愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八幡浜 三瓶 郷土の先人 曽我鍛

2011年02月08日 | 地域史
八幡浜・西宇和の郷里の歴史を顧みるに、山下宅治や上甲米太郎などの先人が近年、クローズアップされてきたが、まだまだその業績を充分に市民には認知されていない人物も多い。その中で、私が今、気になっている人物がいる。曽我鍛(正堂)さんである。伊予史談会の設立者の一人で、雑誌『伊予史談』を創刊から35年間、編集を担当するなど、戦前の愛媛の文化界を支えた方である。現在の西予市三瓶町鴫山の出身。鴫山は旧双岩村だが、昭和の合併の際に三瓶町に編入され、今は西予市となっている。私は歴史的環境からいえば、八幡浜・西宇和の出身の人物という捉え方をしている。

参考までに曽我鍛さんがどのような経歴の方か、『愛媛県史』人物編(平成元年発行)に紹介された文章をここで転載しておきたい。



曽我鍛(そがきたえ)


明治12年~昭和34年(1879~1959)

新聞記者。

号は正堂・黄塔・鬼塔。

明治12年7月15日西宇和郡布喜川村五庄屋敷(現三瓶町)に曽我孫七の長男に生まれる。

明治34年3月松山中学校を卒業し、

同38年7月早稲田大学文学部卒業。

大正2年4月伊予日々新聞主筆、

同4年7月から昭和20年7月まで35年間「伊予史談」編集主任。

大正8年9月大阪毎日新聞松山通信部主任。

同9年11月愛媛青年処女協会を設立し「青年と処女」誌を発行。

昭和4年『豫陽叢書』の刊行を始め、既刊9冊。

同8年大阪毎日新聞松山支局長、同9年退職。

同11年「愛媛文化」編集発行、

同21年西宇和郡双岩村民生委員、同22年同村農地委員長、

同34年12月28日脳動脈硬化症にて逝去、80歳、

三瓶町鴫山の祖先の墓地に葬られる。

著書には『井上要伝』『郷土伊予と伊予人』

『子規と漱石』『正岡子規伝』『中江種造伝』などがある。

なお、遺稿集として『曽我鍛文集』がある。


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上甲米太郎

2009年04月13日 | 地域史
昨日(4月11日付)の愛媛新聞の文化面のコラム「四季録」に、澄田恭一先生が上甲米太郎の事跡を紹介していました。上甲米太郎は、植民地時代の朝鮮で教師をしていましたが、植民地教育に疑問を感じ、現地の朝鮮語で授業を行ったり、当時の朝鮮の生活の現状を目の当たりにして、社会運動に取り組み、果ては治安維持法、レッドパージで教職は追われるものの、福岡の炭鉱で社会運動に取り組んだ人物。八幡浜市の出身。

最近、上甲米太郎の事跡も陽の目があたるようになってきました。もともとは、大牟田での近現代史研究の実績のある新藤東洋男氏が取り上げ、地元八幡浜・大洲の澄田恭一先生や山村好克先生が上甲米太郎のことを調査研究し、地元に紹介したことが基礎となっています。

その後、米太郎の娘で青年劇場の俳優である上甲まち子さんが八幡浜に来訪したり、大学の先生が上甲米太郎について資料紹介や論文を書いたりと、だんだんメジャーになってきています。インターネットで検索するといろんな情報がヒットします。

地元、八幡浜でもご存知ない方、四季録を読んでみてください。また、インターネットで「上甲米太郎」を検索してみてください。


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飯之山伝説③

2008年06月05日 | 地域史
飯之山城の城主の姫は長姫。落城した際に、腰元のお蝶を伴い、鴫山(西予市三瓶町)へ落ち延びた。その途中の垣生には「お長越」という地名があり、また飯野山に「お蝶滝」がある。毎日お蝶が城の用水を汲みに行ったところである。飯之山では、水がほしいといえば、お蝶が恐ろしい姿で現れるといわれる。

また、飯之山城の城主は、鴫山で殺されたという。場所は「権の守」というところ。今でも城主の怨念が大蛇となって現れ、これを見た人は必ず病気になると恐れられている。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

