愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

南瀛国際民俗芸術節(Nan Ying International Folklore Festival)

2016年10月03日 | 祭りと芸能


宇和島の八つ鹿踊りが台湾へ。

いってらっしゃい!

10月14日、台南での南瀛国際民俗芸術節(Nan Ying International Folklore Festival)

岩手縣花卷市石鳥谷町春日流八幡鹿舞
江戶太神樂‧丸一仙翁團
愛媛縣宇和島市八鹿舞
麻豆保安宮十二婆姐

国立台北芸術大学の林 承緯先生が進行、解説されるとのこと。

http://nyiff.tnc.gov.tw/web/parade

以下、引用です。

愛媛縣宇和島市八鹿舞
八鹿舞為愛媛縣宇和島市指定無形文化資產,是宇和津彥神社的藝陣,每年十月份皆出陣,已有三百多年的歷史。

宇和島的八鹿舞源自宮城縣仙臺市,日本江戶時期,仙台藩主伊達政宗頗為支持八鹿舞,而伊達政宗的長子,正是宇和島藩的初代藩主伊達秀宗,因此將八鹿舞傳到了宇和島市。

團隊簡介
出陣時,表演者頭戴鹿頭飾,上半身包覆在一條連著頭飾的長布裡,身前抱著太鼓,邊打鼓邊唱歌跳舞,是屬於「太鼓舞」類型(太鼓踊り系)的鹿舞。

演出時的動作和歌詞,各地不盡相同,雖說宇和島市的八鹿舞是從東北(仙台位於日本東北)承繼而來,型態卻已有相當的差異。東北的鹿舞,鹿頭齜牙瞪目,動作勇壯威武,而宇和島市的鹿舞,鹿頭溫馴可親,動作優美纖細,音樂輕柔。表演主題則稱為「躲藏的雌鹿(めじしかくし)」,主要是在表現七隻雄鹿尋找一隻藏身在宅院裡的雌鹿,最終在樹蔭下歡喜相遇的情節。


天神花踊

2016年09月01日 | 祭りと芸能
三間町曽根の天神花踊り(県指定無形民俗文化財、太刀踊の一種)へ。

似たような芸能は高知全域と南予一帯という不思議な分布。なぜ?

今年は曇り空で見学しやすい。ひと通りビデオ撮影と、歌詞の確認ができて収穫あり。

神社での芸能なのにさりげなく「な〜むあみだ〜」とか、山伏と瞽女の問答とおぼしき歌詞があったり。

前々回は雨でうまく撮影できず、前回は猛暑で見る側もへばる。今年は比較的快適でした。

でも真剣使っているので、見る側も気が抜けず、あまり近寄らず。

さて、三間町内を散策して帰ろう。







増田の花取踊

2016年08月13日 | 祭りと芸能


昨日、今日と愛南町の花取踊(国選択無形民俗文化財)。東京から調査に来られた方々の随行。暑いのなんの。

精進潔斎して臨んでいる踊り手の方々、本当におつかれさま。見る側も気合が入る。

といっても今日午後は、ついに暑さガマンできず、かき氷食べながらビデオ撮影をしてしまった。

卯之町ブロードウェイ

2016年03月11日 | 祭りと芸能
5月28日(土)、29日(日)の民俗芸能サミット「卯之町ブロードウェイ」。歌舞伎役者の片岡愛之助さんのトークショー等のチケット販売は、4月上旬からとのことです。南予博HPより。

歴博ではそのとき、特別展「愛媛・お祭り博覧会2016」(主催 歴博・えひめいやしの南予博2016実行委員会)開催中です。


今治市菊間町のお供馬行事

2013年10月30日 | 祭りと芸能
今治市菊間町のお供馬は、加茂神社境内の馬場にて、馬に鞍や布団やさまざまな装飾具をつけて、幼児から中学生までの少年が乗り子(騎手)となって、鳥居近くからスタートして約300メートルの馬場を一気に走り込む行事である。馬を曳くのは口引とよばれる大人である。馬は丁重に扱われ、三重県の上げ馬神事のように興奮させたりする行為は見られない。なお、乗り子と口引は祭りの一週間前から毎日海に出て潮垢離をするといい、精進潔斎が求められる神事である。

