サングラハ教育・心理研究所の岡野守也先生のブログから今回も記事を転載したい。
異常気象の頻発で地球環境の急激な変動を皆が実感するようになった現在だが、それに対する世間さらには世界の反応があまりに鈍いのはみなさんもお気づきのとおりと思う。
というか、その「鈍さ」について現にそのような日常性に生きている者として、にもかかわらず他人事のように語るとしたらそれは偽善にすぎない。そうした鈍さが自分の中にあるのもはっきりと感じるのだから。日常に埋没している限り誰もが多かれ少なかれ同様のはずである。
それは唯識によるなら自己保身の心、自我実体視の心ということになるだろう。次世代以降の子供たちにすべてのツケを払わせようとしているのだから、我々の営む産業社会は明らかに錯覚・病理・罪悪のもと成り立っているとしか言いようがない。
そうはいってもそれでは何も語れなくなってしまう。少なくとも偽善は自覚して書くこととしよう。
下記の記事によれば、早くも70年代から近代産業社会の限界としての現在の危機を予測し警鐘を鳴らしていたグループが存在するのである。
また、環境問題についてそのころから警鐘を鳴らし、2000年代初頭の段階でスウェーデン型の緑の福祉国家というその対応の指針まで見通していた岡野先生のような人にすれば、この十数年にわたるあまりの「鈍さ」は残念な限りであっただろう。
ぜひとも多くの人がそのメッセージを受け取られることを望むものである。
******************************************
また大きな台風が日本列島に接近しています。
自分のところもですが、特に豪雨被害に遭われたばかりの地域にまた豪雨ということにならないよう、被害が最少であることを祈るばかりです。
異常気象が続き、どんどん深刻化しているようで、非常に心配です。
短期的な対処はもちろん必要ですが、この深刻な傾向に対する根本的な対応をする必要があると思います。
以下は、2006年8月30日の「全体状況は悪化しているが希望もある!」というブログ記事の再録です。
ほぼそのままお読みいただきたいと思い、再録しましたが、2つだけコメントしておきます。
①経済と福祉と環境のバランスを目指してみごとな方向付けをしてきたスウェーデン・北欧諸国も、難民問題では苦しんでいるようで、なかなか現実政治の世界でヒューマニズムの理想を実現するのは難しい、と改めて感じさせられています。
②メキシコ湾流が2010年頃止まるかもしれないという予想は、幸いまだ当たっていませんが、危険が去ったわけではないようです。
*
ここで確認を共有したいのですが、すでに60年代半ばに警告はあったし、さまざまな人やグループが誠実で真剣な努力を重ねてきたことはまちがいありません。
しかし、地球環境は全体としては悪化しています。まず、このことをはっきり認識しなくてはいけないと思います。
お話ししてきたように、最新のデータを見ても、全体としての地球環境はさらに悪化するばかりで、近い将来での改善の見込みは立っているようには感じられません。拾っていくと目の前が真っ暗になりそうな話ばかりです。
さまざまな真剣で誠実な努力が、悪化の速度を遅くするうえで大きな貢献をしたことは確かですし、一生懸命やってこられた方にケチをつけようという気持ちはまったくありません。しかし、冷静にみると、にもかかわらず全体状況はあきらかに悪化しているのです。
かつて私の研究所で、大井玄先生(元国立環境研究所所長)に講座をもっていただいて、1960年代には世界で4番目の面積があったアラル海――カスピ海の東にあり、カザフスタンとウズベキスタンの国境にまたがっています――が干上がってなくなりつつあることを、現場で見てこられた体験を通して報告していただきました。
また、大井先生からコピーをいただいたペンタゴン(アメリカ国防省)発表のレポート(鳥取環境大学環境問題研究会訳)によると、温暖化→氷河の溶解と降水量の増大→北大西洋の淡水化→暖流であるメキシコ湾流が止まる→ヨーロッパのシベリア化→食糧不足に伴う世界規模の政治の不安定化、紛争の危険が増大していることが予測されています。しかもメキシコ湾流が止まってしまうのは、早ければ2010年頃かもしれないというのです。
深刻にならざるをえない事例は、この他、挙げていけば無数にあります。そうした状況に対して、「今、多くの環境学者たちは非常な無力感に陥っています。私もそういう気持ちがします」と大井先生はいっておられました。日本でもっとも豊富で正確なデータに接する立場におられた方の言葉は、非常に重いものがあります。
