〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 8

2018-05-15 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
 こうした現在圧倒的な主流を占める外面還元主義の根底には、自覚されざる「言葉への不信」があると見えてならない。言葉はただ世界を表現し報告するだけで、それ以上の「力」はない。だから言葉が担う価値とは結局幻想にすぎない――しかしその判断もまた、どこまでも言葉に依っているのである。自己矛盾の迷路に嵌まり込み、盲点と化した根深い信念がここにある。
 価値そのものの存在を疑わない本書の叙述から逆算することで、それが書かれた二十世紀中期から現在までに、「言葉への不信」を通じた世界の平板化、価値領域の拒絶、そして外面象限の論理・条理の内面象限へのとめどもない侵食が、極度に進行していることが実感される。
 しかしいまや宇宙百三十八億年の歴史の全体像が明らかとなり、そこに進化という歴史の方向性が巨視的に確認できるようになった。それが新たなコスモロジーの合意を可能にし、それをもとに価値の問題を共通の地盤で論じ得る時代になっていることは、本誌読者には周知のとおりである(岡野守也『コスモロジーの心理学』青土社や、本誌各号を参照のこと)。私たちはすでに、外面還元主義も価値相対主義も、過去の錯覚として却下してよい時代に到達しているのであった。
 大げさなようだが、こうした人類普遍のものとなりうるコスモロジーの再構築により、人間的価値を正面から扱った本書のような仕事の正当な評価が可能になったと言いたい。人間の内面=意識とは宇宙進化の歴史が形成してきたものであり、「リアル」な外面のシステムが見せる弱弱しい「幻想」には還元しえないものである。
 本書は前近代という時代的制約の中、江戸期日本文明という条件のもとで、人間の意識の中核をなす価値体系がどのように表れたのかを明らかにしている。そしてその解明の方法は、当然ながら価値を担う言葉そのものによらなければならなかった。価値の存在、すなわち「言葉による信念の力」を問題とする研究方法が、内面領域を扱うものとして再び正当性を取り戻すのである。
 かくして本書は、私たちの先祖であるかつての日本人の内面に生きていた価値体系の核心を取り出すことに、後述の限界の中で、しかし間違いなく成功している。果たして、本書はそれをどのように描き出しているだろうか。
 以上、前置きがかなり長くなったが、しかし本書を読み解くにあたり、私たち読み手の側にとって現に自明化している諸々の条件付けが解除ないし相対化されなくては、その真意を誤読する恐れがあることは何度でも指摘しておきたい。それらのいわば「壁」を突破して、以下に本書が何を語っているかを見ていきたいと思う。


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