今日、京極夏彦の「死ねばいいのに」を読み終わりました。
渡来という青年が、殺された鹿島亜佐美の関係者から
彼女のことを聞き出す、というのが話の筋で
職場の上司、母親、アパートの隣人、恋人、などに
会って話を聞くわけですが
みんな亜佐美のことはさておき、
自らの恵まれない境遇と言い訳ばかり話すので
そんな彼ら渡来が「死ねばいいのに」と告げるのが
共通のパターンです。
題名のわりには中身はそれほど衝撃的でもなく
好きなタイプの話だったので苦痛なく読めました。
この小説は電子書籍として日本の新刊としては始めて
配信されたお話でもありますが
i-padでこれを読まれた方もいらっしゃることと思います。
紙の本のただの代わりとしては電子書籍は魅力的には思いませんが
これが音声で読んでくれるとか
その場面に応じた効果音が流れてくるなどの
付加価値がついてくれば、それはそれで面白いような気がしますが・・・
この小説のように関係者にインタビューして
一人の人物を浮き彫りにしていく方式は好きで
何がいいかってストーリーが分かりやすいって。
風景描写とか場面描写とか想像力がないので
ほとんど理解できないし
この人はこういうことを考えている、という思考描写に興味があるので
インタビュー形式は自ずとそれ中心にならざるをえないというか。
そこでAという人からは、あの人はとてもいい人でした。って
しかしBの人からは、あいつほどひどい人間はいない、とか
その人によって印象が違うのが面白いところです。
でもそれは作り話の中だけのお話じゃなくて
現実社会でもあり得ることで
それは人の多面性によるところが大きいのかなぁと思います。
「爆問学問」で野田秀樹が言っていましたが
人間って生まれてからずっと、演技して生きているというのは
本当にその通りだと思います。
暑かったら汗を流して、寒かったら体温を逃がさないように
身体が変化するのと同様に
そのシチューエーションで己を変化させていくのは当然だし
素の自分だけで生きていくのは、
体温調節ができない身体のように
病気に近いものではないでしょうか。
だから自分探しなんて全くもって意味ないし
たとえ自分が見つかったとしてそれで生きていくなんて
できるわけがありません。
よく切羽詰ったときにその人の地がでるといいますが
あれは演技している余裕がなくなるからです。
自分は緊張するときとか怒られたときとかに
ドラマのワンシーンのように演技していたいとよく思うんですけど
これが中々簡単そうで出来ません。
その「爆問学問」で野田秀樹の門下生みたいな人たちが出ていて
爆笑問題の太田が「君たちはたぶん(芝居だけで)食っていけないだろう」
って言っていて、それは自分も舞台を観に行く度、よく感じることで
他にもバイトとかしてやり過ごしているでしょうが
お金がないのはしょうがないとして
舞台を行う際は、中心キャストはほとんど名前が知られた人ばかりで
主役なんか一回も舞台をやったことがない人が
ポンと決まったりするのって本心ではどう思っているんだろうなぁ、って。
セリフも出番の数も全然違って、ギャラも当然違っていて
でも気楽に出来る芝居なんてないと思うんですよ。
4~50歳になって注目を浴びることが分かっているならば
頑張りようもありますが、不安だろうなぁ。
何か演技が上手い下手というより
キャラクター勝負みたいなところが強いようなきがするんですよね、
同じセリフでも古田新太がしゃべると必ずウケるというか
(別に古田新太が嫌いとか悪いとかではないです)
そうお客さんに刷り込ませるのも実力の内かと思いますが
そうするには主要キャストにつかないと一生無理ですよね。
あとその門下生たちにツイッターやっている人はいるか、って
聞いたら誰もやっていませんでした。
何でも芝居で表現しているからわざわざツイッターで
表現しないでもいいということで
これは結構興味深い話でした。
ツイッターもブログも他の人に向けて表現しているんですよね、
それをネット上でなく生の場でしていくのが正しいんじゃないの、って
