鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

山水図鐔 Tsuba

2011-08-31 | 鍔の歴史
山水図鐔 (鐔の歴史)


山水図鐔 正阿弥一光作

 先に紹介した会津正阿弥と同じ流派の一光の鐔。明らかに金家を手本とし、これに独創を加味している。遠く霞む山間に堂塔が見える。その様子を微妙に抑揚のある高彫で表わし、わずかに金を加えているところ、地に鎚目を残し、さらに焼手を加えて遠望の空気感を演出しているところは同じ趣。特徴がみられるのは近景。波間に揺れる小舟とその釣り人、岸辺には芦が茂り松樹が枝をたれている。その微妙な彫り様は金家とは違って面白みがあり、金布目象嵌を配して線描写を多用しているところに個性がある。一光の得意とする空間演出である。75ミリ。

山水人物図鐔 Aizu-Shoami Tsuba

2011-08-30 | 鍔の歴史
山水人物図鐔 (鐔の歴史)


山水人物図鐔 会津正阿弥

 江戸時代中期から後期にかけての会津には、山水図を得意とする正阿弥派の金工が活躍している。過去にも紹介したことのある、牛若丸図鐔、東天紅図鐔、山羊図鐔なども山水を背景としており、会津正阿弥派の特徴を良く示している。
 この鐔も、佇む人物を主題とした山水図で、金家の風合いを手本としていることは明白。遠見の松や水面などの描法は正阿弥派の布目象嵌、芦は赤銅象嵌の手法を採っており、高彫部分も鋤彫少なく、地面の鎚目も穏やかに、金家のような古画を見る風合いではなく、風合いは独特のものがある。82ミリ。


川下り図鐔 Tsuba

2011-08-29 | 鍔の歴史
川下り図鐔 (鐔の歴史)


川下り図鐔

 作者不詳ながら、明らかに金家を意識した鐔。鉄地を鋤き込んで高彫とする手法を採り、夕日の沈み行く様子を遠景に、小舟を操る人物と川辺の様子、要所に金の布目象嵌を施している。江戸時代中期から後期の正阿弥派とみられる。遠い山並みは金家の手とは異なり、険しさを漂わせており、遠見の松樹などは味わい深く、それらを包む夕空の雲を微妙な鋤彫で表わし、地面にも鎚の痕跡を活かして空気感を演出している。決して下手ではない。金家の風趣を手本として成功しており、楽しめる作品である。82.5ミリ。

浜松千鳥図鐔 奈良利治 Toshiharu‐Nara Tsuba

2011-08-27 | 鍔の歴史
浜松千鳥図鐔 奈良利治 (鐔の歴史)

 金家の銘が刻された作で、明らかに後代の作であるという例は多々見かける。残念ながら、それらの資料写真は残してない。銘の切り方も違えば、造り込み、高彫の様子、象嵌の過多も気になり、明らかに金家ではないとみる。だが先に述べたように、これらの後代の作が遡って真作に近づいてゆくと、どこで真偽の線引きをすべきかわからなくなるポイントがでてくるのが現実である。
 以下紹介するのは、金家の作風を手本とし、独創を加えていったであろう金工や鐔工の作例である。


浜松千鳥図鐔 奈良利治作

 金家の風合いを正しく継いでいるというわけではない。山水図を基礎にし、高彫色絵象嵌によって江戸好みの風景図を専らとしたのが奈良派である。鏨の使い方による違いであろう、奈良派独特の風情を感じとってほしい。
 鉄地を素材とし、耳際には打返しなどの手を加えずに平坦な処理。鎚の痕跡を残して空間を演出しているが、金家のような、鎚目の抑揚は強くない。松樹の表情が素敵だ。この手は古金工にも、金家にも見当たらない。千鳥の舞い踊る様子も高彫だが、さて、その周囲にみられる微妙な線は何だろうか気になる。可能性として、金家の採った共鉄象嵌が挙げられよう。
 作者の利治は、奈良派でも有名な利寿、乗意、安親の先輩に当たる金工。江戸金工の祖の一人と捉えれば判り易い。79ミリ。

