愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

航路を基盤とした文化交流(岩城島)

2008年02月02日 | 地域史
 岩城島は芸予諸島の中でも、弓削島、生名島などとともに上島諸島を構成する島である。北は生口島、南は伯方島に接している。現在は南方の赤穂根島と津波島を含み、岩城村を構成しているが、平成16年10月には弓削町、生名村、魚島村と合併し「上島(かみじま)町」として新たな出発を迎えることになっている。
 瀬戸内海では、江戸時代に造船技術が発達し、本州の陸地沿いを航行する「地乗り航路」から島伝いに航行する「沖乗り航路」に移ると、島々にも海駅が整備され、対面の伯方島や赤穂根島に囲まれた岩城島南部に位置する岩城港も、潮待ちや風待ちの港として発展した。松山藩領であった岩城には藩の本陣や脇本陣、茶屋、定水主が置かれ、参勤交代の要衝としても栄えた。特に三浦家を宿駅の本陣とし、「島本陣」と呼ばれ、島民は参勤交代の御用のほか、西国の大名や琉球人や朝鮮通信使の往来などにも漕船と水主役を担っていた。
 三浦家は16世紀中頃に備後三原から岩城に移住し、名家として瀬戸内海に広く知られていた。最も隆盛を極めたのは江戸時代後期から明治時代にかけてであり、多くの塩田を所有するとともに、大坂などとの商取引も盛んに行った。島本陣として利用された邸宅は間口12間、奥行15間の広大なものであり、昭和57年に郷土資料館として修築し、現在一般に公開している。館内には、島本陣であった当時、藩主の部屋として使用されていた客間や、郷土の歴史資料が展示されている。
さて、岩城島は当然、民間航路としても商船の潮待ち、風待ちの重要な港として機能していた。港近くには旅籠や茶屋が並び、文政13(1816)年には問屋が10軒あったとされており、特に大坂商人との商取引が盛んであった。明治13年頃にも、船舶108隻、漁船71隻があったが、次第に造船・海運ともに西洋型の造作場を持ち、茶屋や芝居小屋の発達した御手洗(大崎下島)などに繁栄を奪われていった。
 しかし岩城八幡神社の嘉永6年に造られた玉垣等の石造物の寄進者銘を見てみると、近隣の島々はもとより、安芸、備後、播磨、大坂等の商人の名前が刻まれており、岩城島の商業圏域の広さがわかるとともに、島外からの船や人の来訪が島の文化の隆盛の背景ともなったことがうかがえる。
 その一例として、岩城島内の神社祭礼が挙げられる。現在、10月第2土曜日に岩城八幡神社の秋祭りが行われるが、神輿渡御の行列にはダンジリ、奴行列、獅子舞、浦安の舞等が登場し、賑やかな祭礼である。神輿は浜の五か村の者が担ぎ、ダンジリは東地区、西地区2台が登場させる。奴行列は高原地区が担当し、獅子舞は海原地区の担当となっている。
 このうち、ダンジリは「担ぎダンジリ」と呼ばれる越智郡島嶼部によく見られる形状のものだが、「三浦家永代記録」の中の明治14年の「祭礼道具人別控」によると、西地区からは「引壇尻」(曳きダンジリ)と東地区からは「太鼓壇尻」が出ると記されている。愛媛県においては、一般に、祭礼の中で山車などの祭礼風流を「曳いて見せる」文化は19世紀以前のものであり、近年はダンジリを担ぐことによって、「見せる」風に変化している。「曳いて」見せるダンジリは、岩城島の近隣では大三島町や上浦町のダンジリなどが残存しているのみで、伊予本土にもほとんど見られない。現在、岩城でも「曳きダンジリ」は姿を消しているが、明治時代にも瀬戸内海沿岸各地に見られる祭礼文化を受容していたのである。
 なお、岩城村では安政6(1859)年に八幡神社の神輿を再興した際、大坂心斎橋の神輿師鎌田市左衛門に神輿を修理させている。この頃の祭礼道具が地元近くではなく、大坂にて新調、修理されていたことは興味深い。
また、岩城では祭礼の奴行列の由来として、明治初年に岩城から備前国(岡山県)に塩田の仕事で出稼ぎに出ていた者が奴行列を習い覚え、帰郷すると高原地区から奴を出そうという話になったという伝承もある。明治時代には塩田の浜子として岩城から各地へ出稼ぎに出るものが多く、彼らが郷里に伝えた文化といえるだろう。
島外から訪れる者によってもたらされた文化、島内の者が外に赴くことで、得て持ち帰った文化、それらの融合により現在の岩城の伝承文化は成り立っている。このように、岩城島は、政治や商業だけでなく、文化の面でも航路を基盤とした交流の島として発達したのである。
(参考文献)『岩城村誌』岩城村、昭和61年。『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』愛媛県教育委員会、平成14年。

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防空壕

2006年08月20日 | 地域史
8月16日に地元放送局のニュースで八幡浜第一防空壕について取り上げられ、私も少しコメントする。コメント内容は次の通り。

第一次世界大戦以降、航空兵器の登場と発達する。それによって空襲という新しい戦闘形態が生まれる。そして昭和6年、満州事変を契機とした防空への関心の高まり。「防空演習」が各地で行われるようになる。

