鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

巣籠鶴図鐔 忠重 Tadashige Tsuba

2014-01-30 | 
巣籠鶴図鐔 忠重


巣籠鶴図鐔 銘忠重作

 江戸時代中期の赤坂派を代表する名工、忠重の力強い鉄地に透かしを巧みにした作。松樹の上において翼を広げている様子を、大きく意匠して心象的風景としている。線描と透かしの曲線からなる陰陽の図柄は味わい格別のものがある。

鶴亀蓬莱図鐔 遊洛斎赤文 Sekibun Tsuba

2014-01-29 | 
鶴亀蓬莱図鐔 遊洛斎赤文


鶴亀蓬莱図鐔 銘遊洛斎赤文老人

 鉄地を変わり形に造り込み、大きく翼を広げる鶴、その下には松樹があり、さらに亀がいる。松樹だけではない、竹に梅が配されており、松竹梅。櫃穴は赤銅で埋められており、毛彫で宝文様が彫り表わされている。これでもかと言うほど、全面がお正月らしさに包まれている。ここでの、鶴が鐔の上部に意匠される構成は素敵だ。鉄地高彫に金、素銅、山銅、赤銅などの色金を巧みに使い分けて表現している。


瓢箪から駒図鐔 越前住記内 Kinai Tsuba

2014-01-25 | 
瓢箪から駒図鐔 越前住記内


瓢箪から駒図鐔 銘越前住記内

 諺を題に得、棚にぶら下がる瓢箪の様子を大きく捉えて表現した作。文様風表現であり、心象的でもある。記内派は様々な題を得て鉄地肉彫手法で鐔を製作している。

放馬図鐔 江川利秀 Toshihide Tsuba

2014-01-23 | 
放馬図鐔 江川利秀


放馬図鐔 銘武州江戸住江川利秀(花押)

 銘文はさらに「備州長舩祐直鍛之」と刻されており、備前刀工祐直の鍛えた地鉄に利秀が彫刻を施したことが分る。このような作例は、江戸時代後期に間々みることができる。利秀は、横谷の系流の利政の門人。地は鉄地で、横谷流の量感のある高彫に表現されている。84ミリ

繋ぎ馬透図鐔 武州 Busyu Tsuba

2014-01-22 | 
繋ぎ馬透図鐔 武州


繋ぎ馬透図鐔 無銘武州鐔工

 鉄地を切り絵のように巧みな陰影で表現している。武州鐔工としたが、赤尾派や赤坂派がこのようなすっきりとした透鐔を遺している。毛彫を加えなくても充分に馬であることは理解できるのだが、完全な切り絵ではなく、要所に肉彫と毛彫を加えて魅力ある鐔面を創出している。73ミリ

檀渓渡河図鐔 浜野直随 Naoyuki Tsuba

2014-01-20 | 
檀渓渡河図鐔 浜野直随


檀渓渡河図鐔 銘浜野直随(花押)

 三国志演義に取材したもので、直随が得意とした図柄。荒れ狂う檀渓の渡河を決行した劉備の意志、それを現実のものとした劉備愛馬の的盧が主題。朧銀地高彫に力強い鏨を切り込み、その痕跡を活かした作風。的盧は鐔の表裏に亘って描かれている。その目線は、対岸のさらにその遠く聳える山並みに向けられているのであろうか。71.2ミリ

放馬図縁頭 中村正次 Masatsugu 

2014-01-18 | 
放馬図縁頭 中村正次


放馬図縁頭 銘中村正次(花押)

 中村正次は野村家の門人で、後に野村正道の養子となり、その五代目を襲った、蜂須賀家の御抱工金工。洗練された高彫は後藤の流れを汲むものだが、後藤らしさを感じさせない優しさが窺いとれる。美しい作品である。





放馬図鐔 銘モト廣(花押)

この銘をモト廣と読んで良いのであろうか、系統の不明な金工。表裏にわたって五頭の馬が快活に描かれている。

放馬図鐔 愛壽 Aitoshi Tsuba

2014-01-17 | 
放馬図鐔 愛壽


放馬図鐔 銘愛壽

 愛壽は会津正阿弥派の林政光、正光と同人。鉄地を得意とする高彫手法で山水の一場面として描き、これを背景に小川のほとりに佇む馬と野に伏す牛を表裏に描き分けている。魚子地一色を背景に馬のみを描いた作が多い中で、このように状況が描かれると、親しみやすく感じられるのは当然だ。牛と馬を対比させているのだが、光乗の目貫とは、印象が全く異なっているのは面白い。作風の違いだけでなく、画題を採る根拠としているところが異なるのである。


