愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

牛鬼の額の前立は何を意味するのか?

2013年10月01日 | 祭りと芸能
宇和島の牛鬼の額にある前立。太刀受けと言われたり、月輪と言われたりするけれど、南予周縁部には日輪が多いので太刀受け説は厳しい。某報道機関から、宇和島だけに伊達政宗の前立に影響されたというのは本当か?と問合せがあったがそれはちょっと難しい。

牛鬼の額の前立のようなもの。私が考えているのは、これが雲形台と神鏡との説。つまり牛鬼は、ご神体が載せられた神輿の先駆、神様の前にいる存在であることを示す。そのための鏡とその台。これは平成12年に開催した企画展「愛媛まつり紀行」のときに南予全域の牛鬼を比較して出した説。その時にはいろいろ解説したり、書いたりしたが、神鏡、雲形台説はなかなか広まっていない。

たとえば写真の愛南町の岩水の牛鬼。これはまさに神鏡、雲形台である。その他にも西予市野村町惣川、高知県沖の島の母島などがこの形である。牛鬼の分布の周縁部にこの形が見られ、中央部の宇和島に月輪が見られる。おそらく月輪は発展系というか、簡略化されたものと思われる。宇和島の隣の吉田では月輪ではあるが丸い板に月輪を表現している。似たような事例に鬼北町清水がある。こちらは一見、月輪だがよく見ると日輪の真ん中がくりぬかれた形となっている。つまり愛南や惣川など周縁部には日輪つまり神鏡・雲形台があり、宇和島は月輪。その中間領域の鬼北や吉田には変化の途中と思われる前立が見られる、という分布になっている。これは一種の周圏論と見てもいい。

伊達政宗由来説ではない。牛鬼の出現は18世紀半ば以降である。伊達の入部からは150年以上は過ぎている。祭り自体の伝承も伊達がらみの話は聞かない。仙台から伝播したことが確実な鹿踊でさえ伊達家との直接的なつながりは見られない。宇和島や吉田の祭礼の人形屋台もいろんな物語を表現して人形や彫刻や立体刺繍幕を飾っているが、そこに藩主である伊達家に関する物語は表現しない。おそらく当時の宇和島や吉田の町人ではそれは憚られたのかもしれない。

このように牛鬼の前立が伊達政宗の甲冑に由来して、月輪型となっているという説。これはちょっと考えにくいと思い、いま一度、神鏡・雲形台説を書いてみました。

【歴史文化講座】宇和島市吉田町の秋祭り

2013年06月06日 | 祭りと芸能
吉田町の秋祭りについて喋ります。牛鬼や御車、御船、鹿踊などについて。

県の南予地域活性化特別対策本部というのがあって、南予の自然、食、文化の「ブランド化」や、いやし博以降の観光フォローアップを目指して活動中らしい。八幡浜はみかんプロジェクトですよね。あとは予土県境のリバースポーツ、宇和島のブラッドオレンジとか、みかん研究所の柑橘夏季販売実験もかな?

なんだかんだこの半年間、吉田祭りについて無形民俗文化財としての調査やら、祭り道具の修繕、修復の監修やらで慌しかったのですが、吉田祭りがこの県南予地域活性化事業に組み込まれているゆえのバタバタ感があります。今年の11月3日の祭日は多分例年以上に賑やかになるでしょう。地元も盛り上がりつつあります。

いずれにせよ地域の中での伝統が、外からの力で変容して、気づかぬうちに文化財としての価値が損なわれてしまう。そんなことが無いようにこの半年、いろいろ心くばりをしてきたつもりではありますが、さあどうなることやら。心配でもあり、楽しみでもあり。

そんなこんなで、これまで商工会などで話していたことをまとめて、市民対象でも話をすることになりました。

吉田町の活性化に少しでも寄与できれば。でも拙速にはならないように。なんかヤジロベーみたいな心境であります。

いずれにせよ、この講演の機会は自分にとってもありがたいものであります。

播磨国総社 三ツ山大祭2

2013年04月03日 | 祭りと芸能


姫路での一日(いや実質、半日でした。)の終わり。三ツ山と五種の神事を見る事ができました。天気も良く(北風が吹いて少々肌寒かったのですが)20年に一度の祭礼を実見できてほっと一安心しました。五種の神事が行われた姫路城三の丸ですが、数万人の人、人、人。人の多さに圧倒されました。そんな状況でも本日、民俗学関係の知人になんと5人も出会いました。東京、大阪2人、四国2人。すべて偶然、打ち合わせ、待ち合わせなし。びっくりすると同時に、今日は各方面から姫路に来られていることを実感しました。