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飯之山伝説②

2008年06月05日 | 地域史
飯之山は穴井側が攻口、垣生側が落口であった。長宗我部軍は天正12年頃、この堅城をどうしても落とすことができず困っていた。その時、垣生の里人に会い「城へ草履を上げたいがどれだけ必要か」と聞き、300足が必要だと里人が答えた。これで兵員の数がわかり、長宗我部軍は作戦を練り、戦闘を開始したという。これは、飯之山城の武士で落人となった某家に伝わる話である。

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

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飯之山伝説①-真穴の古城-

2008年06月05日 | 地域史

写真の中央の山。山頂が平たくなっているところが飯之山。

現在、地図では「飯之山」と表記されるが、地元ではお年寄りから子供まで、この山のことを「いのやま」と呼ぶ。「いいのやま」と呼ぶと地元の人は違和感を感じるほどである。

この山は、『吉田古記』に「飯野山城跡、垣生と穴井の間の山なり。此の城郭昔此辺の領主要害第一の構と伝聞由」、とか『宇和旧記』に「喰野山とて古城あり、城立不知。一説に曰く、城主井上備後守嫡子治部大夫、後、穴井浦庄屋となる、末葉に井上五介あり」とある。

平凡社の『愛媛県の地名』では、穴井村の項目で「喰野山」とあって、ルビが「くらいのやま」になっている。これは明らかな間違い。「いのやま」を「位ノ山」と表記する史料もあるそうで、「位」・「喰」で編集者が「くらいのやま」とルビをふったのだろう。

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真穴の教育史

2008年06月05日 | 地域史
 
写真は真穴小・中学校。6月2日(月)に真穴小の5年生の総合的な学習の時間で「真穴の伝説」について、話したり児童からインタビューを受けました。みんな地元の伝説をよく知っていて驚きました。児童から教わることも多かったです。

 さて、ここで真穴地区の教育史について、かつて纏めていた文章があったので、ここで紹介しておきます。

 明治31年の真網代尋常高等小学校編「学校沿革史」に、江戸時代の真網代浦における寺子屋の記述がある。「真網代ノ教育ハ凡八十年前、御文政年間ノ頃ヨリ寺子屋トイフヲ始メ、小網代ノ庵寺ニ住セシ某、喜木村庄屋ノ隠居藤右衛門(同人ノ娘ハ二宮連馬ノ母ナリ、故ニ当処ニ来リテ老後ヲ送リシ人)、二宮連馬及矢野三右エ門等師匠トナリ、各自宅ニ於テ春季農家ノ閑ナル時期、読書、習字、算術ヲ授ケ、明治八年学校創立ノ際ニ至リシモノナリ。其教科書ノ如キ一定ニアラズ。各自ノ希望ニヨリシモノナリ。但普通用ヒシモノハ、商買往来、女大学、千字文ノ類ナリシナリ。是真網代教育ノ起原ニシテ、他ニスベキ程ノ事項ナシ」

 ここに出てくる「二宮連馬」は真網代浦の庄屋である。なお、八幡浜市誌にも各地域の寺子屋の状況が紹介されているが、穴井浦でも、庄屋の薬師神清樹が師匠となって、安政年間に寺子屋が創立されている。このように、真網代浦、穴井浦それぞれに、庄屋が師匠となって、寺子屋が営まれ、教育が行われていたことがわかる。

 その後、明治8年に真網代では大円寺に三谷住職を教員として、「真海小学校」が開校し、穴井でも同じ年に「梅の森小学校」が開校する。学校の場所は、学校沿革史には福高寺とあるが、一説には天満神社ともいわれる。(ちなみに、真網代と穴井の学校が統合されて1校となるのは昭和12年である。)

参考文献:『開校百周年記念誌まあな』(真穴小学校百周年記念事業推進委員会、昭和51年発行)

