牛若に弁慶図鐔 (鍔の歴史)
複数人の金家を分類するなら、1.「城州伏見住金家」と「山城國伏見住金家」の二通りの銘の違い。2.道釈画の如く古典絵画を手本とした作、山水古画を手本とした作というように主題の採り方の違い。3.高彫の量感や人物の表情などの表現の違い。4.高彫象嵌を含めた、毛彫や特殊な鏨を打ち込むなどの技法の違い。5.地鉄の厚さなど造り込みについても違いがあり、考察の対象となろう。ただし、筆者には実際に使用する上での微妙なバランスを考慮すると様々であってよいという持論がある。金家についてもこれが当てはまるであろうか。
その一方で、金家は一人であるとする説も強い。作風や主題の採りかた、銘文銘形は変化する。すると、偽物との境界線をどこに置くかが問題点となる。後代に、堂々と金家と銘した工があることから、これを後代金家と定めると、金家との関連からどのように位置付けるか。
また、金工は一人で作業していたのであろうかという疑問。今で言う工房のような仕組みがあったなら、複数の金家が存在するだろう。棟梁金家とその弟子に当たる職人たちの作品、ということである。すると、棟梁の死後の弟子たちの作品はどのように位置付けられるのであろう。
問題点は様々あり、それが故に面白い。筆者は、それほど多くの作例を直接鑑賞したわけではないので、まだまだ比較論評できる立場にない。ここに写真記録を残した数点を紹介し、問題点を提起するにとどめる。多くの作品を直接ご覧になっている研究家の、見た感覚や好き嫌いとは別の次元からの、確かな研究結果を期待している。
牛若に弁慶図鐔 山城國伏見住金家
随分前から、同図が複数あることが指摘されている鐔の一つである。真偽の判断より、このような図のあることの重要性を考えて欲しい。
能楽では『橋弁慶』が良く知られている。この鐔は、その場面を京の風景として捉え、彫り描いたものであろうか。柿本人麻呂図と同様に古典から取材したものであろうか。能楽から発展した歌舞伎の隆盛はまだ時代が降るであろう。だが、阿国の生きた時代には、と呼ばれるような、まちはずれの川辺などで演じられていた大衆向けの芝居などがあり、大衆演劇の時代は少し上がるのではなかろうか。どこまで芝居の完成度が高く、衣装などの再現が為されていたものかも不明だが、金家の生きた時代には、川や河原の存在は、かなり文化的に意味があったものと推測される。単に絵画の題材ではないのである。
もう一つ、裏面の山水を背景とした曳舟図である。曳舟というと高瀬舟を思い浮かべる。高瀬舟は角倉了以による高瀬川の開削によって行われた運送業、即ち、金家は慶長十九年の高瀬川開削以降の活躍であるという時代の分析である。だがしかし、曳舟は高瀬川だけのものではない。
とにかく面白い資料であることは間違いない。この鐔の作風は、所謂初期の作に比較してわずかに厚手で小振りであり、これらの点は使うことを考えれば充分に肯定できる範疇。打返耳、高彫、共鉄象嵌、金銀象嵌は要所にのみ、鎚の痕跡を活かした空間描写という手法も金家のそれである。代別の考察はできないが、大初代といわれている手でないことは確か。鉄味という鑑賞した上での感覚では、決して江戸時代も下ったものではない、江戸初期はあろうと推測されるような地肌である。