先にアップした三ツ山大祭に関する興味、関心ですが、その多くは解決できないまま姫路を離れましたが、祭礼の様子は何とか把握できたので、これからまた少しずつアプローチしていこうと思っています。姫路から愛媛までの帰路もJR、行程は5時間(いま岡山県内です)。列車に揺れに揺られて本日中に帰着する予定。五種の神事で2時間半、同じ姿勢で立ちっぱなしで写真を撮っていたので足腰に披露が・・・。

播磨国総社 三ツ山大祭

2013年04月03日 | 祭りと芸能


今日は平成25年4月3日。いま愛媛からJRで兵庫県姫路市に向かっている。播磨国総社〔射楯兵主(いたてひょうず)神社〕で20年に一度行われる三ツ山大祭を見るためである。20年に一度ということなので、次回は平成45年。西暦では2033年。次は私の気力、体力からすればもう行かないかもしれないし、生きていないかもしれない。次々回の2053年は確実にあの世だろう。今回を逃すと二度と見ないかもしれないという思いもあって、年度始めに職場からお休みをいただいて、早朝から姫路に向かって移動中である。

今日3日を選んだのは理由がある。三ツ山大祭は3月31日の宵宮にはじまり、4月7日まで行われる。今日が中日であり、午後2時から姫路城三の丸で五種の神事が行われ、造り山の「三ツ山」だけではなく、種々の祭礼の要素を実見できるのだ。(これが雨天だと4日に延期だった。何とか朝に雨があがってよかった。延期ということは私にとっては20年後いや永遠?を意味するので一安心だった。)

三ツ山大祭に興味がある理由はいくつかある。一つは、この祭りの起源伝承が愛媛県(伊予国)にも絡んでくる藤原純友と関係があることだ。平安時代10世紀に瀬戸内海で起きた藤原純友の乱を鎮定するために播磨国総社で臨時に行われた天神地祇祭がその始まりと伝えられる。史料的には実証は難しく、伝承の域を出ないが、播磨国総社が延喜式の式内社であることや、三ツ山大祭の諸要素のうち、造り山や一ツ物などは、播磨国総社では中世以降に見られるようになったが、畿内一円で眺めてみると平安時代に延源を求めることのできるものであり、藤原純友の時代と重なってくる。全くの荒唐無稽な伝承という扱いではなく、それなりの歴史性を踏まえて成立した伝承である可能性があり、注目している。

もう一つ注目するのは「山」である。山といえば本来自然の山を指すが、その山を模したのがこの三ツ山大祭の山である。自然の山はそれ自身がご神体になったり、神が住まうとされる聖なる場所である。いまでは一般的には神社の本殿に鎮座する神であるが、山を遥拝し、崇拝するのが日本人の古い信仰観であるという考え方がある。その自然の山を神社祭礼で模して人工的に造る「造り山」が平安時代から見られ、代表的なものに京都の祇園祭の「山鉾」がある。姫路の三ツ山は造って置く形の「置き山」である。祭礼の造り山をタイプ化すると、「置き山」の形式が古く、それは発達して曳いて動かす「曳山」になる。京都祇園祭の山鉾はこの「曳山」タイプである。これがまたかついで移動させるタイプの「かつぎ山」がある。これは姫路では屋台と呼ばれ、愛媛などでは太鼓台と呼ばれる布団太鼓などがある。これらのもともとの形式は「置き山」だったという考え方である。

しかし、肝心の「置き山」である三ツ山大祭に関する史料を見ると、そう簡単には説明ができない。室町時代の大永元(1521)年の祭記事が『惣社記事略』にあるが、それには「装山の車一基」とあって車の付いた曳山形式であった。その後、天正4(1576)年の『惣社集日記』に現在のような置き山形式になったことを示す記述がある。つまり「置き山」から「曳山」へという発展形態は、実際の祭礼史料からは証明が難しいのである。この矛盾が自分にとっては興味深く、また山、屋台(太鼓台、だんじり)となると四国では徳島宍喰に祇園系の山があり、新居浜市、四国中央市、西条市などに祭礼屋台の文化が根付いており、愛媛とその周辺の祭礼文化を考える一つの指標となりうる。これが三ツ山大祭に注目する理由である。