しかし、それに対して筆者は、あえて3つのことを申し上げてきました。
1つは、「無力感」に陥る気持ちは十分、十二分にわかりますが、でも論理的・正確に捉えると、力が「ほとんどない」は、「まったくない」ではなく、「すこしはある」ことであり、そのことをちゃんと確認すれば、まず無力感から「微力感」くらいにはなるはずではないか、ということです。論理療法的に言えば、「無力感」は、非論理的な考え方から生まれた不適切な否定的感情ということになるでしょう。
そして、私はいつもいうのですが、「微力でも協力すれば強力になる」のではないでしょうか。
さらに2つめは、それだけを集中的に見れば「ある」、つまり環境問題解決のための力や方策はまちがいなくあるのであり、しかも確率的には―つまり比較すると―きわめて低いとしても、潜在的には大きな可能性を秘めていると考えることもできるのであり、私たちはその可能性に賭けるほかないのではないか、ということです。
「大きくて自分一人の力ではどうすることもできない」と感じられるような危機(あるいはその情報)に直面した時、私たちが取りうる態度の選択肢がいくつかあり、どんなに小さくてもあるのならその可能性に賭けるというのが最善の選択だ、と筆者は考えています。
それに関わって、筆者がこれまでにご紹介してきたような危機のデータを知ってから、それをまわりの方に伝えようとして受けた反応には、典型的に次のようなものがありました。
①「そういう話を聞いていると気持ちが暗くなるだけだから、聞きたくありません」。
これは、非常に多く見られるもので、無視・逃避、あるいは抑圧という態度です。
②「今までもいろいろ大変だといわれてきたけど、結局どうにかなってきたじゃないですか。今回もおなじじゃないんですか?」。
これは、危機の過小評価、たかをくくるという態度です。
③「個人でどうにかできるようなことじゃないでしょう。人類が滅びるとしても、それはそれでしかたないんじゃないですか?」。
これは諦め、責任放棄という態度です。
④「何かしたいんですが、私に何ができるかわからないんです」。
これは、問題意識を持っていながらまだ解決の方向性が見つからないという状態の場合もありますが、あえて率直にいうと、思考停止、勉強不足にすぎないこともあります。
⑤「私は環境には気を使っていて、~をやっています。これ以上、何をすればいいんですか」。
これは、いわゆる「環境派」の市民の方によく見られるもので、環境問題は、近代という時代、近代産業主義の行き詰まりを示しているということ、地球規模の問題だという時間と空間のスケールへの認識不足であることが多いのではないでしょうか。
いうまでもありませんが、これらのどの態度も問題解決にはつながらない、と筆者には思えます(こういうことをはっきりいうから、嫌われるんでしょうね、あーあ)。
「大きくて」=地球規模で、「私一人の力ではどうすることもできない」=個人は微力なのなら、「地球規模の影響力のある強力な人間集団を組織して解決に当たる」というのが、唯一ありうる問題解決への道だと思います。これは、理の当然だと考えますが、いかがでしょう。
では、地球規模の影響力のある強力な人間集団はあるでしょうか。『サングラハ』第75号(2004年5月)では、以下のように考えていました(とても残念ながら情報不足=勉強不足でした)。
*
…資本主義経済―だけでなく社会主義経済を含む近代産業主義経済―には、一時的かつ局地的に―つまり近代、先進国で―貧困を克服できたというプラス面はあっても、原理的にいって、エコロジカルに持続可能な社会を構築できないという決定的な限界があると思われます。(中略)
まず環境破壊について簡単に言えば、原因は近代の産業主義にあると思われます。そして、資本主義国では産業は国に所属した私企業が担っており、社会主義国では国家が産業をコントロールすることになっています。つまり、全体としての産業主義を変更することのできるのは国家だけであって、民間のエコロジー運動でもなければ国連の環境機関でもありません。
もちろん国家主導でやったとしても、近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行するのは、きわめて困難です。しかし、他に道がないとしたら、その困難な道を志向するほかない、と筆者は思うのです。(中略)
