〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 5

2018-05-06 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
(承前)
 一方、本書はまさにその点で、日本人の勤勉のエートスを形づくったのが、日本宗教が営々と形成してきた中心価値体系にほかならなかったと、幾多の根拠を挙げて論証している。かくして、なぜ徳川時代に「文明としての江戸システム」が成立しえたのか、そして何がいかにして近代に連続したのか、鬼頭氏の歴史観ではブラックボックスとされていた歴史の動因が、本書によって初めて見えてくる。反対に、一九五〇年代の段階の本書では、鬼頭氏が示した「江戸システム」も「勤勉革命」も知られてはいなかった。「近代日本の文化的ルーツ」たる徳川時代が形成していた社会システムが、成熟した一つの高度な「文明」であったという著者が知り得なかった事実を、私たちは現在の研究成果から認識しうるのである。それは本書の洞察に新たな深みをもたらすものとなるであろう。

 日本における本書の受容について

 さらに指摘しておきたいのは、大戦後わずか十年、日米の死闘の記憶もまだ新しかったであろう時期に執筆された本書が、かつての敵の、なかんずく死闘を敢行せしめた力の根源を、きわめて公平に扱っていることである。
 本書と比較し、日本人論としてはるかにポピュラーなのは、言うまでもなくR・ベネディクト(一八八七―一九四七)の『菊と刀』(一九四六年)であろう。ある世代までの人は、例えば大学の教養課程で必読文献として扱われていたことを記憶されていることと思う。しかし、それが文化人類学の研究としていかにすぐれた業績であるにせよ、研究対象とされた当の日本人としては、その原型が日本本土侵攻が不可避と思われた対日戦最終段階の時期に、米国戦争情報局(OWI)での研究成果として成立していること(福井七子、二〇一二年)を見逃してはならなかったはずだ。それは何より、間近に迫った本土進攻―制圧―占領の作戦準備過程において、敵国民の心理分析を唯一の目的として成立しているのである。状況証拠からして、その性質は明らかだと言わなければならない。現在の目からすれば、それが戦後日本である種の「ご託宣」として恭しく戴かれ続けてきたこと自体に、いわば日本人自身による対日心理戦の永続的な内面化を象徴する意味があったと見えてならない――かくして、戦後日本人の心の深奥に「敵の視点」が埋め込まれた、と。
 占領期の「心理作戦」として、米国の最高レベルの意思決定によって徹底した検閲と情報操作が実行されたことは明らかだが(江藤淳『閉された言語空間』他)、それ以前の問題として、そもそも占領軍に被占領民を操作しようとする意図も行為もなかったとするのは、あまりにナイーブに過ぎるというものである。というよりも、思えば不可解なそのナイーブさこそが、巧みな思想操作によるものだったのではないか。占領軍にとって心理戦の必要は、それが正規作戦として特攻を徹底的に遂行し、「一億玉砕」をも呼号するような「異常な」敵国民だったならばなおさらであろう。


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