鐔の歴史

2011-08-27 | 鍔の歴史
鐔の歴史

 現在、手許に三枚の金家と銘された鐔がある。一点は月刊『銀座情報』の11月号で紹介する予定である。少々お時間をいただきたい。もう二点は、古代中国の伝説を題に得た同図。これについては現在精査している最中であり、解説するまでに至っていない。いずれ紹介する機会があると思う。義経と弁慶の図のように、同図が存在するということは、1.複数製作した。2.前作を手本とした後の金家がある。3.全くの偽物である。4.この図が様式として存在する。以上のいずれかと考えられる。良く知られている例では、歌川広重の浮世絵版画連作『東海道五十三次』には規範となる様式化された図があったことと同様、あるいは我が国の古典、『源氏物語』の挿絵が次第に定型化されたように、古くから語り継がれてきた古典には、その挿絵とされるような典型的図が存在したのではないだろうか。金家の得た主題も、そのような例であったとも考えられる。中国の古典が、かつては教育に利用されていたことも事実。現代、我々が画題というように、画題は、画題を聞いただけで内容が判明してしまうように、かつては誰もが画題とその意味を知っていたのではないだろうか。

牛若に弁慶図鐔 金家 Tsuba

2011-08-26 | 鍔の歴史
牛若に弁慶図鐔 (鍔の歴史)

 複数人の金家を分類するなら、1.「城州伏見住金家」と「山城國伏見住金家」の二通りの銘の違い。2.道釈画の如く古典絵画を手本とした作、山水古画を手本とした作というように主題の採り方の違い。3.高彫の量感や人物の表情などの表現の違い。4.高彫象嵌を含めた、毛彫や特殊な鏨を打ち込むなどの技法の違い。5.地鉄の厚さなど造り込みについても違いがあり、考察の対象となろう。ただし、筆者には実際に使用する上での微妙なバランスを考慮すると様々であってよいという持論がある。金家についてもこれが当てはまるであろうか。
 その一方で、金家は一人であるとする説も強い。作風や主題の採りかた、銘文銘形は変化する。すると、偽物との境界線をどこに置くかが問題点となる。後代に、堂々と金家と銘した工があることから、これを後代金家と定めると、金家との関連からどのように位置付けるか。
 また、金工は一人で作業していたのであろうかという疑問。今で言う工房のような仕組みがあったなら、複数の金家が存在するだろう。棟梁金家とその弟子に当たる職人たちの作品、ということである。すると、棟梁の死後の弟子たちの作品はどのように位置付けられるのであろう。
 問題点は様々あり、それが故に面白い。筆者は、それほど多くの作例を直接鑑賞したわけではないので、まだまだ比較論評できる立場にない。ここに写真記録を残した数点を紹介し、問題点を提起するにとどめる。多くの作品を直接ご覧になっている研究家の、見た感覚や好き嫌いとは別の次元からの、確かな研究結果を期待している。


