と認められました。

アルベルトーニ枢機卿の礼拝堂は、トラステヴェレ地区にあるサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会で、目立たない所にあります。

今回は、この教会で作品が見たかったので、時間を確認して訪問します。

現在地は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会、ここからテヴェレ川を下流に・・・小雨の中遊歩道を小走りにジョキングです。

向こうに見える橋を渡り、対岸に行きます。

モダンな連結したトラムが走っていました。

橋から教会は、この先路地2本くらい先を右折して少し先の右側、400mくらいでしょうか。

さて、目的の教会外観の静止画が見つからない、・・・多分、この付近はSonyのビデオ動画だったが・・・どこかに?

この先、

Googleから借用します。小さな、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会です

内部は、誰も 見学者も参列者も見当たらなかった。

平日の昼前です、主祭壇の左側が明るい・・・そこが目指す礼拝堂です。

ロープが張られ、祭壇までは結構距離があった。

礼拝堂は15世紀の建築のようで、クーポラに祭壇画、そして両サイドにも絵画がある立派なたものです。

写真で見た通りの、ベッドに横たわる福者が・・・、その部分だけ輝いて見えます。

1671年~1674年頃、ベルニーニ 70代中頃の作品です。

ベルニーニは、暗い奥まった祭壇の両脇に、窓を開けて光を取り入れています。

ベッドの下はコーラルレッドのような素敵な色大理石です、ヴァチカンの礼拝堂でも見かけました、

この上の白い大理石が・・・採光を受け、輝いて見えるのです、福者ルドヴィーカが主役です

ルドヴィーカは1473年生まれ、20歳で結婚、3人の子に恵まれるが33歳で夫が亡くなり・・・3人の子を育て上げ

宗教活動に入り、貧者に対する献身で福者とされ、1533年、60歳で亡くなった実在の方のようです。

ベルニーニ、72歳~75歳の作品、本人も死と向き合いながら、福者を・・・安らかに旅立つ姿か、神との法悦と表現するか

いずれにしても、ミケランジェロを超えた・・・感性の鋭さ、表現力に驚かされます。

・・・後ろで、オルガンの演奏が始まりました。信者の方も見えています。静かに退室します。

教会を出て、テヴェレ川の1本上流の橋を渡り・・・「真実の口」で有名な先ほどの教会に戻ります。

この教会の前に噴水があります。トリトン(トリトーネ)の噴水です。

1642~3年頃、ウルバヌス8世の実家の前に当たるこの場所に、教皇がベルニーニに造らせていました。

ローマの復興時期、道路の整備と共にローマ帝国時代の水道を整備したので、ベルニーニはローマ市内に噴水の名所を数多く

創り出しました。

正面の鐘楼(12世紀前半建立)のある教会の道路に面した回廊の左端に、「真実の口」があります。

それでは、ベルニーニの晩年のその後は・・・、

1676年7月22日、予想外の6年に渡り治世された教皇が亡くなり、・・・次の教皇は9月11日、イノケンティウス11世が即位する。

イノケンティウス11世が新教皇に就任すると、サン・ピエトロ広場は舗装工事が終了していたので、このままで十分と最後の東側の施工は中止となってしまいます。

「天使と悪魔」では、風のシンボルを探していました。

このオベリスクの周囲を探してみましょう。周囲にこのような装飾があります。

この風は、

これも違いました?

西風でした。

さて続きのローマ観光は、ベルニーニの作品を追って「天使と悪魔」の次の場所へと行ってみましょう。

テルミ二駅から徒歩でも行ける所になります。

サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会に行きましょう。

画像は2011年の訪問時ですが、外壁は修理中でした。

ベルニーニが一時期、新教皇からの仕事が激減した期間に、元ヴェネツィアの大司教から依頼を受けた礼拝堂の作品です。

土、風、火でした。・・・1652年、ベルニーニ53歳ころの作品となります。


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