なお、実際の自然の山を三ツ山と称する祭礼が播磨にある。宍粟市一宮町の伊和神社「三つ山大祭」である。播磨国総社の「造り山」としての三ツ山と、伊和神社の自然の山の三つ山。この関係性、歴史性はどうなのか。気になるところである。

三ツ山は、二色山、五色山、小袖山のことであるが、大きさは18メートル、直径10メートルである。二色山は白と浅黄の色の布、五色山は青、黄、赤、白、紫の布が巻かれ、小袖山には寄付された小袖(着物)が飾り付けられる。前回の平成5年の時は880着の着物が集まったが、今回は2000着を越えているという。この小袖を飾り付ける文化は江戸時代的でもあり、おそらく中世には遡らないものだと思う。二色、五色山のデザインは中世以前でもありうるだろうが、小袖の出現自体が安土桃山時代以降であるから、比較的新しいものともいえる。しかし、なぜここまで小袖が集まるのだろうか。平成に入っての二回を比べても集まる着物の数が違う。この変化に興味を覚える。それは祭りの主催者の着物収集の努力の賜物なのか、着物を放出しても構わないと思う人が増えた(1、着物を飾ってほしいと思う人が増えた。2、特段、着物に愛着を持たない世代になって、家に眠る着物を手放すことに抵抗がなくなった。さてどちらなのか)などなど着物に対する意識の変化があったのだろうか。この現代性だけではなく、植木行宣先生が「小袖は形代であり、それを山に掛けることで穢れを払おうとした」(「三ツ山の特色」『BanCal』No.86,2013年冬号)と述べているように、京都祇園祭の山鉾のように疫神を鎮めて送る心意に似たものがあったのだろうかと知りたいのである。祭りとケガレ、着物とケガレ。これが植木先生のご指摘どおり確認できるのか興味がある。

あと三ツ山大祭で興味深いのは五種の神事である。競馬、一ツ物(鳥の羽を挿し市女笠を着ける女子。馬に乗る。)、神子渡り(千早と烏帽子を着け、手に鈴と檜扇を持つ女子)、弓鉾指(立烏帽子に素袍を着け、錦の袋に入れた大弓を持って徒歩で一周する)、流鏑馬。以上の五種類の神事がある。

また、今回は昭和28年以来の「造り物」が復活する。造り物は愛媛でも伊予市、中山町、内子町などに見られ、江戸時代後期以降に西日本の町(都市)の祭礼を賑わすものとして流行した。三ツ山大祭でも江戸時代18世紀半ば以降に、趣向を凝らした造り物の記録が見られる。今回は高校生(美術工芸部やデザイン科)の協力で「宮本武蔵の妖怪退治」や「播州皿屋敷」などのストーリー性のある造り物が登場していると聞く。それを実見できる楽しみがある。

さて、そろそろ姫路に近づいてきた。パソコンを閉じて、三ツ山大祭へいざ出陣。



【参考文献】
小栗栖健治「播磨国総社の三ツ山大祭と城下町・姫路」(『BanCal』No.86、2013年冬号、(公財)姫路市文化国際交流財団発行)
植木行宣「三ツ山の特色-ヤマ・ホコの変遷から」(『BanCal』No.86、2013年冬号、(公財)姫路市文化国際交流財団発行)
久下隆史「五種の神事-中世の祭礼芸能の継承-」(『BanCal』No.86、2013年冬号、(公財)姫路市文化国際交流財団発行)
西岡陽子「城下町の賑わい 総社臨時大祭の造り物」(『BanCal』No.86、2013年冬号、(公財)姫路市文化国際交流財団発行)
郡司正勝「山と雲」(『現代思想』10-9、1982年のち『風流の図像誌』1987年、三省堂発行)