牛若に弁慶図鐔 山城國伏見住金家

 随分前から、同図が複数あることが指摘されている鐔の一つである。真偽の判断より、このような図のあることの重要性を考えて欲しい。
 能楽では『橋弁慶』が良く知られている。この鐔は、その場面を京の風景として捉え、彫り描いたものであろうか。柿本人麻呂図と同様に古典から取材したものであろうか。能楽から発展した歌舞伎の隆盛はまだ時代が降るであろう。だが、阿国の生きた時代には、と呼ばれるような、まちはずれの川辺などで演じられていた大衆向けの芝居などがあり、大衆演劇の時代は少し上がるのではなかろうか。どこまで芝居の完成度が高く、衣装などの再現が為されていたものかも不明だが、金家の生きた時代には、川や河原の存在は、かなり文化的に意味があったものと推測される。単に絵画の題材ではないのである。
 もう一つ、裏面の山水を背景とした曳舟図である。曳舟というと高瀬舟を思い浮かべる。高瀬舟は角倉了以による高瀬川の開削によって行われた運送業、即ち、金家は慶長十九年の高瀬川開削以降の活躍であるという時代の分析である。だがしかし、曳舟は高瀬川だけのものではない。
 とにかく面白い資料であることは間違いない。この鐔の作風は、所謂初期の作に比較してわずかに厚手で小振りであり、これらの点は使うことを考えれば充分に肯定できる範疇。打返耳、高彫、共鉄象嵌、金銀象嵌は要所にのみ、鎚の痕跡を活かした空間描写という手法も金家のそれである。代別の考察はできないが、大初代といわれている手でないことは確か。鉄味という鑑賞した上での感覚では、決して江戸時代も下ったものではない、江戸初期はあろうと推測されるような地肌である。

猿猴捕月図鐔 金家 Tsuba

2011-08-25 | 鍔の歴史
猿猴捕月図鐔 (鐔の歴史)

 最初に、歴史研究家に古文献を研究してもらい、金家の本質を見出してほしいものであると述べたが、もう一つ提案がある。金家の大きな特徴の一つに共鉄象嵌がある。金家鐔の高彫が象嵌によるものであることを明確にしたのは、レントゲン撮影によってであった。筆者も何点かの作品をレントゲン撮影してみた。確かに象嵌の技法が採られていることが判った。そこで考えた。
現今、様々な機器が発達し、物体の断層写真なども撮影ができるような状況になってきている。これを利用し、常には見えない象嵌の裏側がどのような処理をされているのか比較研究することにより、複数の金家の特定が可能になるのではないか。
 金家の作品を壊してまでその象嵌の裏側を見て真似ようとした偽作者はないだろう。壊すことを前提としなければ、見えない部分に気を使う必要はない。偽作と真作の違いは明確になる。それだけではない。代別による象嵌の処方の違いも明確になるのではないだろうか。
 金工作品の、象嵌が落ちた部分をご覧になった方もおられると思う。象嵌の落ちた内面には鏨の打ち込みが施されている例があることに気付いた方もおられよう。これを最新の機器を用いて、金家の象嵌を外さずして確認しようという魂胆である。ただし、費用がかかりそうである。判断が可能か否かは試してみなければ判らないのだが・・・どなたか、このような視点で研究してみようという方はいないだろうか。


猿猴捕月図鐔 山城國伏見住金家

 桃山時代の長谷川等伯の猿猴捕月図を見るような、丸みのある顔つきも似た図柄の作。木瓜形に造り込み、耳は打返耳、槌目を生かした地面は薄手、高彫部分の多くは象嵌。裏面は嵐山辺りを眺めたような遠見の塔を主題とする山水図。81.7ミリ。

帰雁図鐔 Tsuba

2011-08-24 | 鍔の歴史
帰雁図鐔 (鐔の歴史)


帰雁図鐔 山城國伏見住金家

 この鐔の表裏の題は、正確には違っている。大徳寺塔頭養徳院に伝えられた宗湛・宗継筆の襖絵(延徳二年・1490)にみられるような帰雁図を表にし、裏はこれまでに幾つかご覧いただいた京洛近隣に取材したと推測される、干し網を川辺に眺める山水図である。宗継の襖絵に似ていると述べたが、金家はこの襖絵を見ているのであろう、言うなれば古画の写しである。川辺の干し網、遠く霞む山並みなど、うまく表裏を連続させている。丸形、打返耳、鎚の痕跡は強く、空気感、描かれているのは古紙であるかのような質感を巧みに演出している。高彫に象嵌、下草部分には毛彫を巧みに加えている。87.5ミリ。

