白馬節会図鐔 宗ソウミン(ミンの文字が再現できていなければご容赦のほど)
白馬節会図鐔 銘 宗(花押)
横谷派の金工も馬を描いた作品を多く遺している。宗に、静かに佇む放馬を描いた小柄が何点かある。宗は華やかな高彫色絵表現の他、この鐔のような活力のある片切彫手法の作品を多々遺している。今年の『銀座情報』の正月号の表紙を飾った作である。以下に解説全文を掲載するので参考にされたい。
正月七日の夜、宮中の紫宸殿において天皇が白い馬をご覧になる白馬節会がある。嵯峨天皇の頃から記録にみられるようになった正月の儀式の一つで、鬼やらいや小松曳き、七草粥などと同様に、白馬を見ることによって邪気を祓い、白馬が備えている陽の気を体内に採り入れ長命を得るというもの。左右馬寮によって南の庭に曳き出された白馬を群臣と共に愛で、宴を催したという。また、詳らかではないが白馬を紫宸殿の周りを巡らせることによって邪気を祓ったものとも伝えられている。馬は陽の動物であり、殊に万物の萌え出る春の色でもある青色の毛を備えた白馬は縁起が良いとされていたのである。
『源氏物語』少女の段にも白馬節会が記されている。光源氏の理想でもあった四季折々の草花が咲き乱れる六条院の御殿の改修が物語の背景としてあり、その説明に伴って貴族の年中行事を紹介している。物語では、藤原良房が古例に倣った白馬節会を催したことに対し、新趣に富む白馬節会を催した光源氏の才気の在りようを示している。作者紫式部の時代には、香合わせ、絵合わせ、花合わせなど様々な比べ遊びがあったが、白馬節会ですら互いに競い合うような流行となっていたのであろうか。
和歌にも白馬節会が記されている。鎌倉時代初期の藤原定家の「いつしかと春のけしきにひきかへて雲井の庭にいづる白馬」は有名。南北朝時代の『年中行事歌合』には「松の葉の色にかはらぬ青馬を 引ば是もや子日なるらん」がある。時代が遡って万葉集には大伴家持の「水鳥の鴨の羽の色の青馬を 今日見るひとはかぎりなしといふ」が遺されている。いずれも清らな空気感が漂う歌であり、白馬の様子を松のあおあおとした葉や水鳥の羽の色に擬えた意識も伝わりくる。
八駿馬の伝説にもあるように、為政者にとっての馬は、武力、戦闘能力に直接関わり、統治力に重ねられる大きな存在。平安時代後期には河内源氏の武将が馬寮に任官されたことから、この官職は武士の憧れの的となっていた。鎌倉時代初期の源実朝などが歴任し、また、室町時代初期以降は次期将軍職とみなされる者が馬寮に就いていることも興味深い事実である。
もちろん武家の権力の拡大に、名馬の産地の掌握は少なからず影響していよう。源平合戦では、名馬を間にしてその取り合いをした伝承もある。
古い行事が失われてゆく中で、現在でも白馬節会が行われているのは京都の賀茂別雷神社、大阪の住吉大社など。茨城県の鹿島神宮では古様式のままの夜間の行事であり、殊に伝統を大切にしているようだ。しかも、維新前の鹿島神宮では、元旦から白馬節会が行われるまでの間は楽曲が控えられていたともいう。
獅子舞や萬歳と同様、正月の門付け芸の一つとして街中にみられた春駒も、実はこの白馬節会が市井に広まったもの。馬の首形を手にして馬に跨っているような仕草をし、家々を巡って言祝を述べる様子は初春らしく華やかであり、後には馬の首形も飾りとして、また子供の遊びや玩具としても定着している。
写真は、このように宮中のみならず武家においても、また下っては庶民にも広まった我が国の伝統文化である白馬節会に取材し、その主役でもある若駒の快活な姿を彫り描いた横谷宗の鐔。
豪奢とも評される獅子牡丹図や、清楚に佇む放馬図小柄で知られる宗は、寛文十年の生まれ。十八歳にして父横谷二代目の宗知が没したため、祖父の後見を得て家督を相続、宗と改銘して幕府の御用を勤めた。十年ほど後には御用を辞して自由な作風の追求へと視野を広げたことはあまりにも有名。町人文化の活性化が極まった元禄中頃のことであり、創作活動に強い影響を与えたのが同時代の知識人で、多くの芸術家と交流していた紀伊国屋文左衛門や英一蝶であることも良く知られている。親しかった両者には奇想天外とも言い得る行動があることから、宗との関係においても伝説や後の創作が多い。
この鐔は、宗が得意とする片切彫を駆使した作。宗は、後藤家に学んだことから赤銅魚子地に高彫色絵仕立ての作風も良く知られているが、強弱抑揚を付けた片切彫のみの手法は、古典的な彫技を洗練させたもので、幅広く細く、深く浅くと、まさに絵筆を走らせたように変化に富んで動きを生み出している。さらに描線は簡潔ながら首から腹、脚部にかけての肉感を明確にし、鬣の線も揃って蹴上がる拍子に揺れ動く様子が的確。馬を曳き出そうとする官人には、勇み立つ若駒への対処に困惑している様子が窺いとれるほど。夜間の儀式であることを暗に示したものであろう地金は漆黒の赤銅地一色で、中央部の厚い碁石形に造り込んで金覆輪を掛けている。