十二支図鐔 貞隣 Sadachika Tsuba

2014-01-16 | 
十二支図鐔 貞隣


十二支図鐔 銘貞隣(花押)

 赤銅一色に目玉のみ金色絵で高彫表現された鐔。十二支を六つずつ表裏に分けるのではなく五と七に分けているところに陰陽の意識が窺いとれる。このように、江戸時代には普通に陰陽の意識が備わっていた。綺麗な高彫表現である。馬だけでなく各々の動物の特徴が良く捉えられている。貞隣(読みはサダチカであろうか)は横谷の流れを汲む大森派の工。70.4ミリ

八駿馬図鐔 永壽 Eiju Tsuba

2014-01-14 | 
八駿馬図鐔 永壽


八駿馬図鐔 銘永壽(花押)

 このような動物などを題材として採る場合、阿吽の思想を背景とした場合には偶数(二頭)でも描くが、三、五、七、九などのように奇数で描くことがほとんど。これも実は陰陽の思想を背景にした数である。ところがここでは八頭の馬を描いている。古代中国の伝説にある八駿馬が題材である。桂永寿もまた馬を作品として多く遺した金工である。この鐔も、かつて『銀座情報』にて紹介したことがあるので、その解説全文を掲載する。


 神仙の術に深く傾倒し、薬種にかかわりのある菊慈童を寵愛したことでも知られる西周の穆王(紀元前九百五十年頃)は、天下巡遊を目的に、そして長いあいだ憧れていた西王母をエンジ山に訪ねるために、八頭立ての馬車を特別に仕立てたといわれている。これを曳いたのが、古代中国の歴史と伝説を飾る八駿馬であった。
 因みに古く中国では、大宇宙は八角形に構成されていると考えられていた。これゆえに八は万物の根源たる数として以降の思想に備わってゆくのであり、八頭立ての馬車も、装剣小道具の画題として広く知られている八仙人図もこれに拠るものである。
 天下巡遊に際して車を引く馬の選定を命ぜられたのは、穆王に仕え、名馬を育てるを得意としていた造父であった。造父は、かつて殷を倒した武王が、奪取した名馬を崋山の麓に放したことを知っていた。その後、自然の中で交配された馬は崋山が生み出す気によって特殊な能力を持ち、足が地面に着かないほどに早く走る能力を、あるいは一夜に一万里を走る能力を備えたと信じられていた。
 造父は崋山で野生化したこの名高い馬の調教に成功し、駿馬として後に穆王に献上したのであるが、穆王はさらにこれを、竜芻という草の育つ東海の島にて育成させたといわれている。平素、馬が竜芻を食すると平時の十倍以上の力を発揮すると考えられたもので、これを餌とした八駿馬は超常的な力を発し、ついには背に翼を持つ馬が誕生したという伝説も生まれたほど。以降、名馬の象徴として八駿馬の名が語り伝えられていったのである。
 写真の鐔と縁頭は、八駿馬の伝説を下敷きとしたものであろう、広大な草原にて伸びやかに育つ八頭の馬を自然味溢れる景観で捉え、表情豊かに彫り表わした、軽やかな趣の感じられる作品。製作は筑後国久留米に生まれた桂永壽。江戸に出て横谷英精の門及び二代宗與の門に学んで洗練された感覚を養い、郷里の久留米にて独立開業し有馬家の御用を勤める。後に再び出府して江戸を活動の場に定め、横谷流の美しい作品を遺している。
 漆黒の赤銅地を丸形に造り込み、深味のある光沢を持つ奇麗に揃った魚子地に仕上げ、他に一切の添景を描かずに八駿馬を彫り表わし、耳には金の覆輪を廻らして絵画的な空間性を考慮すると共に、高位の武家の装剣金具としての風格ある側面を明確にしている。八駿馬は激しく跳躍する姿、疾駆する姿、野に伏す姿、草を食む姿と、いずれも異なる姿態で高肉に彫り出し、金、銀、朧銀の色絵を加え、動きを活性化させる片切彫状の線刻を的確に配し、筋肉の盛り上がりとその動き、跳躍感、そして彼らを包む風の動きまでも靡かせる鬣の様子で表現している。窪んだ眼窩に丸く大きく見開いた瞳の表情も見逃せない。
 これに添う縁頭にも横谷流の駿馬を配し、微細な魚子地に量感のある高彫とし、赤銅地に銀の平象嵌を加えて斑毛の様子を渋味のある色調で表現。また、銀を割り込んだ金を用い、これによって斑毛の様子を鮮やかに表現している。