愛媛県でも、昭和6年8月に、八幡浜で最初の防空演習が行われる。
八幡浜近隣の小学校の日誌を見ても、この時期に定期的に防空演習は実施されている。

昭和12年には防空法が制定され、消防・避難などの訓練を行う「防空演習」が各地で、本格的に行われる。

昭和14年に、警防団が結成される。(警察の管轄下に「防護団」と「消防組」を統合した「警防団」が設置。)これにより防空体制をさらに強化。

昭和15年には、全国各地で電気・水道などの設備の整った本格的な防空壕が建設される。(当時の内務省主導)

昭和15年10月に、「防空協会愛媛支部」の結成。これは警察中心の組織・防空体制の強化を意図したもの。

そして、八幡濱第一防空壕の建設。(四国最初の本格的防空壕とされる。)
昭和15年5月起工。
昭和16年2月21日完成・・・・・昭和16年12月以降の太平洋戦争開始以前!
照明や水道・トイレ・長いすなどを完備。
実際に、米軍機による空襲で退避に用いられたり、病院の薬品庫として使われる。

これは実際に空襲が始まって、作られたものではない。
戦争が激化する以前に、すでに「国民防空体制」ともいうべき戦時体制が整えられ、
施設整備も行われた上で、太平洋戦争へと突入していったことを物語っている。

防空壕というと、空襲被害との直接的な繋がりで語られやすいが、昭和6~16年と、いかに日本が戦争に突入する体制を作ってきたかという歴史を地域住民の側から見つめ直す意味でも、非常に貴重な戦争遺産だと思う。

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峠の歴史と文化

2006年07月22日 | 地域史
※松山のNHK文化センターの町並み現地見学で、宇和の峠について話をしてほしいとの依頼があり、その際に配布したレジュメの内容です。

峠の歴史と文化 18.7.22

1 峠(トウゲ)の語源
 「山の多和(タワ)より御船を引き越して」(古事記)・「タオ」(日葡辞書)
「トウ」徳島県美馬郡・愛媛県・高知県幡多郡・大分県の方言(日本国語大辞典)
語源説①「タムケ(手向け)」の変化。通行者がここで道祖神に手向をして旅路の安全を祈願
 語源説②「トウ越え」が約まったもの。

2 峠は境界か? 峠口の集落は行き止まりか?
 ①境界であると同時に、峠の両側の集落は生活上深く結びつく。
 ②境界的要素が強いのは、峠と坂(さか):語源は境(さかい)坂迎え:伊勢参宮・四国遍路・石鎚登拝から帰参する時に家族が村境まで出迎える風習。★峠地形ではなく坂地形なのに「大峠」。
 ③境界ゆえに怪異伝承が多い。法華津峠のウワバミと田野久(たのきゅう)

3 笠置峠(宇和‐八幡浜)の歴史
 ①古墳時代の笠置峠:四国西南地域では唯一の前方後円墳(笠置峠古墳)が山頂近くある。宇和からも八幡浜からも眺望できる。佐田岬半島からも見える。のちの石野郷の中心?
 ②古代~中世の笠置峠:石野郷(和名抄)・室町時代の安養寺大般若経の勧進範囲は現在の八幡浜・三瓶まで及ぶ。
 ③近世の笠置峠:宇和旧記記載の岩野郷の範囲は八幡浜・三瓶まで及ぶ。三瓶神社の石垣や絵馬奉納者名を見ると、宇和・三瓶・八幡浜・明浜の者が奉納。なお、九州から来た遍路の遍路道。
 ④近代の笠置峠:宇和町岩木の三瓶神社の氏子は、八幡浜側まで広がっていたが、明治20年代の町村制の影響で、八幡浜側が氏子抜けする。明治40年代に自動車道路が鳥越峠に開通し、通行者が減少。←峠の境界化・宇和と八幡浜の分断。

4 峠の近代化事例
 ①大洲市肱川町中津の峰峠(ミネントウ):内子の木蝋生産のハゼの実・五十崎の和紙原料のミツマタなどが運ばれる峠。旅館・飲食店・蹄鉄鍛冶・床屋・時計修理店・骨接ぎ・山伏等が居住。昭和初期に峠下に自動車道路が開通し、急速に衰退。
 ②西予市宇和町の文治ヶ駄馬:宇和島と野村を結ぶ主要街道。旧街道が今も残るも寂れた状態。
 ③西予市宇和町の大窪越え:大窪山の山頂にあった福楽寺が戦後まもなく、麓に移転。

5 峠を越えた郷(村落結合):宇和旧記より
 ①岩野郷:郷内・上岩木・下岩木・小原・清沢・馬木・杢所・田苗・真土・坂戸・伊崎・中村・平野・窪・常定寺・鴫・大江・東多田・河内・岡山・伊延・津布理・影之平・釜之倉・若山・中津川・布喜之川・河舞・国木・牛名・田浪・古薮・安土・朝立・有網代・有太刀・皆江・雁浜
 ②山田郷:山田・鞍貫浦
 ③永長郷:明間・下川・皆田・伊南坊・伊賀ノ上・鬼ヶ窪・明石・新城・松葉・下松葉・上松葉・神領・久枝・野田・小野田・永長・高山・法花津・俵津・深浦・渡江