筆者は、これまでも公言してきたとおり、まず日本を自然成長型文明を志向する国家にしたい、そしてそういう日本が世界のオピニオン・リーダーとして世界に働きかけることによって、世界全体を自然成長型文明へと移行・変容させたい、と考えています(略)。
これは、どんなに大げさな夢のように聞こえても、ほとんど不可能なくらい困難に見えても、ほんとうによりよい世界を望むのなら、他には考えようがないのではないか、と思っています。
*
しかし、幸いなことに、「近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行する」という課題に、国家単位で取り組んでいる国があったのです。
その代表がスウェーデンですが――繰り返し紹介してきましたが、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)をお読みになっていない方はできるだけ早くお読みになることを強くお勧めします――それだけではなく、北欧諸国はみな「持続可能な社会」を政府主導で目指しているようです。
それは、北欧諸国にとって、必ずしも「大げさな夢」でも「ほとんど不可能なくらい困難」でもなく、今実現しつつある目標なのです。
そして、特にスウェーデンは、これまでも国連の環境政策に大きな影響を与えてきましたが(例えば、1972年、スウェーデン・ストックホルムでの国連環境会議開催!)、さらにEU加盟後はEU全体の環境政策にも大きな影響を与えつつあります。
環境(と経済と福祉の巧みなバランスの取り方)に関して、スウェーデンはこれからますます、世界のオピニオン・リーダーになってくれることでしょう。
スウェーデンの現状を知ったことは私にとって、「希望ある衝撃」でした。
その衝撃が、「日本も〈緑の福祉国家〉(=エコロジカルに持続可能な国家)にしたい! スウェーデンに学びつつ」のシンポジウムの企画につながっています。
まず日本がしはじめたのではなく、「日本も…したい!」であるのは、日本人としてはちょっとだけ残念ですが、そんなことにこだわっている場合ではありませんね。
どこの国が掲げたのであれ、希望は希望です。
異常気象の頻発で地球環境の急激な変動を皆が実感するようになった現在だが、それに対する世間さらには世界の反応があまりに鈍いのはみなさんもお気づきのとおりと思う。
というか、その「鈍さ」について現にそのような日常性に生きている者として、にもかかわらず他人事のように語るとしたらそれは偽善にすぎない。そうした鈍さが自分の中にあるのもはっきりと感じるのだから。日常に埋没している限り誰もが多かれ少なかれ同様のはずである。
それは唯識によるなら自己保身の心、自我実体視の心ということになるだろう。次世代以降の子供たちにすべてのツケを払わせようとしているのだから、我々の営む産業社会は明らかに錯覚・病理・罪悪のもと成り立っているとしか言いようがない。
そうはいってもそれでは何も語れなくなってしまう。少なくとも偽善は自覚して書くこととしよう。
下記の記事によれば、早くも70年代から近代産業社会の限界としての現在の危機を予測し警鐘を鳴らしていたグループが存在するのである。
また、環境問題についてそのころから警鐘を鳴らし、2000年代初頭の段階でスウェーデン型の緑の福祉国家というその対応の指針まで見通していた岡野先生のような人にすれば、この十数年にわたるあまりの「鈍さ」は残念な限りであっただろう。
ぜひとも多くの人がそのメッセージを受け取られることを望むものである。
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また大きな台風が日本列島に接近しています。
自分のところもですが、特に豪雨被害に遭われたばかりの地域にまた豪雨ということにならないよう、被害が最少であることを祈るばかりです。
異常気象が続き、どんどん深刻化しているようで、非常に心配です。
短期的な対処はもちろん必要ですが、この深刻な傾向に対する根本的な対応をする必要があると思います。
以下は、2006年8月30日の「全体状況は悪化しているが希望もある!」というブログ記事の再録です。
ほぼそのままお読みいただきたいと思い、再録しましたが、2つだけコメントしておきます。
①経済と福祉と環境のバランスを目指してみごとな方向付けをしてきたスウェーデン・北欧諸国も、難民問題では苦しんでいるようで、なかなか現実政治の世界でヒューマニズムの理想を実現するのは難しい、と改めて感じさせられています。
