〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 7

2018-05-12 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
 研究方法について(承前)

 ところで先に触れたように、本書では過去の日本人の中に生きていた内面的諸価値が値引きなく扱われている。つまり著者は人間にとっての価値の実在を疑ってはいない。今一つ押さえておきたいのは、価値相対主義が自明化した現代にあって、その点を再検討しなければ、本書の洞察の核心部分の理解を妨げられかねないことである。価値の存在が結局相対的で最終的に無意味な幻想にすぎないのなら、本書の分析はありもしない土台の上に立って無意味なことを語っているにすぎないことになる。たしかに、それこそ文字通りの画餅というものだろう。
 本書では、「われわれは、できるだけ、文献からの引用を通して、徳川時代の日本人自身が、自ら語るのを聞くことにしよう」(三四頁)とあるとおり、歴史上の統計・数値的データは全く登場せず、外面の制度、事件、事物等は、ただ背景として語られるだけである。こうしたいわば古典的な人文学の方法が、しかし価値次元の探究の本来的で正当な姿勢であったことが、現在の私たちは四象限の枠組みから新たに見ることができる。
 例えば、情報技術が日常と融合した現在に到って、私たちにとって人や社会の内面象限を外面象限の諸関係に還元することのカテゴリー・エラーが直感的に理解しやすくなったのは、その還元主義の誤りが、コンピューター上の仮想空間をハードウェアや情報インフラ、そしてそこを走るデジタル・ビットに還元するのが全くのナンセンスであるのによく似ていることにある。そこにはたとえ仮想であっても還元不能のリアリティがあるとしか言いようがない。もちろん同時に、それが単なるアナロジーにすぎないことに注意する必要があるが(仮に人工知能が極限まで発達しても、人間の意識が最重要であることには変わりないだろう。それは例えば、自動車が百年間進化した結果時速何百キロを達成し、またコンピューターによる全自動運転を実現しようと、それが人間の二足歩行による移動能力を相も変わらず代替できないのにいくらか似ている)。
 にもかかわらず、外面象限への還元主義はいまだ支配的であると見える。世界をモノとそのシステムだけに還元する見方の典型は、例えば鬼頭宏氏の疑いなく誠実で優れた、しかし同時に根本的な違和感を禁じ得なかった、本書とじ時代を扱った『文明としての江戸システム』の歴史観に見たとおりである。その根底にあるのは、文明という四象限にわたる現象を、ただ外面のモノとシステムだけに折りたたんで顧みない、ある意味無邪気ともいうべき単純明快な割り切り、言い換えれば時代の主流に棹差した傲慢な還元主義であった。


コメントを投稿