(参考)
・「宇和」の初見:日本書紀持統天皇5年条:伊予国司田中朝臣法麻呂が宇和郡御間山の白銀を献上。
・平城宮出土木簡に「宇和評」あり
・「日本三代実録」貞観8(866)年:宇和郡を分割し宇和・喜多郡となる。
・和名抄の宇和郡:郡内に石野・石城・三間・立間の4郷あり。
(喜多郡は矢野・久米・新谷、宝徳元年(1449)室町幕府下地状「宇和北郡」)

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アメリカ移民の先駆者・西井久八

2004年03月23日 | 地域史

アメリカ西海岸の日本人社会では、八幡浜市を中心とした近隣の出身者が多数活躍しています。『八幡浜市誌』によると、この地方の出身者の2~4世を合わせると実に1万人近くにもなるといいます。
このように八幡浜地方からの出身者が際立って多いのは、アメリカ移民の先駆者で、「日本移民のパパさん」と呼ばれた、西井久八の絶大な影響であるといわれています。
西井久八は、安政3(1856)年8月、現在の八幡浜市向灘に生まれ、明治8(1875)年、海外への渡航を夢見て、九州、更には横浜へ行き、外国船の水夫として働き、明治11年、22歳の時にアメリカへ向けて出航しました。
日本を出たあと、香港・シンガポールを経てヨーロッパに到着し、6ヶ月かかって米国オレゴン州ポートランドに上陸しました。それまで日本人にとって未到の地であった場所で、一生懸命に働き、シアトルやタコマで、日本人初の経営となる「スター洋食店」を開きました。更に農場経営やその他数々の事業に成功し、一躍、大実業家となりました。そして在留日本人の事業活動を積極的に援助・指導し、アメリカにおける日本人社会は目覚しい発展を遂げました。
成功者となった久八は明治22年に、妻を迎えるために日本に帰国し、「みよ」と結婚しました。そして八幡浜の若者達に、アメリカの将来の有望性を説き、数名を同行して帰りました。久八の成功談は近隣の村々に広がり若者達の夢を盛り上げました。また、地元の小学校などの教育機関に多額の寄付をするなど、郷里の後進を育成するための努力を惜しみませんでした。
ところが、日本からの移民を積極的に受入れていたアメリカでは、大陸横断鉄道の事業が一段落つくと、失業者が急増し、熱心な働き手の多かった日本人を排斥する運動が広がりました。ついには、明治41年に「日米移民紳士協約」が成立して、日本からアメリカへの渡航は困難となってしまいました。
しかし、久八の成功談の伝わっていた八幡浜では、正規の渡航とは別に、密航によりアメリカを目指す若者も後を絶ちませんでした。大正2(1913)年には、真穴地区の若者15人がアメリカに向けて地元を出港しました。彼らは長さ約15メートル、重さ50トンの打瀬船に乗り、北針(きたばり)と呼ばれる木枠の磁石を頼りに、伊豆大島から海流に乗って、危険な航海に出ましたが、出航から58日目、ついに憧れの地、アメリカ、サンフランシスコ北のアレナ海岸に到着しました。距離にして1万キロの移動でした。数日後、一行は密航者として日本へ強制送還されましたが、わずか50トンの小船で太平洋を横断し、勇躍新天地へと向かった15人の行動は、全米の新聞に「コロンブスのアメリカ発見にもあるまじき奇蹟なり」と報道されました。また、そのことは八幡浜の人達にも勇気を与え、翌年、翌々年と夢を求める多くの若人たちが航海に挑んだといいます。そして、現実にアメリカで一旗揚げる者もかなりの数に上ったそうです。この話は「北針物語」として、八幡浜市民の間で語り継がれています。
このように、西井久八に始まる八幡浜のアメリカ移民の歴史は、この地方の人たちが持っていた進取の気性をあらわしているといえます。
(出典)村川庸子『アメリカの風が吹いた村』(愛媛県文化振興財団、昭和62年)
(参考文献)『愛媛県史人物編』(愛媛県、1989年)