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樫木駄馬古墳2

2008年05月27日 | 地域史

この樫木駄馬古墳は、7世紀の横穴式石室。

中は暗く、前回来たときにはコウモリがいた。

今回は、コウモリはお留守でした。

横穴式石室に出入りできるので、

古墳を体感することができる。

一応、我が家から歩いて、卯之町の町並み(近世)、そこから山道。

松葉城、烏殿(中世)を通って、坂戸の樫木駄馬古墳(古代)まで約2時間半。

半日で近世→中世→古代までタイムとリップできる史跡めぐりコースでしたが、

途中の山道は危険がいっぱい。あまり欲張るものではない。

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樫木駄馬古墳

2008年05月27日 | 地域史

宇和の古墳といえば、最近は笠置峠古墳など石城地区の古墳発掘で

話題が多いが、坂戸にある樫木駄馬(カタギダバ)古墳は、

近くまで車で行くことができる。山道を200メートルほど登れば、

横穴式石室が見えてくる。

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松葉城6

2008年05月27日 | 地域史

余談です。

烏殿の下で、いのししにおびえながら、歩いていると、

へび発見。今季は、5月12日に初めてへびを目撃したが、

今日で2回目。おそるおそる撮影してみました。

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松葉城5

2008年05月27日 | 地域史

松葉城関連の狼煙台があったという烏殿の下から、

田野中方面を撮影したもの。

烏殿の山頂からは、石城方面も一望できるし、

多田方面も見える。

ここに狼煙台があったという話に納得。

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松葉城4

2008年05月27日 | 地域史

松葉城は、普通、卯之町や下松葉側から登るが、上松葉方面にも道がある。

その道を徒歩で北上すると、坂戸・平野線まで行くことができる。

途中、いのしし注意の看板が目に入って、一人では少々怖い。

約1時間半歩けば、松葉城から坂戸まで行くことができる。

その途中に、烏殿がある。標高が588メートル。

松葉城があった時代、この烏殿には狼煙台があったという。

近隣ではもっとも高い山で、宇和盆地が一望できる。

といっても、道が険しくて、烏殿の山頂には到達できず。

その下から撮影した写真。新城地区がよく見える。

写っている学校は、田之筋小学校。

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遍路道と「八幡浜新道」

2008年05月26日 | 地域史

宇和の下松葉の国道56号交差点。

ここに明治40年に建てられた遍路道標がある。

右側を示す指印が陽刻され、「へんろ道、八幡浜新道」と刻まれる。

左側面には、「左、八幡浜旧道、津布理道」とあり、

八幡浜旧道・新道の併記が興味深い。

実は、この道標が建立された8年前の明治32年に、

八幡浜と宇和を結ぶ県道が開通している。

この道は、双岩地区と多田地区を結ぶ鳥越峠を通るもので、

それまでの双岩地区と石城地区を結ぶ笠置峠は、歩道のみ。

新県道は、車道として、その後、八幡浜・宇和を結ぶ主要道となる。

宇和・宇和島方面から、八幡浜・西宇和方面への道の変遷を知る上で、

貴重な歴史資料といえる。

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松葉城3

2008年05月26日 | 地域史

松葉城の頂上部からみた宇和の様子。

手前右が下松葉。左手が卯之町。奥が久枝。

左右に大きな道が走っているのが国道56号。

国道56号からも松葉城は岩肌むき出しで、よく見えます。



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松葉城2

2008年05月26日 | 地域史

松葉城の頂上部は、このように平坦になっている。

ここから一段下がったところに「松葉城碑」が建てられている。

時代は慶応3年。碑文は上甲振洋の撰である。

上甲振洋は、宇和教学の祖ともされ、申義堂の名づけ親、左氏珠山の師。

珠山は、宇和島藩校明倫館で上甲振洋に学び、宇和に漢学塾を開く。

中世から江戸時代まで、松葉城は宇和に関する歴史遺産の宝庫。

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松葉城1

2008年05月26日 | 地域史

松葉といえば、西園寺氏の居城だった松葉城。

実は、篠山神社から松葉城まで歩道が整備されている。

この間は急な坂道も少なく、歩きやすい。

かつては、松がかなり生い茂っていたというが、

松喰い虫の被害にあって、かなりの松が枯れたらしい。

ここ数十年でも、景観は随分変わっているようだ。


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