12月16日 愛媛の文楽 合同公演大会

2012年12月14日 | 祭りと芸能
文楽(人形浄瑠璃)に興味のある方にオススメ。


第54回愛媛県文楽合同公演大会。

明後日の12月16日(日)13~17時。

西予市にある愛媛県歴史文化博物館にて。

入場料は当日券1000円。


出演団体と外題(演目)は、

1 鬼北文楽(北宇和郡鬼北町、寿式三番叟)
2 三瓶高校文楽部(西予市三瓶町、壷坂観音霊験記 山の段)
3 伊予源之丞(松山市、祝い大漁 戎舞)
4 朝日文楽(西予市三瓶町、絵本太功記 尼ヶ崎の段)
5 大谷文楽(大洲市肱川町、玉藻前曦袂 三段目 道春館の段)
6 俵津文楽(西予市明浜町、生写朝顔話 宿屋の段、大井川の段)


愛媛の文楽(人形浄瑠璃)を一挙に見ることのできる年に一度の機会です。

宇和島の八ツ鹿踊りの歴史

2012年10月24日 | 祭りと芸能
先日21日午前、宇和島市の宇和島結人プロジェクトで牛鬼、鹿踊について少しだけ話をしたが、牛鬼そして南予鹿踊に関する江戸時代の確実な史料はどのくらいあるのか紹介してみた。

慶安2(1649)年に今の宇和津彦神社祭礼が始まっているので、そこに八ツ鹿踊りや牛鬼が登場していたと考えてみたいものであるが、それを裏付ける史料は今のところ確認されていない。

牛鬼は天明年間より前の史料は確認できないため、推測であるが18世紀半ばに宇和島の祭礼に取り入れられたものではないかと私は考えている。

鹿踊については、2000年8月30日付で私は「宇和島・鹿踊りの始まり」という一文を「愛媛の伝承文化」に掲載しているので、そちらをご参照いただきたい。(ここに再掲しておきます)

「宇和島・鹿踊りの始まり」
平成5年2月11日付のうわじま新聞に宇和島の鹿踊に関する記事が掲載されている。これは当時の宇和島市立歴史資料館の山口喜多男館長が執筆したもの。その中で龍光沙門伝照(龍光院第六世院主、宝暦四年、66歳没)の旧記なるものが紹介されている。「宝永三年(一七〇六)、星霜五十七回を経て鹿頭悉く破損。時の町会長・今蔵屋與三右衛門隆久(旧裡町三丁目、長瀧氏)、紺屋忠大夫(旧裡町四丁目、山崎氏)、町内の有志に諮って修理。鹿頭等十体。不朽に後裔に貽す」以上がその内容である。1706年の段階で、すでに57年前、つまり、宇和島の一宮祭礼の始まった慶安2年(1649)に鹿踊が登場していたことを証明する史料ということになる。私は先日発表した南予鹿踊に関する論文「南予地方の鹿踊の伝播と変容」(『愛媛まつり紀行』、愛媛県歴史文化博物館、2000)では、この史料を取り上げることができなかった。というのも、原典が確認できなかったのである。山口氏は故人となり、直接お話をうかがえなかったため、直接、龍光院に問い合わせてみたものの、この史料自体、昭和11年に焼失しており、寺側でも史料の内容がわからないらしい。どこかに写本があるのだろうと思って、方々探してみたが見つからない。果ては宇和島の近世史料に最も精通している松山大学の先生にも聞いてみたが、写本の存在はご存じなかった。このようなわけで、内容的には興味深いが、一次史料としては使えず、論文では取り上げることができなかったのである。論文では、18世紀半ばの宝暦年間には宇和島藩領内各地に鹿踊が伝播しているので、18世紀前半以前に鹿踊が仙台から取り入れられたと結論付け、17世紀半ばの慶安年間に宇和島に鹿踊が存在した記録は確認できないと記した。龍光沙門伝照の旧記が写本でもよいので、確認することができれば、結論は変わってくる。さて、この史料の内容から推測できるのは、慶安2年の一宮祭礼の始まりとともに鹿踊が登場していたこと、さらには「鹿頭等十体」とあることから、鹿の頭数を考えるヒントになると思われる。十体とは、裡町三丁目と四丁目の各五体の合計とも考えられるし、八つ鹿の8体プラスその他の頭2体ということも考えられる。実際、現在の鹿踊でも、子供の扮する兎が出る所もある(瀬戸町三机の事例)。ただし、宇和島の鹿踊は江戸時代末期以前の記録から、五ツ鹿であったことが証明されているし、八ツ鹿になったのも大正11年と近代になってからであることから、やはり5体の2セットの計10体と考えるのが妥当だろう。以上、原典が確認できないものの、興味深い内容の史料からわかることを、ここで紹介してみた。