金家の評価は、江戸時代後期辺りから高まったと考えられているようだが、金家の偽物はそれ以前から多く存在している。即ち、金家の高い評価は、言われているよりも遡るものと考えられる。偽物然としたものから、金家を手本として新たな世界観を表現したもの、後の明らかな写しなどなど。
 鉄の共金象嵌を環境が悪いままで保管すると、象嵌の接触部分が腐食してしまう。普通に古鐔や刀の茎が錆びこむのと同じである。仮に金家の鐔が江戸時代後期まで百数十年ものあいだ全く評価されていなかったとすれば、それまで保管はぞんざいであったろう。錆の発生にも気を使わなかったとすれば、現状のように状態良く遺されているはずがない。金家鐔は、比較的早くから人気があり、大事にされ、しかもこれを写す者があり、偽物を作るものさえあったのである。
 江戸時代の金工の山水図だからといって山水図すべてが金家写しではない。作品の漂わせている雰囲気が重要であることは言うまでもない。山水図を得意とした金工では、江戸の奈良派が良く知られている。安親や政随などを輩出した流派である。奈良派は山水図を得意とした。その中で安親は、新趣のデザインを多数生み出している。金家に倣っているわけではなく、写真例の帰雁図鐔は独創的である。


帰雁苫舟図鐔 安親

 安親を代表する、洒落た風合いの漂う帰雁図鐔である。決して金家を手本としているわけではないのだが、恐らく金家の作品は眼中にあったはず。金家の真似はしないぞという意識はあったと思う。そのたくましい創造力こそ安親の魅力である。78ミリ。□


寒山指月図鐔 金家 Tsuba

2011-08-23 | 鍔の歴史
寒山指月図鐔(鐔の歴史)

 金家の技術は、高彫象嵌の手法の特異性にある。共鉄象嵌(ともがねぞうがん)と呼ばれる手法で、鉄地の地面を鋤き込み、ここに鉄地別彫りの塑像を象嵌するのである。このような困難な技法を採らずに簡単な鉄地高彫をすればよいはずだが、何を思ったのか、厚さが一~二ミリの地面に主題を高彫象嵌しているのである。
 甲冑師鐔と呼ばれる中に、構造的象嵌に似た困難な手法を駆使した作があることを紹介したことがある。放射状の筋を用いて切羽台と耳を繋ぎ合わせる技法である。何もそのようなことをせず、単に透かしを施せば良いであろうにと思うのだが、実際に面倒なことをしているのである。意識は全く同じだ。実用の上では、耳と切羽台とを鉄地とはいえ筋状の金具でつなぎ合わせた鐔などは、万が一にも打ち込まれたなら、耳、地面、切羽台いずれもが一体の鐔に比してバラバラに壊れてしまう可能性が高い。
 これらの工法になる鐔は甲冑師がその技術を誇示するために製作したもの。金家もまた自らの象嵌技術を誇示するために面倒な工法を採ったと想像されるのである。ところが、後の金家写しの金工は、金家の意を汲み、象嵌を再現することはなかった。真意に気付かなかったのかもしれない。鐔が漂わせる風趣の魅力にのみ惹かれたのであろう、象嵌の技法を採った例は少ない。


寒山指月図鐔 山城國伏見住金家

 二つ木瓜形の造り込みは特異で、それ以外は、薄手、打返耳、鎚の痕跡を生かした地面、象嵌、総体の風趣、総てが金家の作風。絵画的な志向がより強くなっていることが窺え、表現技法も毛彫だけでなく鏨の打ち込みによる樹相の表現も進んでいる。


柿本人麻呂図鐔 金家 Tsuba

2011-08-22 | 鍔の歴史
柿本人麻呂図鐔 (鍔の歴史)


柿本人麻呂図鐔 山城國伏見住金家

 表は古画を手本としたような構成で、裏は釣り人、その背後には遠く霞む山間の堂塔。金家らしい組み合わせである。鉄地を変り形の薄手に仕立て、主題と山並みは鉄地高彫の象嵌、要所に金銀の象嵌を施している。84ミリ。

