〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

講座「『摂大乗論』全講義」第三回目 その2

2017-12-20 | サングラハ教育・心理研究所関係
 このアサンガ著「摂大乗論」をはじめとする唯識の洞察とは、ブッダ以来数百年にわたる思想的発展であるとのことで、その時間の長さに驚かされる。
 今回の意=マナスの個所で、アサンガは阿含経典の言葉も引用しており、経典がブッダの言葉を反映しているのだとすれば、ブッダも同じ事実を見ていたことになるのだろう。
 しかし思想としては原始仏教の段階では明確になっておらず、岡野先生によればこの点で世界思想史上の画期と言ってよいほどの発展があるとのことであった。思想の進化とは数世紀を単位とするものなのだ。

 先に転載したとおり、研究所の別プログラム(東京では土曜・赤坂見附)では、いま、現代科学がこれまでの科学的コスモロジーを含んで越える新たなコスモロジーを開くに至っていることが中心的テーマとなっている。
 新たなと言ったが、それはヘッケルのエコロジーから150年、アインシュタインの相対性理論から100年以上経つものである。しかし残念ながら、それは世界の、特に指導者の常識には全くなっていない。
 それも、この進化の時間単位を考えれば当然なのかもしれない。しかし人類が持続するためには進化は加速しなければならないし、実際加速することは宇宙の歴史が示すとおりである。

 重要なのは、悪だけでなく、善にも無明は働いているというアサンガの指摘だと思う。「摂大乗論」では無明=自他の実体視とは、イコール善悪ではないことが把握されている。
 確かに、私たち普通の人間は善をなすにも「自分が」善き行為をすることにこだわっている。そしてそこから、いわゆる偽善と言われる事態が生じるのだと思う。私たちがある行為を偽善であると直感するとき、言葉では見えにくかった何が「偽」なのかが、この洞察からはじめて見えてくる。

 このように分離意識・自他の実体視とは、それ自体は現象として善くも悪くもない。だからわれわれはまずは自分の偽善性等の限界に正直であってよいし、そう認めなければそれこそ偽善というものであろう。
 しかしこれを越えないことには、狭い限界のまま、「自分」が正しい思い込んでいることをするだけに一生は終わってしまう。そういうアサンガのメッセージが述べられているのだと思った。

 こうしてアサンガが、いわゆる「小乗」とされた勢力に反論するための論拠を積み重ねているのは、岡野先生の解説によれば、決して他の宗教的見解を党派心的に批判・非難するといった類いのものではないことが理解できる。
 それは、開祖・ブッダの境地からすれば、仏教とは明らかに人類が次のステップに行くための普遍思想かつ方法論であり、それは自らの救いのみを求める人には必要ないものであり、自分・自分たちだけの救いを求めることは、本質的にブッダが伝えようとした仏教の精神に悖るものである、という正当な主張だったのだ。

(続く)

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