放馬図鐔 柳川直春 Naoharu Tsuba

2014-01-11 | 
放馬図鐔 柳川直春


放馬図鐔 銘柳川直春(花押)

 疾駆する馬、後ろ脚を激しく蹴り上げる馬、のんびりと草を食む馬。それぞれを的確な姿態に彫り描き、金銀のみならず色合いを違えた金と朧銀、素銅など色絵の配置も巧みに生命感に溢れた作品としている。直春は馬を描いた作品を多く遺している。目に優しさが感じられるのが特徴的。70ミリ。


放馬図鐔 柳川直光 Nomitsu Tsuba

2014-01-11 | 
放馬図鐔 柳川直光


放馬図鐔 銘柳川直光(花押)

 赤銅魚子地に高彫表現した作。柳川家は横谷流の金工で、本作のような写実的表現になる馬や動物、霊獣などを得意とした。魚子地は大草原。ここにタンポポを描いて野原の様子を窺わせている。66.3ミリ


白馬節会図鐔 横谷宗 Soumin Tsuba

2014-01-09 | 
白馬節会図鐔 宗ソウミン(ミンの文字が再現できていなければご容赦のほど)


白馬節会図鐔 銘 宗(花押)

横谷派の金工も馬を描いた作品を多く遺している。宗に、静かに佇む放馬を描いた小柄が何点かある。宗は華やかな高彫色絵表現の他、この鐔のような活力のある片切彫手法の作品を多々遺している。今年の『銀座情報』の正月号の表紙を飾った作である。以下に解説全文を掲載するので参考にされたい。