②メキシコ湾流が2010年頃止まるかもしれないという予想は、幸いまだ当たっていませんが、危険が去ったわけではないようです。
*
ここで確認を共有したいのですが、すでに60年代半ばに警告はあったし、さまざまな人やグループが誠実で真剣な努力を重ねてきたことはまちがいありません。
しかし、地球環境は全体としては悪化しています。まず、このことをはっきり認識しなくてはいけないと思います。
お話ししてきたように、最新のデータを見ても、全体としての地球環境はさらに悪化するばかりで、近い将来での改善の見込みは立っているようには感じられません。拾っていくと目の前が真っ暗になりそうな話ばかりです。
さまざまな真剣で誠実な努力が、悪化の速度を遅くするうえで大きな貢献をしたことは確かですし、一生懸命やってこられた方にケチをつけようという気持ちはまったくありません。しかし、冷静にみると、にもかかわらず全体状況はあきらかに悪化しているのです。
かつて私の研究所で、大井玄先生(元国立環境研究所所長)に講座をもっていただいて、1960年代には世界で4番目の面積があったアラル海――カスピ海の東にあり、カザフスタンとウズベキスタンの国境にまたがっています――が干上がってなくなりつつあることを、現場で見てこられた体験を通して報告していただきました。
また、大井先生からコピーをいただいたペンタゴン(アメリカ国防省)発表のレポート(鳥取環境大学環境問題研究会訳)によると、温暖化→氷河の溶解と降水量の増大→北大西洋の淡水化→暖流であるメキシコ湾流が止まる→ヨーロッパのシベリア化→食糧不足に伴う世界規模の政治の不安定化、紛争の危険が増大していることが予測されています。しかもメキシコ湾流が止まってしまうのは、早ければ2010年頃かもしれないというのです。
深刻にならざるをえない事例は、この他、挙げていけば無数にあります。そうした状況に対して、「今、多くの環境学者たちは非常な無力感に陥っています。私もそういう気持ちがします」と大井先生はいっておられました。日本でもっとも豊富で正確なデータに接する立場におられた方の言葉は、非常に重いものがあります。
しかし、それに対して筆者は、あえて3つのことを申し上げてきました。
1つは、「無力感」に陥る気持ちは十分、十二分にわかりますが、でも論理的・正確に捉えると、力が「ほとんどない」は、「まったくない」ではなく、「すこしはある」ことであり、そのことをちゃんと確認すれば、まず無力感から「微力感」くらいにはなるはずではないか、ということです。論理療法的に言えば、「無力感」は、非論理的な考え方から生まれた不適切な否定的感情ということになるでしょう。
そして、私はいつもいうのですが、「微力でも協力すれば強力になる」のではないでしょうか。
さらに2つめは、それだけを集中的に見れば「ある」、つまり環境問題解決のための力や方策はまちがいなくあるのであり、しかも確率的には―つまり比較すると―きわめて低いとしても、潜在的には大きな可能性を秘めていると考えることもできるのであり、私たちはその可能性に賭けるほかないのではないか、ということです。
「大きくて自分一人の力ではどうすることもできない」と感じられるような危機(あるいはその情報)に直面した時、私たちが取りうる態度の選択肢がいくつかあり、どんなに小さくてもあるのならその可能性に賭けるというのが最善の選択だ、と筆者は考えています。
それに関わって、筆者がこれまでにご紹介してきたような危機のデータを知ってから、それをまわりの方に伝えようとして受けた反応には、典型的に次のようなものがありました。
①「そういう話を聞いていると気持ちが暗くなるだけだから、聞きたくありません」。
これは、非常に多く見られるもので、無視・逃避、あるいは抑圧という態度です。
②「今までもいろいろ大変だといわれてきたけど、結局どうにかなってきたじゃないですか。今回もおなじじゃないんですか?」。
これは、危機の過小評価、たかをくくるという態度です。
③「個人でどうにかできるようなことじゃないでしょう。人類が滅びるとしても、それはそれでしかたないんじゃないですか?」。
これは諦め、責任放棄という態度です。
④「何かしたいんですが、私に何ができるかわからないんです」。
これは、問題意識を持っていながらまだ解決の方向性が見つからないという状態の場合もありますが、あえて率直にいうと、思考停止、勉強不足にすぎないこともあります。
