十勝の活性化を考える会

     
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短歌と俳句

2021-03-14 05:00:00 | 投稿

小田島本有著 「釧路から」 ~国語教師からのメッセージ~を読むと、人は “コミュニケーション”を行なうが言葉は最小限で良いと、著者はいうのである。参考までに、本の一節を紹介する。

『(前略) 日本語が明確な表現を避け、しかも多くの言葉を省略するのは、それでもコミュニケーションが成立し得る文化的背景がわが国にはあったからである。複数の民族、複数の言葉が存在することが当たり前の西洋とはここが決定的に異なっている。

最初から分かり合えないことを前提にしてコミュニケーションを図る西洋と、分かり合えることを前提としてコミュニケーションが成り立ってしまうわが国とは、言ってみれば文化的土壌が異なる。確かに異文化コミュニケションにおいてはその違いを十分に認識し、理解し合うための努力を払うことは当然のことであろう。

しかし、このようなことがすなわち日本語の劣等性を示すことにはならない。日本語はしばしば主語を省略する。それでも日本人が互いにその主語が理解できてしまうというのは、我々が与えられた言葉から文脈を類推する能力に長けていることを示している。言葉の省略についても同様だ。その典型例が“短歌や俳句である。

 

我々の祖先は三十一音や十七音の文字の中に言葉を凝縮する形式を作り出した。俳句において季語が考えられたのも、簡潔な表現の中に季節感を込めようとする発想があったからである。四季の変化があるという日本的風土は、日本人のその移り変わりを敏感に嗅ぎ取らせる感性を育ませた。それだけ日本人にとって季節感というのは生活に密着していたのである。微妙な違いを読み取る感性はこのような中から生まれた。

最近は、外国人の中でも短歌や俳句に興味を示す人が増えていると聞く。言葉を費やすことに汲々としている人々にとって、限られた音数の中で最大限の表現をしようとする発想は、却って魅力的に映るのではないか。

(中略)

短歌や俳句に象徴されるように、わが国では簡潔な表現が好まれてきた。しかし、それは逆に豊かな世界を読者に開示する必要条件でもあった。我々は、このような表現方法をもっていることをむしろ誇りとすべきだろう。

「行間を読む」と言う表現がある。 これは日本人が得意としていたものだった。言葉には表れない真意を読み取ることの重要性を日本人は十分意識していたのである。話さなければ伝わらないという考え方から、ともかく言葉を費やし、論理的に語ることを理想としていた西洋人にはそれなりに必然性があった。

 

しかし、この言語中心主義的な発想は危険もはらんでいる。言葉ばかりが一人歩きし、実感から隔たったなりゆきでも無理を通したり、あるいはその中では否と言えない状況が生まれやすいのである。例えばアメリカは、訴訟の多い国として有名だが、我々日本人の感覚からすると信じられないような事柄までが訴訟の対象となり、原告は自らの権利を主張する。ときにはなりふりかまわず、被告の責任を認めさせようとする強引さも見られないではない。これは、「自由」の国アメリカを端的に示していると言えよう。

一方、日本では古くから言葉の奥、あるいは言葉に表れないものを読み取る習慣があった。言葉の奥を読み取るには送り手の胸の内、さらには置かれた状況を的確に把握することを求められたのである。相手と自分との関係も、当然会話の中に反映されており、森有正はこのような日本語のあり方を「現実嵌入型」と称している。相手の表情や仕草からその心中を推測するのも、日本人には特有のものであった。

「行間を読む」― これは、我々に与えられた資質として誇りとすべきであろう。』

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 小田嶋本有

自己紹介

 

釧路短期大学 非常勤講師

 

釧路公立大学

 

勤務先: 釧路工業高等専門学校

 

出身校: 北海道大学大学院 国文学専攻

北海道札幌西高等学校に在学していました

 

(情報元:facebookより抜粋)

 

 

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