以上が再掲である。鹿踊は、実際に慶安2(1649)年に東北地方から宇和島に伝播して祭礼の練物として登場していた可能性がある。この文章を書いてから12年経ったが、この龍光沙門伝照の旧記に関しては、未だ何の進展もない。実に恥ずかしい限りである。

さて、この一文にも書いたように江戸時代後期には、絵巻を見ると宇和島の鹿踊は五頭立てで、いわゆる「五ツ鹿」であった。これが「八ツ鹿」になった経緯についてはこれまでも何度か紹介しているが、『愛媛県に於ける特殊神事及行事』(昭和2年)に「近年五ツ鹿ト称シ五人ノ少年鹿ノ仮面ヲ被リ舞踊セシヲ大正十二(ママ)年十一月 皇太子殿下行啓アラセラルルニ際シ古式ニ則リ三頭増シテ八ツ鹿トナシ台覧ニ供シタリ」とあり、もともと宇和島の八ツ鹿が五頭立てであったことがわかる。宇和島市立伊達博物館所蔵の宇和津彦神社祭礼絵巻(江戸時代後期の祭礼の様子を描いた絵巻)にも五ツ鹿で描かれている。また、現在、宇和島市指定有形民俗文化財となっている安政4年製作の鹿踊の頭(かしら)も5頭であって8頭分は無い。

ただし、木下博民先生が2009年に著した『八つ鹿踊りと牛鬼』(創風社出版)67頁に、昭和44年当時、八ツ鹿保存会の会長であった曽根政一郎さんの記したメモが紹介されている。

安政4(1857)年6月、それまで使われていた八つ鹿踊りの諸道具が大破したので、五ツ鹿として再調整したという。町民住民の経済的負担困難のため、五ツ鹿に縮減したと記されているらしい。

私は未だこの曽根さんのメモを実見していないのだが、非常に興味深い記述である。私は単純に江戸時代は絵巻に描かれているものも、残っている頭(カシラ)も5頭であり、大正時代、東宮(皇太子)が宇和島に来た際に、五ツ鹿から八ツ鹿に変えたとあるので、江戸時代は五ツ鹿であると考えていたが、そんな単純なものでもないようだ。この点も調べを進めないといけない。

ただし、江戸時代に宇和島から伝習した西予市宇和町小原のように五ツ鹿が宇和島周辺に広く一般に見られ、八ツ鹿は西予市城川町窪野のように江戸時代文政年間に八ツ鹿にしたという特別な事例とそこからの伝播した地区以外には八ツ鹿が皆無であることは気になる点である。江戸時代に宇和島が八ツ鹿であれば、周辺部にもっと八ツ鹿が残っていても不思議ではない。

さらに、今月、西条市総合文化会館から刊行された福原敏男先生『西条祭絵巻-近世伊予の祭礼風流-』に掲載された「宇和津彦神社祭礼絵巻(末広本)」には五ツ鹿で描かれている。この末広本は嘉永2(1849)年の制作で、曽根メモにあるように安政4(1857)年以前は八ツ鹿だったという内容と矛盾する。この江戸時代の頭数問題は、これからきちんと整理して考えないといけない課題である。

さて、『郷土趣味』という大正時代の雑誌があり、そこに宇和島八ツ鹿踊りのことが少し紹介されている(水島兎人「伊豫宇和島八ツ鹿踊」『郷土趣味』第4巻第3号大正12年3月発行)。

それを意訳すると、

例年京の春を飾る都踊が4月1日から催される。
昨年東宮殿下南豫行啓の時鶴島城下天赦園にて台覧に供した八ツ鹿踊を、
本年度東宮御成婚の祝賀にと上演することとなった。
二荒伯と吉田初三郎の尽力で
2月13日祇園歌舞練場に宇和島の人々を招き
識者都踊関係者に試演してみせることになった。
多くの著名な踊の師匠達の手により舞妓連に如何に振り付けされようか
あの広い都踊の舞台で鶴島城を望んだ天赦園の秋色の背景は
実地を写された吉田氏(初三郎)の手にてできそうである。
南豫の一角に人に知れなかったこの八ツ鹿踊が、
都踊の呼ものとなり、
多くの人々に知らしめる事は宇和島の人々にとって
其の郷土の誇りでなければならぬ。