⑤「私は環境には気を使っていて、~をやっています。これ以上、何をすればいいんですか」。
これは、いわゆる「環境派」の市民の方によく見られるもので、環境問題は、近代という時代、近代産業主義の行き詰まりを示しているということ、地球規模の問題だという時間と空間のスケールへの認識不足であることが多いのではないでしょうか。
いうまでもありませんが、これらのどの態度も問題解決にはつながらない、と筆者には思えます(こういうことをはっきりいうから、嫌われるんでしょうね、あーあ)。
「大きくて」=地球規模で、「私一人の力ではどうすることもできない」=個人は微力なのなら、「地球規模の影響力のある強力な人間集団を組織して解決に当たる」というのが、唯一ありうる問題解決への道だと思います。これは、理の当然だと考えますが、いかがでしょう。
では、地球規模の影響力のある強力な人間集団はあるでしょうか。『サングラハ』第75号(2004年5月)では、以下のように考えていました(とても残念ながら情報不足=勉強不足でした)。
*
…資本主義経済―だけでなく社会主義経済を含む近代産業主義経済―には、一時的かつ局地的に―つまり近代、先進国で―貧困を克服できたというプラス面はあっても、原理的にいって、エコロジカルに持続可能な社会を構築できないという決定的な限界があると思われます。(中略)
まず環境破壊について簡単に言えば、原因は近代の産業主義にあると思われます。そして、資本主義国では産業は国に所属した私企業が担っており、社会主義国では国家が産業をコントロールすることになっています。つまり、全体としての産業主義を変更することのできるのは国家だけであって、民間のエコロジー運動でもなければ国連の環境機関でもありません。
もちろん国家主導でやったとしても、近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行するのは、きわめて困難です。しかし、他に道がないとしたら、その困難な道を志向するほかない、と筆者は思うのです。(中略)
筆者は、これまでも公言してきたとおり、まず日本を自然成長型文明を志向する国家にしたい、そしてそういう日本が世界のオピニオン・リーダーとして世界に働きかけることによって、世界全体を自然成長型文明へと移行・変容させたい、と考えています(略)。
これは、どんなに大げさな夢のように聞こえても、ほとんど不可能なくらい困難に見えても、ほんとうによりよい世界を望むのなら、他には考えようがないのではないか、と思っています。
*
しかし、幸いなことに、「近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行する」という課題に、国家単位で取り組んでいる国があったのです。
その代表がスウェーデンですが――繰り返し紹介してきましたが、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)をお読みになっていない方はできるだけ早くお読みになることを強くお勧めします――それだけではなく、北欧諸国はみな「持続可能な社会」を政府主導で目指しているようです。
それは、北欧諸国にとって、必ずしも「大げさな夢」でも「ほとんど不可能なくらい困難」でもなく、今実現しつつある目標なのです。
そして、特にスウェーデンは、これまでも国連の環境政策に大きな影響を与えてきましたが(例えば、1972年、スウェーデン・ストックホルムでの国連環境会議開催!)、さらにEU加盟後はEU全体の環境政策にも大きな影響を与えつつあります。
環境(と経済と福祉の巧みなバランスの取り方)に関して、スウェーデンはこれからますます、世界のオピニオン・リーダーになってくれることでしょう。
スウェーデンの現状を知ったことは私にとって、「希望ある衝撃」でした。
その衝撃が、「日本も〈緑の福祉国家〉(=エコロジカルに持続可能な国家)にしたい! スウェーデンに学びつつ」のシンポジウムの企画につながっています。
まず日本がしはじめたのではなく、「日本も…したい!」であるのは、日本人としてはちょっとだけ残念ですが、そんなことにこだわっている場合ではありませんね。
どこの国が掲げたのであれ、希望は希望です。
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