先日、東京に住んでいる知人に電話したら、“本当にいやな時代”と言っていたことが、印象に残った。ヘイトスピーチには、元オリンピック組織委員会の森喜朗会長や 東京五輪・パラリンピックの開閉会式の演出を統括するクリエーティブディレクター佐々木宏の言葉がある。知人の言いたいことは、次のようなものであったと思われる。
「言っていいことと言ってはいけない言葉があるが、上の二人はヘイトスピーチを理由に辞任したが、SNSではこれでもか、これでもかとイジメのような投稿が繰り返される」と。私には昔、和人がアイヌをいじめたと同じように思えた。
また、3月17付けのブログ(幸せのヒント)で自分の庭のことを書き、この文章の中で、ギョウジャニンニクのことを別名“アイヌネギ ”と書き、ある女性からヘイトスピーチだと叱られた。ウキペディアで検索すると、北海道では別名アイヌネギと言われることがあると書かれていたので、差別表現なのでウキペディアから削除する必要があるかもしれない。
なお、アイヌの天才少女である知里幸恵が書いた“アイヌ神謡集”の序文を参考として載せよう。
『その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて
のんびりと楽しく生活していた彼らは、真に時代の寵児、何という幸福な人たちであったでしょう。 (中略)
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、世は限りなく発展していく。
激しい競争場裡に敗残の醜さをさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強い者が出てきたら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがて来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明け暮れ祈っていることで御座います。
けれど、愛する私たちの先祖が起き伏す日頃、互いに意を通ずるために用いた多くの言葉、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消え失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい、名残惜しいことで御座います。
アイヌに生まれ、アイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇あるごとにむち打って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中、極く小さな話の一つ二つを拙い筆に書き連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事ができますならば、私は、私の同族祖先と共に本当に無限の喜び、無上の幸福に存じます。』
「差別」とは、人に「差」をつけ、自分とは「別」の存在(グループ)として一種の排除をすることだと思う。人間には能力や外見など合理的あるいは非合理的な様々な違い(差)があることは否定できない。大切なことは、その事実を認めたうえで、その「差」によって人を排除しないことである。差別には様々あるが、学校などのイジメも差別のひとつだと思っている。
私が心配しているのは、イジメられないために多くの人がイジメる人の味方について、少数派の人をイジメることにつながらないかということである。
「十勝の活性化を考える会」会長