 金家の評価すべきところは、絵風表現の創始者というより、同時代の風俗や風景を鐔に描き遺しているという点であることは度々述べている。
 金家には、古画を見るような山水図があると同時に、京都近隣に取材したと推測される風景が間々みられる。一般的に、初期の鐔の絵画表現は、古典絵画を手本として単に山水図を鐔に置き換えたものである。室町時代の古金工鐔や美濃彫鐔などは古典的な文様表現を専らとしている。言わばこれも古作の写しであるが、伝統の墨守から次第に新鮮味のある文様が生み出されていった。絵画風鐔もいずれ誰かが造り出すものであり、それがとても上手な金家が目立つ存在であったということと、作者銘、居住地銘が濃くされていたことが歴史的に評価される所以である。現実には、古金工作の絵画風鐔を過去に紹介したことがあり、真鍮象嵌鐔にも桃山時代の作がある。
 金家の優れているところは、同時代の風景を取材しているということであると述べたが、本当に同時代なのか?と言われてしまうと、筆者は金家ではないので断定はできない。金家の生きた時代からわずかに遡った時代を範疇にしていると捉えても良いだろう。金家の作品を分類してみると、①達磨、柿本人麻呂など古典的な絵画の主題とされるような人物を主題とした図。②古典的な山水図。③飛脚、農民、釣人、舟を漕ぐ者など、風景の添景ともされ得る日常的な光景。④人物が描かれていても添景程度の、純粋に日本的な山水図。これらの中で達磨や柿本人麻呂などは判り易い古典的画題で、帰雁図や猿猴捕月図は室町時代の水墨画を想わせる、言わば古典的山水画。このような、古典的山水画を一面に描き、一方の面には農民、飛脚、釣り人など金家緒と同時代の風俗を描いている例が多くみられるのである。山間に堂塔、川辺に干網、釣人や投網などには日本的な風情が漂っており、まさに同時代の風景とみて良いだろう。
 ここには、実際の京洛に取材した屏風絵が製作され、これが流行して多数製作されたという背景がある。真鍮象嵌鐔や古金工鐔に散し絵風の構成になる風景図鐔があるように、鐔工は古画に題材を求めたように室町時代末期から桃山時代に流行していた洛中洛外図屏風絵や京名所図などに題材を見出し、これに触発されて現実の風景に目を投じるようになったと推測するのである。


塔山水図鐔 金家 Tsuba

2011-08-20 | 鍔の歴史
塔山水図鐔 (鐔の歴史)


塔山水図鐔 山城國伏見住金家

 鉄地を薄手の変り形に造り込み、耳際を打返耳に仕立て、地には鎚の痕跡を巧みに残して景色の一部とし、高彫の一部が同じ鉄地による象嵌、ごくわずかに金銀の象嵌を施している。染みの付いた古紙に描かれている墨絵の如き枯れた風合い、金家独特の風情を漂わせる作である。94ミリ。

 金家の活躍時代は、銘文にある伏見という城下町の発展に関わりがあり、伏見城の建造された文禄元年より遡ることなく、伏見城の取り壊された元和五年より降ることはないとする見方がある。伏見城の建造される以前の伏見は荒廃した街道筋であったにすぎず、名工がここに工房を構えたとは考えられないとみているのだが、伏見は奈良と京を結ぶ街道筋で、宇治から京へ向かう入り口にも当たり、また宇治川あるいは桂川を経て西に通じているなど、言わば交通の要所であり、人の住まない地であったろうか、疑問である。しかも、金家の作鐔した時代に、現在考えられているほどに金家は超のつく名工として認識されていたのであろうか、あるいはその自覚があったのであろうか。その点が曖昧なままの、単純に銘文からの判断である。
 もう一つ、具体的年代研究された例が、金家の鐔に描かれているような飛脚の起こりが元和三年であるという点からの推定。即ち、大坂の商人が江戸とを結んだ飛脚制度の発足以降ということになり、即ち金家の活躍期は江戸時代初期ということになる。これも、飛脚という制度が定まるということは、それ以前にすでに飛脚があり、規制が必要な程度に利用されていたから制度化されたとも考えられる。このように考えれば、金家の活躍時代は少し上がろう。未だ未定といわざるを得ない。