この『郷土趣味』からわかることがいろいろある。

まず、大正11年11月に東宮行啓で披露した八ツ鹿踊りは、もう早速翌年2月13日に京都祇園歌舞練場に行って試演しているのである。行啓が11月26日だったから実質2ヵ月半という早さである。

その試演に尽力したのが「二荒伯」と「吉田初三郎」。吉田初三郎はあの著名な鳥瞰図絵師。大正時代に宇和島の鳥瞰図も描いている。そして二荒伯というのが、伯爵の二荒芳徳(ふたらよしのり)である。二荒芳徳は宇和島行啓の前年の殿下欧州巡遊時に側近秘書官を務めた人物で、旧宇和島藩主の九代宗徳(むねえ)の九男でもある。彼らの尽力があって京都での試演となったのである。

そしてその直後の4月1日からの京都の都をどりで、八ツ鹿踊りが上演されることになったのである。大正12年のことである。

気になるのが、「多くの著名な踊の師匠達の手により舞妓連に如何に振り付けされようか」という一文である。舞妓が八ツ鹿踊りを演ずることになるが、それは宇和島で踊られていたそのままの芸態ではなく、「多くの著名な踊の師匠達の手により」舞台用に改変させられているのである。この点は、この都をどりの舞台でのことだけであったのか。この舞台での改変に影響されて、それまでの八ツ鹿踊りの芸態に変化は無かったのか。それは気になる点である。実際、現在の宇和島八ツ鹿踊りは他の周辺地域の鹿踊と比べると、優美、繊細で芸術的な印象を受ける。この京都での踊りの師匠による影響は無かったのか。これについても明らかにすべき課題である。

以上のように、牛鬼や鹿踊については、わからないこと、明らかにすべきことが数多くある。宇和島結人プロジェクトが軌道に乗りつつあるので、地元の多くの方々にいろいろと調べていただいて、これらの課題が少しでも解決できることを願っている。



広島県因島土生町の秋祭り

2012年10月22日 | 祭りと芸能
10月21日は、広島県因島土生町の秋祭りでした。何年も前から一度は見てみたい祭礼の一つでした。昼間の宇和島でのお仕事を終えて、急ぎ因島へ直行。夕方からが賑やかな行事なので、何とか間に合いました。神社は大山神社。団車(だんじり)と曵舟が勇壮な祭礼で、獅子舞も奉納されます。

団車(だんじり)は、三台登場します。破風屋根なので、一見、瀬戸内海島嶼部に多い破風屋根の曳き屋台のようですが、構造は布団太鼓屋台と似ています。屋根が重ね布団ではないのですが、四本柱の中央に太鼓を据えて、これを叩きながら、差し上げりたりする。車は近年のものであり、担ぎ屋台の一種です。

このような「担ぎ」を基本とする太鼓屋台は、ここ因島でも、だんじり(表記は因島では団車)と呼ぶのですが、隣の生名島や弓削島でもやはり「だんじり」と呼ばれる布団屋根の屋台があります。「だんじり」というと、愛媛では西条市のだんじりの印象が強烈ですが、これもだんじりなのです。新居浜、四国中央市の方からすれば「太鼓台と呼ぶべき?」とも思うかもしれませんが、瀬戸内海島嶼部では、これを「太鼓台」とは呼ばずに「だんじり」と言っています。

ちなみに神輿を担ぐ際には掛け声が「ちょうさ」でした。香川県の方からすれば「ちょうさ」といえば太鼓台。こちらは神輿の掛け声となっています。やはり「ちょうさ」は瀬戸内全般で、神輿、屋台等をかつぐ際の一般的な掛け声と見ていいのでしょう。



獅子舞も太鼓、笛、カネの囃子で、子どもの演じる「獅子止め」の役が見られます。因島からそう遠くはない大三島の獅子舞に似ていました。愛媛では大三島型というように分類していましたが、広島県側の獅子舞の分布も押さえた上で、大三島、因島型獅子舞の分布域を確認する必要を感じました。