2004年03月23日

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追悼 福井太郎先生‐歴史の幻想と現実の間‐

2003年03月02日 | 地域史

二月二七日朝、八幡浜市文化財保護委員長の福井太郎先生が逝去された。享年八八才。先生は大学時代に国史学を専攻し、郷里の高校で教鞭をとる傍ら、八幡浜の歴史について終生、研究をされてきた。八幡浜史談会長を務めるなど郷土史の大黒柱であったし、宇和町にある県歴史文化博物館の設立に際しては南予を代表する調査研究委員会委員として活躍もされた。
私は実家が先生のご近所ということもあり、学生時代から帰省の折にはご自宅にお邪魔しては談義する機会を得ていた。東京の大学の講義で学んでいた文献史学の方法論を習得する度に先生と論議することで、大学での習熟度を郷里八幡浜で確認する場でもあった。また、私は文献史学と並行して伝承・言い伝えを取り扱う民俗学・文化論に興味を持ち、その視点で八幡浜の歴史像を描こうと考えていたが、先生は「君の言う伝承は史料には載っていないので断定はできないが、言い伝えが今に伝承されていることも、これまた歴史である」と言ってくださり、その後の私の歴史・文化論に対する姿勢を後押ししてくれたし、研究のヒントも大いに与えてくれた。
歴史学に携わる者から見て先生を一言で言うなら、文献史料に忠実で、厳正で、ストイックな歴史学者とでも言えようか。過去の文書・記録に記述されていることを丹念に、そして批判的に読み解き、そこから真実と判断できる事を一つ一つ積み重ね、結論を導き出すという手法を取っていた。史料に記載されていないような可変的もしくは曖昧な「伝承」や「言い伝え」等は傍らに置き、まずは史料から導き出せる事を主眼に八幡浜の歴史像を構築していた。歴史の一次史料から郷土史を再編成する試みでもあった。史料に載っていないことは公には語らない。歴史的事実を固める作業が第一であるという姿勢である。
 地元の者が郷土の歴史を扱う場合、史料を読み解き、解釈する際には、どうしても自分に有利な方向に解釈してしまう傾向が強い。自分につながりのある過去は都合の良いように考えてしまうからだ。一般に、人が歴史に興味を抱くのは自分につながりのある過去であり、それは一種の自己確認の手段ともいえる。その視点で歴史を解釈することは「過去の現実」を知るのが目的ではなく、「過去の幻想」を自分の中で再構成する試みともいえる。先生は、そういった「過去の幻想」を追い求めるロマンチスト的な姿勢を排除し、史料から過去の現実のみを抜き出し、そこからわかる事が真実の歴史であるという姿勢を貫いていた。歴史学のリアリストであり、客観主義者であった。
 市町村合併により、八幡浜が新たな枠組みで再編成されようとしているこの時期に、我々が郷土の歴史を振り返ろうとする場合、「過去の幻想」だけではなく、「過去の現実」・「歴史的事実」を踏まえておく必要がある。何事も問題を解決するには事実・現実の直視は避けられないことは普遍であるが、先生の足跡、業績、そして歴史に対する姿勢は、我々が過去を振り返る際に最も客観的な材料を提供してくれたのである。
 先生は常日頃、「八幡浜人はどうして歴史に無関心なのか」と嘆いておられたが、別の見方をすれば、八幡浜人は「過去の幻想」を大切にするロマンチストではなかったというだけであって、いざ、自らの過去を直視しなければならない時期になると「過去の現実」を見つめることのできるリアリストなのかもしれない。いや、そうであってほしい。福井先生の姿勢・思想は、先生が亡き後も消えることはないし、この現代社会の荒波の中ではますます貴重になってくるのではないだろうか。

2003年03月02日 八幡浜新聞掲載原稿

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古事記の国生み神話と「伊予之二名嶋」

2002年04月17日 | 地域史

 古事記の国生み神話の中に四国を指す名称として「伊予二名嶋」が出てくる。日本書紀の本文では「伊予二名州」、一書第六に「伊予州」とあるが、二名とは、「二並」という意味で、二組の男女が並んでいる国の意味であると、日本思想大系本の頭註では解説している。山本大・田中歳雄著『四国の風土と歴史』(山川出版社)によると、二組というのは、讃岐の飯依比古と伊予の愛比売、土佐の建依別と阿波の大宜都比売の男女それぞれ一対となって二並となっていると説明しているが、私はそうは考えない。
 私の考えるその二組とは、飯依比古(讃岐国:イヒヨリは飯の霊が依り付く意味か)と大宜都比売(粟国:オホは美称でゲは食(ケ)で、食物を名とする女性名。古事記には、同名の神が殺されて「二つノ耳於粟生り」とある。)が一組。これはいずれも食物に関係する神で男女一対と考えられたのだろう。そして、愛比売(伊予国:女性に対する美称)と建依別(土左国:タケヨリは強勇な霊が依り付く意味か)が一対。これはそれぞれ男女の美称からくる神名である。以上のことから、「伊予二名嶋」とは、讃岐・阿波と伊予・土佐の二組の島ということになる。食物に関係する男女神と、非常に立派な男女神の異なるイメージの男女の組み合わせである。伊予・土佐については、実際に風土的にも神名は合致する。静寂な(女性的な)瀬戸内海に面した伊予と、荒々しい(男性的な)太平洋に面した土佐といった具合。四国は「身一つに而面四つ有り」と表現されるが、東西で二分割できることを指摘しておきたいのである。
そもそも、この古事記の国生み神話では、数多くの神名、地域名が登場するが、畿内を中心にして周縁部に行くに従って、一定の法則性があることに気がついてしまう。というのも、畿内からある程度近い距離にある場所に食物を神名が多いのである。讃岐、阿波だけてでなく、吉備(黍)、淡路(粟)もその類であろう。食物は人間が自然を利用して得るものであることから、言ってみればこの地域は自然と人間の交流する場といった文化的世界と見なされていたといえるのである。それが、畿内から見てその外縁にあたる伊予・土佐は、風土性を神名としていることから、文化的世界というより、自然的世界なのである。畿内が王権の中心であり、古事記が編纂された場であることから、言ってみれば「人の世界」である。畿内の「人の世界」→周辺の「自然との文化の交流域」→「自然の世界」といった人と文化、自然の遠近感を当時の畿内の人が認識していたことを国生み神話は物語っているといえるのではないか。
さらに、九州に目を向けてみると、神名は筑紫嶋(九州)の場合「此ノ嶋亦、身一つに而面四つ有り」とあって、筑紫国:白日別(明るい太陽)、豊国:豊日別(豊かに照る太陽)、肥国:建日向日豊久士比泥別(勢いが激しい太陽)、熊曾国:建日別(勢いが激しい太陽)というように、すべて「日」が神名に付いており。太陽に関する神名である。言ってみれば、伊予・土佐の風土を神名とするのに比べ、太陽という天に近いという認識があるといえる。これは「自然の世界」よりもさらに遠い場所というニュアンスがあるのではないか。 やはり、古事記の国生み神話は、編纂者当時の国家の遠近認識が文化・自然をキーワードとすると如実に顕れてくるのである。

