NHKスペシャ「街道をゆく第1回」をビデオでみた。このビデオは、作家 司馬遼太郎氏が、「日本人とは何者か」「日本とはどういう国か」を問うために、25年にわたって週間朝日に連載した長編小説を解説したビデオである。なお、彼が歩いた街道は外国を含めて72カ所にものぼっている。
彼は1923年に大阪で生まれで、1996年に動脈りゅうのため72歳で急逝している。学徒出陣で戦車隊に配属され満州に行っているので、一度は死を覚悟したと思う。それが、彼の長編小説43巻“街道をゆく”の底辺に流れているものである。このビデオでは、1994年(平成6)に青森市で見つかった縄文文化の定説を覆すことになった“三内丸山遺跡”のことも放映していた。
三内丸山遺跡は、約4500年前の縄文時代の大規模集落跡。その結果、この遺跡が大規模な集落跡であることが分かった。1994年には、直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり大型建物の跡とも考えられている。
三内丸山遺跡は、日本百名山の八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートル。遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられている。
この遺跡の居住者数は、このことを通して数百人と考えることができ、それらは縄文時代の文化が、従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。ただ遺跡は、他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
この遺跡発掘の2年後、私は青森市に住むことになったので、たびたび見にいった。当時、これほど重要なものとは思わなかったが、三内丸山遺跡は当時の縄文人の生活のことが分かるので、大変貴重のものである。現在は、近くに東北新幹線が走っており、遺跡の全容が車窓から見えるらしい。
「街道をゆく」第41巻は、“北のまほろば”という題名で書かれている。まほろばとは、素晴らしい場所とか住みやすい場所という意味である。司馬遼太郎にとって、青森県は“北のまほろば”であったらしいが、4,500年前にも縄文人はそのように思って住んでいたのだろうか・・・。多くの人が住んでいたと見られる三内丸山遺跡は、その証拠である。
ところで日本列島は、昔から朝鮮半島と深い関係があった。西暦663年、白村江の戦いは、朝鮮半島の白村江で行われた日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との争いで、日本連合軍は負けている。
日本には“百済”姓の方がいるが、その人は朝鮮半島の百済から来た人で、強引に連れてこられたかもわからない。また佐賀県には、有田焼や伊万里焼があるが、朝鮮半島にいた陶工が連れられてきて作り始めたものである。言い換えれば、北朝鮮に拉致された“横田めぐみさん”と同じように拉致されてきたものであろう。
ところで、豊臣秀吉は朝鮮半島に出兵している。出兵は、文禄・慶長の役といい、1592年に始まり、1598年の豊臣秀吉の死による日本軍の撤退で終わった。朝鮮の国による全兵船の3分の1以上を動員したと言われている、対馬を侵略した“応永の外寇”以来の戦争であった。この戦争は、16世紀における世界最大の戦争であったらしい。
「十勝の活性化を考える会」会員