八幡浜・西宇和の郷里の歴史を顧みるに、山下宅治や上甲米太郎などの先人が近年、クローズアップされてきたが、まだまだその業績を充分に市民には認知されていない人物も多い。その中で、私が今、気になっている人物がいる。曽我鍛(正堂)さんである。伊予史談会の設立者の一人で、雑誌『伊予史談』を創刊から35年間、編集を担当するなど、戦前の愛媛の文化界を支えた方である。現在の西予市三瓶町鴫山の出身。鴫山は旧双岩村だが、昭和の合併の際に三瓶町に編入され、今は西予市となっている。私は歴史的環境からいえば、八幡浜・西宇和の出身の人物という捉え方をしている。
参考までに曽我鍛さんがどのような経歴の方か、『愛媛県史』人物編(平成元年発行)に紹介された文章をここで転載しておきたい。
曽我鍛(そがきたえ)
明治12年~昭和34年(1879~1959)
新聞記者。
号は正堂・黄塔・鬼塔。
明治12年7月15日西宇和郡布喜川村五庄屋敷(現三瓶町)に曽我孫七の長男に生まれる。
明治34年3月松山中学校を卒業し、
同38年7月早稲田大学文学部卒業。
大正2年4月伊予日々新聞主筆、
同4年7月から昭和20年7月まで35年間「伊予史談」編集主任。
大正8年9月大阪毎日新聞松山通信部主任。
同9年11月愛媛青年処女協会を設立し「青年と処女」誌を発行。
昭和4年『豫陽叢書』の刊行を始め、既刊9冊。
同8年大阪毎日新聞松山支局長、同9年退職。
同11年「愛媛文化」編集発行、
同21年西宇和郡双岩村民生委員、同22年同村農地委員長、
同34年12月28日脳動脈硬化症にて逝去、80歳、
三瓶町鴫山の祖先の墓地に葬られる。
著書には『井上要伝』『郷土伊予と伊予人』
『子規と漱石』『正岡子規伝』『中江種造伝』などがある。
なお、遺稿集として『曽我鍛文集』がある。
参考までに曽我鍛さんがどのような経歴の方か、『愛媛県史』人物編(平成元年発行)に紹介された文章をここで転載しておきたい。
曽我鍛(そがきたえ)
明治12年~昭和34年(1879~1959)
新聞記者。
号は正堂・黄塔・鬼塔。
明治12年7月15日西宇和郡布喜川村五庄屋敷(現三瓶町)に曽我孫七の長男に生まれる。
明治34年3月松山中学校を卒業し、
同38年7月早稲田大学文学部卒業。
大正2年4月伊予日々新聞主筆、
同4年7月から昭和20年7月まで35年間「伊予史談」編集主任。
大正8年9月大阪毎日新聞松山通信部主任。
同9年11月愛媛青年処女協会を設立し「青年と処女」誌を発行。
昭和4年『豫陽叢書』の刊行を始め、既刊9冊。
同8年大阪毎日新聞松山支局長、同9年退職。
同11年「愛媛文化」編集発行、
同21年西宇和郡双岩村民生委員、同22年同村農地委員長、
同34年12月28日脳動脈硬化症にて逝去、80歳、
三瓶町鴫山の祖先の墓地に葬られる。
著書には『井上要伝』『郷土伊予と伊予人』
『子規と漱石』『正岡子規伝』『中江種造伝』などがある。
なお、遺稿集として『曽我鍛文集』がある。