2002年04月17日

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大洲の巨石文化

2001年06月10日 | 地域史

大洲市高山にメンヒルがあり、大洲の一種の観光名所になっている。かの鳥居龍蔵が「東洋一のメンヒルだ」と言ったという高さ4.75メートルの立石である。メンヒルの脇に大洲市教育委員会が設置した説明看板には、次のように書かれている。「大洲市指定史跡、高山ニシノミヤ巨石遺跡、昭和31年9月30日指定、先史時代の人々の手でこの地に遺したとされる巨石の中で代表的な立石である。 古来前面を仏とし背面を神として崇拝され特に目ぼのある者が祈願すれば霊験を得るとして、参詣する風習があり、その前面には積石の祭壇を設け今なお香華が供えられている。昔藩令により久米喜幸橋の石材に用いようと運び出し翌日橋をかけようとしたところ、この巨石が夜のうちに元の位置に坐っていたという民話もある。 昭和3年11月故鳥居龍蔵博士の来洲によってメンヒルとしては東洋一のものだろうと推称されて以来にわかに有名になった立石である。 平成3年1月吉日建立、大洲市教育委員会」
『大洲市誌』によると、「高山寺山(通称高山)の中腹標高280メートルのニシノミヤ高橋邸内に一個の巨石が立っている。地面から高さ4.75メートル、幅2.3メートル、厚さ66センチで、先端が丸くなった緑色片岩である。石の正面にあたるはるか遠方には、どちらも二等辺三角形の格好の良い神南山が左に、如法寺山(冨士山)が右に並んで見え、その真中が真東にあたり、天気の良い日にはこの山の向こうから赤い日の出が見られる。(中略)この石の地面下は様子はわかっていないが、おそらく二千数百年以前もの昔、祖先の人達が太陽や巨石を尊んだ素朴な信仰が、この巨石を立てさせたものと思われる。」とあり、位置的には、真東を向いて朝日を一面に受けるような形で立っているのである。
私が興味を抱いているのは、この立石がいつ、どのような目的で立てられたのかということではない。二千数百年前といえば、弥生時代にあたると思われるが、弥生時代の建立かどうかは考古学上でも立証されていないようで、今後の研究課題になっているようである。それよりも私は高山に訪れた際に、石鎚信仰の盛んなことを聞かされ、この立石にまつわる伝承も石鎚信仰の影響があるのではないかと勝手に推測したのである。というのも、立石のことを地元では「石仏」と呼んでいたようで、これは西園寺源透の著した『大洲地方巨石文化写真帳』(昭和初期成立、愛媛県立図書館蔵)にも、この「石仏」の名称で紹介されている。石の前面には五輪塔が一基あり、仏としての崇拝の厚いことがわかる。石鎚信仰については、高山に「お山踊り」という石鎚の御詠歌を唄いながらシデを持って地元の人が踊るという芸能がある。この歌詞の中に「前は神様、後ろは仏、参る心で常々見よれ」という文句があり、現在は立石は、前面が仏で、後面が神としているが、これは実は逆で、前面が神様、後面が仏ととらえられていたのではないかと勝手に推測してみた。それは、立石の前方には、神の山とされる神南山(かんなんざん:神奈備山が訛ったものと言われている)が位置し、後方には高山寺山、そして名刹金山出石寺がひかえているからである。この立石は石鎚の御詠歌にある文句を体現したものではないのか、というのが私の勝手な推測である。(では、この立石は、石鎚信仰がこの周辺に広まった江戸時代後期以降にたてられたのもの?という、混乱が生じてくるが・・・。)
そもそも、鳥居龍蔵が「東洋一のメンヒル」と発言したかどうかは、確認がとれない。鳥居は昭和3年11月に大洲に来て、大洲各地にある巨石遺物を調査している。この時にどういった調査をしたのか、よくわからないが、この鳥居の調査に触発されて、地元の郷土史研究者横田伝松、長山源雄はそれぞれ鳥居の調査直後の昭和4年と5年に『伊予史談』に大洲の巨石文化の考察を掲載している。ところが、この横田、長山の原稿を読むと、鳥居が調査した中で最も興味を持った対象は神南山の巨石群であったようで、高山の立石についてはほとんど触れられていない。高山のメンヒルについては、長山が「久米村高山の石仏と呼ぶ立石は、橋材にする為堀倒されたが、一夜のうちに原の通りになって居た」という一文があるのみである。横田、長山のいずれの原稿にも、鳥居が「東洋一のメンヒル」と評価したという内容は、一切出てこないのである。昭和47年発行の『大洲市誌』には、鳥居は東洋一と言ったと書かれているが、この発言の原典をつかむことができない。もしかすると、発言が一人歩きした可能性もある。高山のメンヒルは謎が多くて、厄介な資料だ。
ところで、大洲地方の各地にある巨石遺跡は、今ではメンヒル・立石やドルメンなどと呼ばれているが、『大洲地方巨石文化写真帳』によると、当時の巨石の呼称が何例か出ていたので、ここで紹介しておく。高山のメンヒルは「石仏」、五郎の立石は「山ノ神」もしくは「伊佐高権現」、神南山の「弥勒様」、「ドンビ岩」、冨士山の「座禅石」。これらはいずれも宗教的な色彩の強い名称である。謎の多いとされる大洲の巨石文化については、今後、当然、考古学的なアプローチがなされるべきであろうが、上記のように一種信仰の対象となっている場合が多く、宗教民俗学からのアプローチも必要なのかもしれない。

