(承前)
その「戦果」は、劣等文化として自国を語らないではいられなかった戦後の日本知識人の強度の条件反応に、ストレートに結び付くと見える。それについて、例えば先に見た渡辺京二氏がその偽善性を繰り返し強調し、批判して止まないところであった。徳川時代とは抑圧的で差別的で貧窮の極みにあったはずだと決めつけた、奇怪な「江戸時代暗黒史観」の淵源はそこにあったのだろう。これは今なお私たちの社会心理の根深いコンプレックス、率直に換言すれば深層に巣くうガンとなっている。
生年でいえばベネディクトから四十年も後の世代の著者による本書は、これから見るように異文化を扱うものとして対等・公平な姿勢で一貫しており、日本人論としてもより妥当だと思われる。何より参照すべき日本の研究が「暗黒史観」一色であったろうその当時に、すでに徳川時代を近代化を準備し近代に連続する時代として正当に評価していたことに、透徹した眼力が感じられる。だからこそ本書は、自国の過去のことなら何でも憎悪と侮蔑をもって語らなければ「進歩的」ではないとされた戦後日本の言語空間では、その真意がまともに受け入られることはなかったのであろう。日本人がかつて抱いていた価値体系の核心にこれほどまでに切り込み、かつそれを尊重し公平に扱った優れた著作が、当の日本でこれまで影のようになって一般にほとんど注目されてこなかったこと(九六年刊の岩波文庫版は、二十年後の時点で第五刷)には、こうした日本側の事情があったと考えられるのである。
研究方法について
本書では、根本的にはM・ヴェーバーの思想に依拠して日本の近代化を可能にした集団的志向の解析がなされており、その方法には、師であるT・パーソンズの構造―機能主義の概念図式や専門用語(「AGIL図式」や「類型(パターン)変数」等)が駆使されている。しかしそれらの思想や概念はあくまで手段として用いられており、全体のメッセージは、社会学の知識がなくとも十分に理解できるものである。むしろ、ヴェーバーやパーソンズ以前に、もともと著者の問題意識は、学問という枠を超えた「近代化=人類の進歩」という普遍的なところにあり、さらにその根底には宗教の本質の探求心があったことがうかがわれる。特に「パウル・ティリッヒにしたがって、宗教を、究極的関心にかんする人間の態度と行為と定義する」(四二頁)とわずか一文だけ触れているように、その洞察の根本にはP・ティリッヒの重要な影響があると見られるが、残念ながらここではそれを論ずる用意がない。
いずれにせよ、著者は三十年後の再版に当たり「私がこの研究で強調したのは、宗教信条と行為が社会的、経済的状態を近代化するという点にあった」(三〇頁)として、細かい事実の訂正は要するとしても、その方法と成果自体は現在もも全く適切であると、自負をもって述べている。
その「戦果」は、劣等文化として自国を語らないではいられなかった戦後の日本知識人の強度の条件反応に、ストレートに結び付くと見える。それについて、例えば先に見た渡辺京二氏がその偽善性を繰り返し強調し、批判して止まないところであった。徳川時代とは抑圧的で差別的で貧窮の極みにあったはずだと決めつけた、奇怪な「江戸時代暗黒史観」の淵源はそこにあったのだろう。これは今なお私たちの社会心理の根深いコンプレックス、率直に換言すれば深層に巣くうガンとなっている。
生年でいえばベネディクトから四十年も後の世代の著者による本書は、これから見るように異文化を扱うものとして対等・公平な姿勢で一貫しており、日本人論としてもより妥当だと思われる。何より参照すべき日本の研究が「暗黒史観」一色であったろうその当時に、すでに徳川時代を近代化を準備し近代に連続する時代として正当に評価していたことに、透徹した眼力が感じられる。だからこそ本書は、自国の過去のことなら何でも憎悪と侮蔑をもって語らなければ「進歩的」ではないとされた戦後日本の言語空間では、その真意がまともに受け入られることはなかったのであろう。日本人がかつて抱いていた価値体系の核心にこれほどまでに切り込み、かつそれを尊重し公平に扱った優れた著作が、当の日本でこれまで影のようになって一般にほとんど注目されてこなかったこと(九六年刊の岩波文庫版は、二十年後の時点で第五刷)には、こうした日本側の事情があったと考えられるのである。
研究方法について
本書では、根本的にはM・ヴェーバーの思想に依拠して日本の近代化を可能にした集団的志向の解析がなされており、その方法には、師であるT・パーソンズの構造―機能主義の概念図式や専門用語(「AGIL図式」や「類型(パターン)変数」等)が駆使されている。しかしそれらの思想や概念はあくまで手段として用いられており、全体のメッセージは、社会学の知識がなくとも十分に理解できるものである。むしろ、ヴェーバーやパーソンズ以前に、もともと著者の問題意識は、学問という枠を超えた「近代化=人類の進歩」という普遍的なところにあり、さらにその根底には宗教の本質の探求心があったことがうかがわれる。特に「パウル・ティリッヒにしたがって、宗教を、究極的関心にかんする人間の態度と行為と定義する」(四二頁)とわずか一文だけ触れているように、その洞察の根本にはP・ティリッヒの重要な影響があると見られるが、残念ながらここではそれを論ずる用意がない。
いずれにせよ、著者は三十年後の再版に当たり「私がこの研究で強調したのは、宗教信条と行為が社会的、経済的状態を近代化するという点にあった」(三〇頁)として、細かい事実の訂正は要するとしても、その方法と成果自体は現在もも全く適切であると、自負をもって述べている。
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