〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

講座「『摂大乗論』全講義」第三回目 その3

2017-12-22 | サングラハ教育・心理研究所関係

 要は目標として何を目指すか、自分個人の救いなのか、そうではなく自分を含む一切衆生の救済なのか。そこが全く違うのだとアサンガは主張しているのである。

 仏教に共通する瞑想技法としての禅定とは、確かに個人の救いの技法でもあるが、本来自己と世界をよりよくすることを目指す菩薩の修業なのだという文脈で岡野先生は解説していた。
 確かにテキストを素直に読む限り、それが著者・アサンガの真意であることは間違いないと見える。
 仏教を名乗る以上は、そこまでを目指さなければブッダの真意に反する。そのことをアサンガは論理と瞑想を突き詰めて述べているのである。

 この箇所では、瞑想の高い境地でもまだ解消されていない「我」ということが繰り返し言われている。
 ここで漢訳特有の誤解が生じるが、「我」とは日本でよく言われる「我を張らない」とか「無我になれ」とかというような「自分」の意味ではなく、自分も含めたすべてのものについて永遠で分離独立した実体だととらえること、そういう意味での「実体」=アートマンに「我」という字を当てたに過ぎないのだとのこと。
 日本仏教は大乗仏教だとされているが、少なくともインド大乗という原点からすれば、相当な誤解にもとずく日本型アプリケーションが日本仏教だということになるだろう。

 アサンガそして大乗は、単に自分を無くするという意味での亡我をすればよいのではなく、そればかりか亡我=エクスタシーにすら人はこだわってしまうのであって、そうしたあり方は仏教の瞑想修業としてははなはだ不適切・不十分である、ということを言葉を変えて繰り返し繰り返し語っている。
 ともかく修業によってこだわりを越えたい=救われたいのであれば、それは私・私たちを含んで越えて、すべての衆生を救うくらいの覚悟と目標が必要なのだ、ということが語られている。

 深遠な論書の内容を門外漢にもわかりやすく語られることで、アタマではそう理解できたように感じる。
 古代的・インド的誇大妄想的とも受け取られかねない思想だが、そうではなくその先、単なる思想ではなくそれを実現するための実践修業の方法論が語られるのが、本講座が扱う『摂大乗論』であり、それを読みとくため、講座はこの先二・三年にもわたるとのこと。

 可能であれば引き続き報告していきたいと思う。

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