“エミシ”とは、勇敢な人や荒ぶる人の意味だそうです。エミシは、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の樺太・北海道)などに住んでいた人々の呼称といわれる。
大和政権の支配地域が広がるにつれて、この言葉が示す人々と地理的範囲は変化した。近代以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指している学者も多い。
一方、九州にいた隼人とは、古代日本において、現在の鹿児島県あたりに居住していた人々で、隼人は大和政権側からの呼称である。大和民族と風俗習慣を異にして大和政権に反抗し、古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じとする説や、熊襲の後裔を隼人だとする説などいろいろあり、大和政権に従属しないいくつかの部族に対する総称と解する説もある。
エミシにはアイヌ説と非アイヌ説があるが、千葉県に住んでいる知人に聞くと、エミシはもっと広く大和民族以外の人々ではないかとも言っていた。いずれにせよ大和民族とそれ以外の二つに分けて考えた方が分かりやすいかもしれない。
古代のエミシ社会という表現は古文書にたびたび書かれているが、初めてエミシという言葉が登場するのは、万葉仮名で書かれた日本書紀の中の歌にある。知人は古文書を読むのが趣味で、いろいろな博物館に行ってエミシに関する古文書を読むそうである。
そして、古文書を読んで分かったことは、大和朝廷側の人たちは、“エミシをやっつけた”と書き、エミシ側に立っていた人たちは、“大和朝廷にやられた”と書いている場合が多いそうである。つまり、その地域を統治している権力者側の立場で、歴史書は書かれているのである。
これで分かることは、歴史書とは、 “正史”が積みあげられて書かれたものであるが、その国や地域に支配的な影響力を持っていた権利者などによって作られたものである。そのため正史は勝利者側の歴史書で、正確性が保証されたものではないということである。
このエミシという言葉と関連して、江戸時代にいた“サンカ”という言葉がある。サンカは定住することなく狩猟採集によって生活し、明治時代に全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人いたと推定されている。
「サンカ」という言葉が現れたのが江戸時代末期の文書で、北海道の名付け親でもある探検家 松浦武四郎の著書の中に、「サンカに命を救われた」との記述があるが、彼ら自身がサンカと名乗ったわけではない。また、アイヌという言葉が「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族とアイヌとの交易が増えた17世紀末から18世紀初めにかけての時期と言われている。
アイヌは原日本人であるので、アイヌの歴史をさかのぼることによって日本の歴史の一端が分かってくる。
このアイヌが長い間、“差別”に苦しんできた。なぜ、アイヌが差別されてきたかを調べると、自分たち日本人が、日本の歴史をあまりに知らない人が多いことが原因で、自分もアイヌの血が流れていることを知った。今でも中東などに民族紛争が続いているが、中東アジアの歴史を学ぶことによって、その理由が少しだけ分かってきた。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 正史
正史は、ある時代においてその国や地域に支配的な影響力を持っていた王朝や政府によって公的に作られた歴史書である。
その名から「正しい歴史」の略語と勘違いされることもあるが、あくまでその時代の支配的な勢力によって作られた歴史書であり、正確性が保証されたものではない。例えば日本最古の正史は日本書紀であるが、後年の研究、とりわけ20世紀以降の天文物理学的な見地や放射性炭素年代測定を用いた科学的な測定により、相当量の虚構が含まれていることが明らかになっており、日本書紀は正史であり偽史の側面も持つ。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)