鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

許由と巣父図小柄 後藤光勝 Mitsukatsu Kozuka

2013-06-28 | 小柄
許由と巣父図小柄 後藤光勝



許由と巣父図小柄 銘 後藤光勝(花押)

 清廉なる生き方を尊んだ古代中国の隠者が題材。両者を紹介するためには、まず許由から説明しなければならない。聖帝堯が自ら帝位を去る際、次帝を許由に譲ろうと考えて許由に打診したが、許由は帝位など汚らわしいと考え、そのような話を耳にしたというだけで自らの耳を洗ったという。その川の下流に住む巣父は、許由が耳を洗ったという川の水を自らが飼う牛に飲ませることすら汚らわしいとして、牛にその水を飲ませなかったというのである。帝位がそれほど汚らわしいのかは別の次元の論議となろうが、そこには表と裏の動きがあったことの証。一方、古代中国には潔癖さを貫いた人物がいたということだが・・・・・・・。
 赤銅魚子地高彫金朧銀色絵。後藤光勝は八郎兵衛家の三代目。本家の工ではないが、きわめて上手である。

蘇東坡図鐔 政随 Masayuki Tsuba

2013-06-25 | 
蘇東坡図鐔 政随


蘇東坡図鐔 銘 政随

蘇東坡(そとうば)は北宋の政治家であり詩人。権力争いに翻弄され、左遷されて各地を移り住むこと数度。黄州に流されたときに竹林に草庵を設けて書斎とした。自我を貫き通すというまっすぐな性格が自らを滅ぼしたようだが、逆に人々からは親しまれていた。この人物も装剣小道具に題として採られることが多い。
 政随の作は朧銀地高彫に金銀素銅色絵。穏やかな顔つきに表現している。政春の作は鉄地高彫金銀素銅象嵌。いずれも竹林の前に立ち、静かに己の生き様を顧みているといった風情。優れた構成の作である。
政随は江戸中期の江戸を代表する奈良派の金工、玄松斎政春は江戸後期の水戸金工。


銘 玄松斎政春

竹林七賢人図鐔 桑村克久 Katsuhisa Tsuba

2013-06-19 | 鍔の歴史
竹林七賢人図鐔 桑村克久


竹林七賢人図鐔 銘 桑村克久(花押)

 阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)の七人が主題。彼らは、三国時代末期に政争を逃れ、自由の追求を目的に言わばサロン的な場を設けた。もちろん彼らが一堂に会して論議したわけではなく、そのような環境を生み出した文化人が存在したということ。権力者があればその対極に位置して自由を求めるものがある。中国では、すでに古代において、このような伝承が残るほどの高い文化意識が生まれていたのだが・・・・・・・・。
 桑村克久は江戸中期の加賀金工。加賀に特徴的な平象嵌による文様表現も得意としたが、興味深いのは人物表現。加賀萬歳と呼ばれる伝統芸能を題に得た作例があり、動きのある人物を、薄肉彫と平象嵌の組み合わせで表現している。本作は赤銅地に片切彫で竹林を、人物は金平象嵌と鋤彫、毛彫、強弱変化のある片切彫の組み合わせ。やはり動きがある表現とされている。

李白観瀑図鐔 保壽 Yasutoshi Tsuba

2013-06-17 | 
李白観瀑図鐔 保壽


李白観瀑図鐔 銘 保壽(印)

 我が国は、長いあいだ中国の文化を採り入れてきたことは良く知られている。いずれの国や地域においても、移入した文化をその地域の風土に沿った独自のものに変えている。大陸の東の海に孤立した我が島国では、流入してくる様々な文化を蓄積し変えて現代に至っている。先に紹介した『三国志演義』もその一つ。我が国での読み物として、あるいは歌舞伎の題材としても流行している。
 古代中国の文化人が遺した伝承や詩などは、もちろん我が国でも教養として採り入れている。度々紹介しているように、詩人で酒を愛した李白の瀧を眺める場面は装剣小道具にも採られている。この鐔は、赤銅地を高彫にし、人物描写は立体的で細部まで精密、金、銀、朧銀、素銅の色金を巧みに施している。

檀渓渡河図鐔 鉄元堂正楽 Shoraku Tsuba

2013-06-13 | 
檀渓渡河図鐔 鉄元堂尚茂


檀渓渡河図鐔 銘 鉄元堂尚茂(金印)

 劉備が愛馬を駆って荒れ狂う檀渓を跳び越えた場面。直随の作例を紹介したが、幕末の金工の多くは直随のような奈良派が得意とした構成に倣って製作しているようだが、この構成は明らかに異なる。尚茂は江戸中期の京都金工であり、時代的に遡るのである。鉄元堂正楽の工名で知られているように鉄地を専ら用い、人物図を正確に彫り表わすを得意とした。

五丈原図小柄 Kozuka

2013-06-05 | 小柄
五丈原図小柄


五丈原図小柄

 舟上で前方を見やる孔明の姿を描いた鐔を先に紹介した。その着物の袖には龍の文様が描かれている。そうしたちょっとした演出にも龍が図として採られるように、孔明が龍に擬えられることが多い。そもそも劉備に見出されるまでは伏龍、すなわち未だ力を発揮しない眠れる龍であると呼ばれていたことも影響していよう。孔明の最期も龍で装われることとなった。五丈原の場面には、必ず戦車を守っているかのように龍が描かれる。龍に変化した孔明が、自軍を守るという捉え方は、ごく日本的な発想と言えよう。後藤家の龍図金具を拵に用いるのも、刀身に龍の彫刻を施すというのもこれに通じる。

五丈原の仲達図鐔 奈良直喜 Naoyoshi Tsuba

2013-06-03 | 
五丈原の仲達図鐔 奈良直喜


五丈原の仲達図鐔 奈良直喜造

 この鐔の写真は、実はまったく別の資料を探している際に見つけた。先に紹介した奈良直喜の五丈原図鐔とは別の機会に扱った作であり、画題が分らないでいた。それが故に、三国志で画題を探した際にも、記憶になかったものだから写真があることも忘れていた。だが、ふっとこの写真を見つけたとき、先の五丈原図鐔に連続している場面であることがすぐさま理解できた。揃金具として製作されたものに間違いなく、この鐔の馬上の人物は司馬仲達に他ならない。