 正月七日の夜、宮中の紫宸殿において天皇が白い馬をご覧になる白馬節会がある。嵯峨天皇の頃から記録にみられるようになった正月の儀式の一つで、鬼やらいや小松曳き、七草粥などと同様に、白馬を見ることによって邪気を祓い、白馬が備えている陽の気を体内に採り入れ長命を得るというもの。左右馬寮によって南の庭に曳き出された白馬を群臣と共に愛で、宴を催したという。また、詳らかではないが白馬を紫宸殿の周りを巡らせることによって邪気を祓ったものとも伝えられている。馬は陽の動物であり、殊に万物の萌え出る春の色でもある青色の毛を備えた白馬は縁起が良いとされていたのである。
 『源氏物語』少女の段にも白馬節会が記されている。光源氏の理想でもあった四季折々の草花が咲き乱れる六条院の御殿の改修が物語の背景としてあり、その説明に伴って貴族の年中行事を紹介している。物語では、藤原良房が古例に倣った白馬節会を催したことに対し、新趣に富む白馬節会を催した光源氏の才気の在りようを示している。作者紫式部の時代には、香合わせ、絵合わせ、花合わせなど様々な比べ遊びがあったが、白馬節会ですら互いに競い合うような流行となっていたのであろうか。
 和歌にも白馬節会が記されている。鎌倉時代初期の藤原定家の「いつしかと春のけしきにひきかへて雲井の庭にいづる白馬」は有名。南北朝時代の『年中行事歌合』には「松の葉の色にかはらぬ青馬を 引ば是もや子日なるらん」がある。時代が遡って万葉集には大伴家持の「水鳥の鴨の羽の色の青馬を 今日見るひとはかぎりなしといふ」が遺されている。いずれも清らな空気感が漂う歌であり、白馬の様子を松のあおあおとした葉や水鳥の羽の色に擬えた意識も伝わりくる。
 八駿馬の伝説にもあるように、為政者にとっての馬は、武力、戦闘能力に直接関わり、統治力に重ねられる大きな存在。平安時代後期には河内源氏の武将が馬寮に任官されたことから、この官職は武士の憧れの的となっていた。鎌倉時代初期の源実朝などが歴任し、また、室町時代初期以降は次期将軍職とみなされる者が馬寮に就いていることも興味深い事実である。
 もちろん武家の権力の拡大に、名馬の産地の掌握は少なからず影響していよう。源平合戦では、名馬を間にしてその取り合いをした伝承もある。
 古い行事が失われてゆく中で、現在でも白馬節会が行われているのは京都の賀茂別雷神社、大阪の住吉大社など。茨城県の鹿島神宮では古様式のままの夜間の行事であり、殊に伝統を大切にしているようだ。しかも、維新前の鹿島神宮では、元旦から白馬節会が行われるまでの間は楽曲が控えられていたともいう。
 獅子舞や萬歳と同様、正月の門付け芸の一つとして街中にみられた春駒も、実はこの白馬節会が市井に広まったもの。馬の首形を手にして馬に跨っているような仕草をし、家々を巡って言祝を述べる様子は初春らしく華やかであり、後には馬の首形も飾りとして、また子供の遊びや玩具としても定着している。
 写真は、このように宮中のみならず武家においても、また下っては庶民にも広まった我が国の伝統文化である白馬節会に取材し、その主役でもある若駒の快活な姿を彫り描いた横谷宗の鐔。
 豪奢とも評される獅子牡丹図や、清楚に佇む放馬図小柄で知られる宗は、寛文十年の生まれ。十八歳にして父横谷二代目の宗知が没したため、祖父の後見を得て家督を相続、宗と改銘して幕府の御用を勤めた。十年ほど後には御用を辞して自由な作風の追求へと視野を広げたことはあまりにも有名。町人文化の活性化が極まった元禄中頃のことであり、創作活動に強い影響を与えたのが同時代の知識人で、多くの芸術家と交流していた紀伊国屋文左衛門や英一蝶であることも良く知られている。親しかった両者には奇想天外とも言い得る行動があることから、宗との関係においても伝説や後の創作が多い。
 この鐔は、宗が得意とする片切彫を駆使した作。宗は、後藤家に学んだことから赤銅魚子地に高彫色絵仕立ての作風も良く知られているが、強弱抑揚を付けた片切彫のみの手法は、古典的な彫技を洗練させたもので、幅広く細く、深く浅くと、まさに絵筆を走らせたように変化に富んで動きを生み出している。さらに描線は簡潔ながら首から腹、脚部にかけての肉感を明確にし、鬣の線も揃って蹴上がる拍子に揺れ動く様子が的確。馬を曳き出そうとする官人には、勇み立つ若駒への対処に困惑している様子が窺いとれるほど。夜間の儀式であることを暗に示したものであろう地金は漆黒の赤銅地一色で、中央部の厚い碁石形に造り込んで金覆輪を掛けている。



放れ馬図鐔 東雨 Touu Yasuchika Tsuba

2014-01-08 | 
放れ馬図鐔 東雨


放れ馬図鐔 銘東雨

 土屋安親の馬図鐔である。切羽台厚辺りを中心にして、裏にはしっかりと大地に根を張る老松を、表には快活な馬を描いている。素敵な構成で、松樹と馬の生命力が暗に表現されているのである。薄肉彫も巧みに、下草のみわずかに金象嵌を加えている。華やかではない、安親の魅力横溢の作である。

宇治川先陣図鐔 後藤栄乗 Eijo Tsuba

2013-12-21 | 
宇治川先陣図鐔 後藤栄乗


宇治川先陣図鐔 後藤栄乗

 同じ後藤栄乗と極められた、同じ宇治川先陣に題を得た鐔。宇治川で木曽義仲軍を攻めた際に、宇治川渡河先陣を競った高綱と景季の間には、実はそれ以前にも争いがあったという。高綱の生唼も、景季の磨墨も、ともに頼朝の愛馬であった。宇治川の合戦では、生唼は高綱のものとなっているが、実はこの馬に先に目を付けたのが景季。頼朝に何度か下賜を願い出たものの許されず、代わりに磨墨が与えられたのであった。ところがその後、高綱も同様に生唼の下賜を願いでた。しかも執拗に迫り、ついには頼朝も諦めたものか、自らの知らぬ間に盗まれたとあっては仕方あるまいとつぶやき、暗に盗み出すことを許したのである。
 両者を比較すると、誠に素直な景季に対して、いかなる手段を用いても我がものにするという高綱の特質が浮かび上がる。良いか悪いかは別として、その意識は、宇治川先陣においても現れたのである。82.3ミリ。