2001年06月10日

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八幡濱第一防空壕の古写真発見!

2001年02月26日 | 地域史
このところ、話題になっている八幡浜市幸町の「八幡濱第一防空壕」。
本日午後、私が別件で八幡浜の弘法大師伝説を聞き取りしようと、松柏の知人宅を訪れたところ、その近所に、この防空壕の昭和16年2月に撮影された古写真を持っている方がいることを教えてもらった。早速、拝見させてもらい、写真撮影もしてみた。
この写真は、所蔵者の父が戦前からのものを丁寧にアルバムに整理されていた中の一枚だった。現在残っている防空壕跡と同じく、丸形の内部屋根になっている。電球や椅子も確認できる。現状とさほどかわりのない写真だ。やはり、この防空壕の現在の保存状態は極めて良好と改めて確認できた。
さて、その写真の脇には付箋が貼られ、「昭和十六年二月竣工、愛媛縣八幡浜市幸町、四国最初之防空壕」と記されていた。事実か否か確認していないが、四国ではじめての防空壕という記述には驚かされた。また、竣工が昭和16年2月であり、未だ太平洋戦争も始まっていない頃である。何故に防空壕を作ったのか、その理由がよくわからない。当時の新聞記事を確認したり、地元幸町の古老からの聞き取りなどで調べてみる必要がありそうだ。

情報提供 大本 2001/02/26

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「地方」と「中央」、そして「地域」

2001年02月18日 | 地域史
今の私は、郷土を語る時に「地方」という言葉を極力使いたくない。(南海日日新聞に連載中の「八幡浜地方の民俗誌」では「地方」を使っているが・・・。)
「地方」というと、どうしても対比語として「中央」が思い浮かんでくる。八幡浜が「地方」だとすると「中央」は東京であろうか。私は学生時代を東京で過ごし、就職の縁あって地元に帰郷したわけだが、正直「都落ち」したという感覚があった。東京に居れば、情報・物・人など様々な面で「地方」よりは恵まれていると頭の中は凝り固まっていたのだ。
日本列島は、山の頂きのように東京という「中央」が高い所にあって、「地方」は低いところに位置する。情報も、高いところから順に降りてきて、「地方」に届くまでには時間がかかる、もしくは降りてこない。「中央」に対するコンプレックスに私の20代半ばは苛まれていた。
ところが、ここ数年、インターネットが普及して、「地方」にいても情報不足に悩むことはなくなりつつある。しかも、自らホームページを作成して、「地方」からの情報発信も可能となった。
高くそびえるように見えていた東京という「中央」の山が、少し低く見えるようになってきたのだ。
私は、そこで「地方」という言葉を捨ててみようと思った。「地方」ではなく、「地域」だ!と。
東京も一つの地域であり、ここ八幡浜も地域である。どちらも平等であり、それぞれの個性を持っている。
最近はそのように思えるようになった。
さらには、国家という枠組みにも疑問を持ってしまった。政治、軍事上は国家は必要だが、人の生活情報に国境はもはや関係ない(とまでは言い切れないが、将来はそうなるかもしれない。)私が個人のホームページで英語バージョンを作ってみたのも、そういった理由からである。(下手くそな英語ではあるが・・・。取りあえず海外からのレスポンスがあるから、それで良しとしている。)
「地方」からそれぞれ個性を持った「地域」へと発想を転換することで、郷土への眼差しが違ってくるような気がする。言葉は悪いが、井の中の蛙的な郷土史は、内からの眼だけの作業であった。「地域」を考え、内からだけではなく、外からの眼でも郷土を見つめることができれば、かつての自分のコンプレックスが解消するのだろう。濱知の会でも、無意識のうちに「中央」と対比させられる「地方」ではなく、個を抱いた「地域」として地元を見つめる作業ができればいいと考えている。