確かにその通りかもなぁって思いました。
渡来という青年が、殺された鹿島亜佐美の関係者から
彼女のことを聞き出す、というのが話の筋で
職場の上司、母親、アパートの隣人、恋人、などに
会って話を聞くわけですが
みんな亜佐美のことはさておき、
自らの恵まれない境遇と言い訳ばかり話すので
そんな彼ら渡来が「死ねばいいのに」と告げるのが
共通のパターンです。
題名のわりには中身はそれほど衝撃的でもなく
好きなタイプの話だったので苦痛なく読めました。
この小説は電子書籍として日本の新刊としては始めて
配信されたお話でもありますが
i-padでこれを読まれた方もいらっしゃることと思います。
紙の本のただの代わりとしては電子書籍は魅力的には思いませんが
これが音声で読んでくれるとか
その場面に応じた効果音が流れてくるなどの
付加価値がついてくれば、それはそれで面白いような気がしますが・・・
この小説のように関係者にインタビューして
一人の人物を浮き彫りにしていく方式は好きで
何がいいかってストーリーが分かりやすいって。
風景描写とか場面描写とか想像力がないので
ほとんど理解できないし
この人はこういうことを考えている、という思考描写に興味があるので
インタビュー形式は自ずとそれ中心にならざるをえないというか。
そこでAという人からは、あの人はとてもいい人でした。って
しかしBの人からは、あいつほどひどい人間はいない、とか
その人によって印象が違うのが面白いところです。
でもそれは作り話の中だけのお話じゃなくて
現実社会でもあり得ることで
それは人の多面性によるところが大きいのかなぁと思います。
「爆問学問」で野田秀樹が言っていましたが
人間って生まれてからずっと、演技して生きているというのは
本当にその通りだと思います。
暑かったら汗を流して、寒かったら体温を逃がさないように
身体が変化するのと同様に
そのシチューエーションで己を変化させていくのは当然だし
素の自分だけで生きていくのは、
体温調節ができない身体のように
病気に近いものではないでしょうか。
だから自分探しなんて全くもって意味ないし
たとえ自分が見つかったとしてそれで生きていくなんて
できるわけがありません。
よく切羽詰ったときにその人の地がでるといいますが
あれは演技している余裕がなくなるからです。
自分は緊張するときとか怒られたときとかに
ドラマのワンシーンのように演技していたいとよく思うんですけど
これが中々簡単そうで出来ません。
その「爆問学問」で野田秀樹の門下生みたいな人たちが出ていて
爆笑問題の太田が「君たちはたぶん(芝居だけで)食っていけないだろう」
って言っていて、それは自分も舞台を観に行く度、よく感じることで
他にもバイトとかしてやり過ごしているでしょうが
お金がないのはしょうがないとして
舞台を行う際は、中心キャストはほとんど名前が知られた人ばかりで
主役なんか一回も舞台をやったことがない人が
ポンと決まったりするのって本心ではどう思っているんだろうなぁ、って。
セリフも出番の数も全然違って、ギャラも当然違っていて
でも気楽に出来る芝居なんてないと思うんですよ。
4~50歳になって注目を浴びることが分かっているならば
頑張りようもありますが、不安だろうなぁ。
何か演技が上手い下手というより
キャラクター勝負みたいなところが強いようなきがするんですよね、
同じセリフでも古田新太がしゃべると必ずウケるというか
(別に古田新太が嫌いとか悪いとかではないです)
そうお客さんに刷り込ませるのも実力の内かと思いますが
そうするには主要キャストにつかないと一生無理ですよね。
あとその門下生たちにツイッターやっている人はいるか、って
聞いたら誰もやっていませんでした。
何でも芝居で表現しているからわざわざツイッターで
表現しないでもいいということで
これは結構興味深い話でした。
ツイッターもブログも他の人に向けて表現しているんですよね、
それをネット上でなく生の場でしていくのが正しいんじゃないの、って
確かにその通りかもなぁって思いました。