達磨図鐔 山城國伏見住金家 Kaneie Tsuba

2011-08-19 | 鍔の歴史
 これまでに何点かの金家鐔を紹介した。金家は鐔の歴史を眺める上で特に重要な存在の工である。時代の上がる他の鐔工と同様に年紀作がないことから活躍した時代の判断ができず、多くの研究家が製作年代を考察している。その時代の特定は、おおまかに言うと室町中期から江戸初期までのおよそ百数十年に及んでおり、断定が容易でないことは明白。作品を眺めた上での時代判断は、甲冑師鐔や刀匠鐔でも言えることだが、判断材料が不明瞭であれば時代を間違えることもあろうかと思う。
 作風から、金家の代別の判断も様々に行われてきた。一人説から数代あるという説まで。初、二、三代というように分けるのではなく、大初代、名人初代などと呼び分けた研究家もあり、判り難い。他の金工や職人と同様に、同時代に複数の金家が存在したなら、即ち金家が工房名であるなら、作風の違いや作位の違いは好意的に理解されよう。
どなたか古文書研究をされている方が、「金家」の確かな記録を見出し、その研究を進めてくれることを願っている。


達磨図鐔 山城國伏見住金家

 鉄地を打返耳に仕立て、地面には鎚の痕跡を残して秋草を毛彫にしている。元来、この秋草部分には金象嵌があったようだ。金がうるさいといわれるかもしれない。確かに金象嵌の少ないほうが金家らしいが、本来の姿も鑑賞したいものだ。80.5ミリ。

散し絵図鐔 Tsuba

2011-08-18 | 鍔の歴史
散し絵図鐔 (鐔の歴史)


散し絵図鐔 平安城象嵌

 屏風などの散らし絵を想わせる表現。耳の線象嵌も額縁効果を狙った演出。表裏がほぼ同図だが、下の波間の舟のみが異なる。橋があることから、海ではなく(以前に紹介した際には海と捉えたかもしれない)、川の流れであろう。垂れかかる藤の花、それが絡みつく松樹、遠く帰雁の群。絵画的要素の布置である。鐔における絵画表現は既に完成されているとみてよいだろう。84ミリ。

寒山拾得図鐔 Tsuba

2011-08-17 | 鍔の歴史
寒山拾得図鐔 (鐔の歴史)


寒山拾得図鐔 平安城象嵌

 絵風鐔は金家からとは一般的な評価だが、金家よりも時代が上がると推測される鐔が、平安城象嵌鐔や古正阿弥鐔に間々みられる。もちろん総合的な芸術性や作品としての評価は金家に及ばないが、こうして眺めてみると、この鐔は味わい深いだけでなく、鐔の装飾の移り変わりが知れて興味も一入である。主題である人物の描法も古拙で魅力的だが、背景の山並みの表現は、高彫ながら脈打つような高肉の筋彫り、雲も同様の描法であり、なんとも面白い。高彫表現が完成されてゆく過渡期の作であることは間違いない。完成度の高い作のみが面白いわけではないのである。74.3ミリ。

背負籠図鐔 Tsuba

2011-08-16 | 鍔の歴史
背負籠図鐔


背負籠図鐔 平安城象嵌

 これも以前紹介したことがある。主題は、透かしのある真鍮象嵌になる籠だが、背景の描写が面白い。植物の表現が奇妙であり、味わい格別である。現今の表現であればシュールと言うべきか。岩の苔か花か、木々の枝振りも普通ではない。装飾性に富んでいるのである。これほど面白いにもかかわらず流行しなかったとみえるのは、世の中がこれについてこれなかったに違いない。考えてみれば、鎌倉鐔と呼ばれている鋤彫り鐔の表現も、かなり異質である。室町時代末期から桃山時代の芸術性の一端を知ることができる。87ミリ。