お供馬が行われるのは、毎年10月第3日曜日(かつては10月10日、それ以前は10月20日)に行われる今治市菊間町浜の加茂神社の例大祭。お供馬とは、行事に参加した馬が、神輿の行列にお供してお旅所まで行くことからそのように呼ばれるが、愛媛県指定無形民俗文化財になった際に「お供馬の行事」という指定名称となり、それまでも「お供馬」の呼称はあったものの(昭和2年発行の『愛媛県に於ける特殊神事』に「御供馬」とある)、地元では「走り馬」とか「走り込み」が一般的に使われる語彙であった。対外的に観光行事としてPRする際には「お供馬」が用いられ、現在ではこれが一般名称となっている。

加茂神社のある菊間は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の荘園「菊万荘」であった。時代は応永年間頃からであり、室町時代には同神社の競馬会の費用を出していた荘園である。県、市が発行する刊行物には、地元史料に明応4年(1495)「侍競馬」の記述があり、500年以上の歴史のある行事だと地元では認識されている。実際、今年のお供馬の際の神社前での紹介アナウンスも「600年の歴史」ということを強調している。現在でも上賀茂神社の競馬会には、「菊万荘」の名前の馬が出走するが、歴史的にも京都の競馬会と関係性が深い。競馬会の費用負担と、馬の供出を行っていたとされる。

お供馬の由来について具体的に述べると、明応4年(1495)の遍照院の古文書の中に「侍競馬」が出てくるといわれる。『菊間町誌』や平凡社『愛媛県の地名』にもその記述はあるが、実は原典、出典については明示されていない。

さまざまな刊行物に「侍競馬(さむらいけいば)」が引用されが、500年以上の歴史を有すると紹介されるが、この「侍競馬」が室町時代の同時代史料としては検証が必要かもしれないことは以前から確認しないといけないと注視していた。

菊間町誌537頁(1979年)をよく見てみると「遍照院の古文書に「明応4年侍競馬白石」の文字がある。」このように記述され、その古文書が明応4年に記されたものとは確定できない書き方になっている。後世に編纂された史料に「明応4年侍競馬白石」と書かれている可能性もある表現である。引用を重ねるうちに「明応4年」が独り歩きした可能性もあり、その由来、起源は、県の文化財として、また、将来、記録作成を行う場合、確認が必要である。

なお、明応4年の数年後の文亀元年の遍照院文書(愛媛県史にも掲載されている。遍照院は加茂神社の神宮寺)に、「加茂の馬場」の記述があって、西暦1500年頃には加茂神社に馬場があったことは確実性が高いといえる。ただし、そこで現在のような「お供馬」が行われたかどうかは定かではないし、「侍競馬」が「サムライ」(武士)が行っていた「競馬(けいば)」だと解釈するのも今一度考えなおさねばならない。由緒に関する確実な史料の検討。これはどの行事にも言えることであるが、案外、わかっているようでわかっていない。

ちなみに、菊間町誌や伊予史談会郷土古文書目録に紹介されている菊間の地元史料を拝見すると、天明8年に「馬場作り」との記述があり、これは祭りの前の竹垣づくりのことのようで、その頃には既にお供馬が行われた可能性があることと、天保7年8月に「競馬」の文字あった。また、文化13年に牛鬼(うしおに)の記事が確認できる。つまり、1700年代後半~1800年代前半には現在と同じような祭りだったと推察できる。それ以前は今後の課題であり、単に「中世の明応4年からの500年の歴史のあるお供馬」であるかどうかいま一度検討を要する。

そして菊間町誌にも紹介されている遍照院文書を遍照院さんのご協力で先日拝見させていただく機会があり、閲覧、確認してみると、菊間のお供馬の「侍競馬」の記述の原典(出処)は文政9(1826)年7月21日遍照院鎮守賀茂大明神勧請謂書であった。末尾に「三永十郎左衛門記端ニ見、法佛山寛応記」とあった。「寛応」は遍照院住職で、宝暦2年10月卒、1730年頃~1752年<菊間町誌589頁より>に住職であった。それを文政9年7月21日に実順が修復した記録である。(この史料は2002年に刊行された『種の貴布禰さん―愛媛県菊間町種貴布禰神社史』に既に紹介されていました。)明応4年にお供馬が行われていたかは史料上では実証はできないが、一応、「明応4年侍競馬」の出処は確認することができた。500年の歴史というのは歴史的事実としてただちに実証はできないが、「明応から続く歴史があると言われている」という伝承レベルでの話は江戸時代後期にまで遡る可能性がある。