川之江の中所獅子舞

2012年10月17日 | 祭りと芸能
四国中央市川之江の秋祭り。川之江町長須のうち中所と呼ばれる地域で長らく伝承されている獅子舞です。もともとは香川県荘内半島の生里から伝播したという言い伝えがあるようですが、四国中央市や新居浜市、西条市のように太鼓台、だんじりが豪華絢爛に登場する祭礼では獅子舞は少ないのです。川之江の秋祭りではここ中所の獅子舞のみです。保存会の方々からお話をうかがっていると、太鼓台ではなく、獅子舞を継承する!長く継承している地元の方々の獅子舞への心意気を強く感じました。東予地方は太鼓台、だんじりが多くても、民俗芸能が少ない地域です。この中所の獅子舞が貴重な無形民俗文化財だと改めて感じさせられました。

秋祭りのお多福 西予市野村町

2012年10月14日 | 祭りと芸能
本日行われた野村町野村の秋祭り。阿下地区からお多福と助夫。この面は張り子細工。和紙を張り重ねて作られています。いまから7、8年前に新調したが、それまで使用されていたものは江戸時代の製作で、宇和島城下の森田屋礒右衛門の作。現在、愛媛県歴史文化博物館にて保管しています。このお多福には特に芸態があるわけではありませんが、家々を回っては、福をもたらすといいます。ちなみに持っている棒は、陰、陽を表すとされています。愛媛でもお多福が神社祭礼の練りの一つに出るというところは類例がありません。江戸時代から行われている野村の祭りの伝統であり、特徴といえます。

西予市野村町の牛鬼

2012年10月14日 | 祭りと芸能
野村町野村の牛鬼です。表情が宇和島地方の牛鬼とは異なります。野村町、城川町、肱川町周辺に似たような形相の牛鬼が分布しています。






※gooブログは、写真をアップロードすると320×240ピクセルにファイルサイズが自動圧縮されてしまいます。オリジナルサイズでアップする方法もあるのですが、今のデジカメで撮った写真、ファイルサイズが大きすぎて、オリジナルアップだと画面からはみ出てしまいます。ためしに、640×480ピクセルに加工してアップしてみました。それがこの写真です。写真が小さくて見づらいということでしたので、ちょっと試してみます。

西予市野村町の四つ太鼓(太鼓台)

2012年10月14日 | 祭りと芸能
今日は西予市野村町野村の三島神社の秋祭りでもありました。こちらの祭りもにぎやかです。まずは四つ太鼓(いわゆる太鼓台)です。



※gooブログは、写真をアップロードすると320×240ピクセルにファイルサイズが自動圧縮されてしまいます。オリジナルサイズでアップする方法もあるのですが、今のデジカメで撮った写真、ファイルサイズが大きすぎて、オリジナルアップだと画面からはみ出てしまいます。ためしに、640×480ピクセルに加工してアップしてみました。画面上、横幅640ピクセルが最大のようです。これ以上となるとはみ出してしまいます。画像アップする際にその都度640ピクセルに加工するのは面倒だなあ。gooブログさん、なんとか写真アップのサイズ仕様を数種類選択できるようにしてもらえたら助かりますね。

西予市三瓶町の牛鬼

2012年10月14日 | 祭りと芸能
明日10月15日は西予市三瓶町の秋祭りです。牛鬼に四つ太鼓などが勇壮に鉢合わせをする豪快なお祭りです。去年は雨がひどくて鉢合わせはありませんでした。祭りの責任者が危険と判断したためとうかがいました。危険を回避させる祭りの執行、運営ができていることに感心したものです。勇壮は鉢合わせが暴走しないための祭りの仕組みにも興味を持ちました。写真は、以前使用されていた牛鬼の頭(かしら)です。

宇和島市の太鼓台「ヨイサ」

2012年10月14日 | 祭りと芸能
10月14日。午前中に宇和島市長堀の三島神社に参拝してきました。秋の例大祭。牛鬼やヨイサ(四つ太鼓、太鼓台)、唐獅子などを拝見することができました。唐獅子の囃子、そして囃子屋台が興味深く、愛媛の獅子舞についてもう少し歴史性や地域性をきちんと把握しないといけないと思いました。南宇和の獅子舞、西宇和の獅子舞との比較の必要性です。宇和島藩領内で江戸時代、明治時代と獅子舞がどのように伝播してったのか。写真は、ヨイサ。いわゆる太鼓台です。「千秋楽じゃ、万歳楽じゃ」と乗り子が言いながら太鼓を一所懸命に叩いていました。午後の神幸祭や夕方の走り込み(これも宇和島独特の神輿行事ですね)もありますが、所用で午前中で帰宅しました。