〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 12

2018-09-02 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
 「特殊主義―遂行」という価値軸

 本書の構造―機能主義社会学の概念図式を用いた説明によれば、前近代の宗教倫理による精神が社会を合理化していった過程では、西欧におけるプロテスタント・キリストのもとでの「普遍主義―遂行」というタイプの価値軸に対して、日本においては伝統的日本宗教による「特殊主義―遂行」という別のタイプの価値軸が主要な原動力となったとされている。
 
 家族であれ、藩であれ、全体としての日本であれ、当該集団の構成メンバーの一人が属しているのは、特殊な体系ないしは集合体である。これらに献身することが、真理とか正義とかに対するような普遍主義的献身よりも優先する傾向をもつ。(五四頁)

 この「特殊主義―遂行」とは、上記の政治価値に対応した中心価値の方向性を表したものであり、これも頻出する鍵概念として非常に重要だが、私たち一般読者にとって一見して意味不明の専門用語になっているのは、ここでも訳語の側に問題があると思われる。特殊主義―遂行の原語がparticularism‐performanceであり、この「特殊主義」はuniversalism=普遍主義の対義であることからすれば、むしろ「個別集団主義―業績本位」とでも意訳するのが適切であっただろう(以下では言い換えずに用いる。なお、ここではいわゆるパターン変数の二項対立図式が用いられているが、本書の大筋の読解には特にその知識は要さない)。
 本書の叙述に即して理解すれば、プロテスタントの普遍主義―遂行が「神のもとでの万人普遍の原理に基づき、宗教的使命として、人々が世俗の天職に奉仕する」といったものであったのに対し、とりわけ日本で顕著だったという特殊主義―遂行とは、「特定の集合体とその上位者との関係において、宗教的使命にまで高められた忠誠の表現として、人々が自己の職分に献身する」といったタイプの価値軸である。つまり特殊主義―遂行とは、「忠誠」と「没我的献身」の中心価値の、社会学的に抽象化された概念と言ってよいと思われる。
 一般的には、特定集団に奉仕する特殊主義に対して全人類に向けた普遍主義のほうがより包括的で高度であり、その意味で比較してよい・正しい・優れたものとされるが、本書では単に分析としてだけではなく、社会の近代化・合理化に資する「力」として、価値的な上下ではなく、ただタイプの区別として並列に扱われていることに注目する必要がある。


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