大本敬久 2001/02/18

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大法寺観音堂の青石細工

2001年02月18日 | 地域史
先日、八幡浜市大門にある大法寺を参拝した。境内にある市指定文化財のマリア像を拝むのが目的だったが、この寺の本堂といい、鐘楼、観音堂といい、彫刻に念の入った建築なので観察してきた。
大法寺の観音堂の名物?といえば、濱知の会参加者でもあるフリーライター岡崎直司氏が著した『歩キ目デスは見た!』(創風社出版、1997)の中で紹介しているところであるが、建物の基礎石に、瓢箪徳利と盃が刻まれているのだ。基礎石は、青石(緑泥片岩)を用いているが、観音堂左奥にさりげなくレリーフされている。建物を建造する際に石工が遊び心を働かせて、この意匠を残していったのだろうか。
同じような意匠(瓢箪徳利と盃)は、近くの八幡神社の石垣にもあると岡崎氏は紹介している。この造営時期は文政年間で、どうやら広島から石工が来たという話が伝わっているらしい。
さて、瓢箪徳利に盃とくれば、思い浮かべるのは酒を飲むことである。神社であれば、神事の際に神酒として酒を頂戴することがあるが、寺では基本的には禁酒である。寺の入り口によく「不許葷酒入山門」という石柱が立っているが、これは臭気の強い野菜や酒を口にした者は寺に入ってはいけないという立て看板である。酒は修行の妨げにあるといい、本来、寺には酒はタブーなのである。
ところが、大法寺観音堂基礎石には、隠れた位置ではあるが、酒にまつわる徳利、盃の意匠が施されている。
私はこれを建築時の石工の勇み足だと感じるのだが、どうだろうか。

大本敬久 2001/02/18

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山下宅治の詳細について

2001年02月17日 | 地域史
 
現在、八幡浜新聞において、今泉昌博氏が「波濤の彼方に夢を求めて」という山下宅治の生涯を綴った原稿を連載しています。
アメリカ移民研究の貴重な報告です。
興味のある方は八幡浜新聞をご参照下さい。
情報提供 大本 2001/02/17

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アメリカ移民の先駆者山下宅治

2001年02月17日 | 地域史
 
明治時代、アメリカ移民の先駆者として活躍した向灘出身の山下宅治。
先日、全国ニュースでも放映されましたが、彼はワシントン大学で学び、司法試験にパスしながら、排日運動の影響で弁護士資格を取得できなかったという苦難を乗り越え、実業家として成功した人物です。
さて、その彼が、100年ぶりにワシントン州の法曹界から名誉会員として認定されることになりました。時をこえて名誉回復が実現するのです。
その認定の式典が3月上旬にシアトルで行われ、ご子孫が招かれるようです。濱知の会では、その式典の帰国報告会を3月中~下旬に行うべく、調整しています。

情報提供 大本 2001/02/17

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八幡濱第一防空壕

2001年02月17日 | 地域史
 
2月10日前後の地元紙でも大きく取り上げられていたが、八幡浜市幸町に、戦争遺跡でもある大規模な防空壕の全容が明らかとなった。
この防空壕の入口には「八幡浜第一防空壕」というプレートが刻まれており、中は奥行10メートル、天井の高さは2メートル。内部はコンクリートで内装が施され、野堀りの防空壕のイメージとはほど遠い、まさにシェルターといった感じ。トイレや洗面所も完備され、戦争遺跡として非常に保存状態がよい。地元紙によると、この防空壕は朝鮮人労働者によって建設されたことや、建設に際して周囲の家屋を取り壊したという。
私も、見学に行ってみたのだが、地元の戦争(平和)学習に利用されるべきものと思う。保存の方向で話を進めてもらいたいものだ。

情報提供 大本 2001/02/17

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はまちの会第1回

2000年11月10日 | 地域史
第1回例会

日 時  2000年11月10日(金)