津山まつりとだんじり

2013年10月26日 | 祭りと芸能
岡山県津山市の徳守神社に来ています。明日は津山まつり。今晩が宵宮です。各町のだんじりが徳守神社に順次訪れています。この祭りのだんじりは岡山県有形民俗文化財に指定されているものが20台以上もあり、中国地方の屋台行事を代表するものです。1992年には『津山の祭りとだんじり』という充実した報告書も津山市教育委員会から発行されています。だんじりを有形民俗文化財として大切に継承しているのがよくわかります。(ただし、無形民俗文化財としては国、県、市いずれも未指定です。)津山まつりはだんじりだけではなく、奴行列や獅子舞などもあり、しかも江戸時代の津山藩以来の歴史のある祭りです。だんじりも江戸時代の製作のものも多いですし、18世紀には既にだんじりが出ていたようです。豊富な史料から歴史的裏付けも出来る祭礼であり、注目しています。太鼓と半鐘の音。特に半鐘の音が町中に響き渡っています。いましばらく宵祭を見て、津山から岡山へ移動する予定です。明日は別の祭礼を拝見したいと思っています。

10月30日 吉田祭りについての学習会

2013年10月16日 | 祭りと芸能
10月30日13時半から愛媛県歴史文化博物館の友の会民俗クラブで学習会。テーマは宇和島市吉田町の秋祭りについて。

吉田祭りは、今年は県の経済労働部系の助成金を活用して「おねり」の活性化を推進。観光化、商品化が進み、熱心に取り組んでいます(ただし、ちょっと暴走気味。悪い意味じゃなくて、いい意味で。)。おねり保存会には祭礼道具の修理、修繕を進めるにあたってかなり注文をいれました。江戸時代から続く要素を簡単に変えてはいけない、というスタンス。地元の方といろいろ意見が合わなかったりして、かなりきつい指摘もしました。地元のみなさん、ご容赦ください。地元からの案を全くダメだと突き返したこともありました。すいません。納得いただいた部分と、うまく意見がまとまらなかった部分もありましたが、それもほぼ終了。あとは10月末の完成披露会や11月3日の祭礼を待つのみ。地元の文化財として、いい修繕になったと確信しています。「おねり」が楽しみです。何より吉田の方々の熱意がスゴい。吉田にこんな一体感ってあったの?と町づくり、地域おこしがちょっと苦手な町民性(藩主のお膝元の小さい町はどうしてもお上頼りの気質になっていたけど、何かを「突破」しそうな勢い)に火がついた。

それもあって、歴博友の会の行事として、私が祭りのスライド上映をしながら解説します。友の会会員でない方はこの機会にご入会いただければ参加可。10月からの入会は会費も半額なので、ぜひ。平日開催ですがではありますが・・・。地元吉田では6月末の講演会で紹介した内容です。



広島県呉市の吉浦カニ祭り

2013年10月07日 | 祭りと芸能
広島県呉市。ここのお祭りは興味深いです。鬼をやぶと呼んだり、博労が出たり、だんじり(ちょうさいとも呼ばれる布団太鼓)もあったり。かつては奴行列があったり。愛媛県との比較でいえば、旧中島町の秋祭りの諸要素と共通することが多い。旧中島町つまり忽那諸島の祭りについては、東西方向の文化伝播でしまなみ海道など越智郡島嶼部とのつながり高輪半島とのつながりを第一に考えていた部分があったが、旧呉地域やとびしま海道との共通性、違いを実証的に考えてこなかった反省が少しあります。今回の呉市の祭礼調査は忽那諸島の文化領域を考える上で参考になりました。写真は吉浦八幡神社のかに祭りに出ていた神龍保存会の龍。白煙を吐いています。古写真には出てこなかった。今回確認できなかったので、いつから出ているのか今後要調査ですが。広島県は(愛媛もですが)文化庁調査事業の「祭り行事調査」をまだ実施していないので、網羅的に祭礼情報が入手しにくい状況にあります。呉市の祭礼はいまいち全体像がつかめていませんでしたが、今回、少し見えてきました。愛媛の祭礼文化を考える上では四国内のみならず山口、広島、岡山、兵庫の状況は把握しなければいけない。その作業を毎年少しずつではありますが進めています。