時 間  19:00~21:00

場 所  八幡浜市総合福祉文化センター 2階ホール

内 容  ①講演「八幡浜市民の歴史的関心について」
        講師 福井太郎氏(八幡浜市文化財保護委員長)
     ②参加者による小発表・情報交換


<福井氏講演趣旨>
福井氏は、長年八幡浜市の文化財保護委員長を務められ、八幡浜史談会でも活躍されている八幡浜の郷土史の第一人者。今回のテーマは「八幡浜市民の歴史的関心について」。
これは、最近、八代にあった菊池家庄屋屋敷や、旧五十二銀行が保存されることもなく取り壊されたり、中世城郭元城も山肌が削られ、元の姿を消してしまったという、地元の文化遺産が無くなりつつあるという傾向があり、それに警鐘を鳴らす意味で、講座タイトルは決められました。
お話の中では、まず、郷土史を実践する際には、歴史学的な手法に忠実であることを強調されました。とくに、文献を基本とし、伝承を史実と扱ってしまう傾向が郷土史には、まま見られるため、歴史学的な態度からすると、文献第一にスタートすべきであることを述べられました。
次に、本題にもなるのですが、八幡浜はかつて「伊予の大阪」といわれ、栄えた町であり、様々な歴史や文化があるにもかかわらず、当時の人々は経済の繁栄に眼がいってしまい、子供や孫に地元の文化を語り継いでいこうという姿勢が弱かったのではないか。
八幡浜は今は斜陽の時期にあるが、自らの文化を振り返ることをしなければ、市の発展はなく、また、それを子供に伝えて行くことが我々大人の使命なのではないかと主張されました。
また、消えゆく地元の文化遺産の保存については、行政に対して批判的になるのではなく、それはまずは市民の問題であり、市民の盛り上がりがあってこそ、行政との関係が派生するのであって、文化財保護が危機に直面した時には、市民がそれぞれ歴史的関心を抱くことが大切だと話し、まとめとされました。
福井氏の話を要約すると以上のようなものでした。

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能登半島と愛媛

2000年09月28日 | 地域史

先日、妻が石川県に旅行に行った際に、輪島市にあるキリコ会館というお祭り博物館を見学し、その中の展示風景をビデオで撮影してくれた。キリコとは、能登半島の各地の夏から秋にかけての祭りで、神輿のお供として氏子が担ぐ巨大な御神燈のことである。キリコは切子灯籠からきた名称で、奥能登ではキリコと呼ぶが、口能登では「ホートー(奉燈)」、「オアカシ(御明かし)」と呼ぶ。祭礼の際の明かりとなる御神燈が発展・風流化したものである。
撮影されたビデオを見ていると、キリコだけではなく、石川県指定無形文化財の御陣乗太鼓も展示されていた。この太鼓は輪島市名舟で伝承されているもので、現在では観光用にホテルなどの舞台で演じることが多いという。その太鼓をたたく者は、面をかぶっているのだが、展示されているマネキンには、上着に裂織りを着用していたのである。裂織りは石川県のみならず、日本海沿岸に広く見られるので、その存在自体は珍しくはないのだが、芸能衣装として裂織りが使用されているのに少し驚かされた。
早速、御陣乗太鼓に詳しい名舟の方に連絡をとってみたところ、御陣乗太鼓ではこれといって着用しなければならないというものはなく、日常着で行っていたという。その日常着の中に裂織りもあったのではないかということであった。また、昭和40年頃までは刺し子の仕事着を山着として着用していたといい、それを太鼓で使うこともあったという。
裂織りが芸能や祭礼衣装として使用される例は、愛媛県内では西宇和郡三崎町の二名津の春祭り(2月11日)で、昭和30年代までは牛鬼を担ぐ者が着用していたというが、これは、裂織り(地元ではオリコという)が丈夫であるため、担ぐ際に肩にやさしいからだと思われる。この使用例も特に祭礼の中で伝統的で、決まりきったものではないようだ。裂織りを伝統的な祭礼・芸能衣装として使用している例が全国的に見て、あるのかどうか知りたいところである。
ところで、能登の祭礼は愛媛と同様、地域差が激しく、また豪華であり、興味が惹かれる。100カ所近くあるキリコ祭りだけでなく、七尾市や羽咋市およびその周辺地域に現在でも300カ所余りの地区で獅子舞が演じられており、獅子舞の濃厚な分布地域としても知られている。また、中能登の枠旗祭り、お熊甲祭り、総輪島塗りの山車の登場する輪島の曳山まつり(4月5,6日)、デカ山と呼ばれる巨大な山車3基が出る七尾市の青柏祭(5月3~5日)などなど。面白いのは、獅子舞が濃厚に分布する地域、キリコの盛んな地域は色分けできるようで、愛媛の東予の祭礼の太鼓台・だんじり文化圏と継獅子文化圏に類似する芸能と山車の棲み分けが見られる。(愛媛では豪華な太鼓台の分布する新居浜、宇摩郡域では、他地域に比べて民俗芸能が極端に少ないという傾向がある。これは太鼓台に力を注ぎすぎて、芸能にまで手が回らなかったということか?)
能登は京都を中心として同心円状にみると、京都からは愛媛と同距離になり、周圏論的にみると、類似した民俗事例が確認できる可能性がある。また、能登は海上交通の栄えた場所であり、かつては北前船で大坂、瀬戸内との交流もあったはずである。愛媛の側でも、詳細は忘れてしまったが、東宇和郡明浜町のある神社に石川県の者が奉納した玉垣が残っているのを見たことがある。このように能登の祭礼や民俗を眺めていくと、愛媛の文化を調査する新たな視点を見いだせるような気がしている。勝手な推測であるが・・・。

2000年09月28日

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