愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

西予市明浜町「うど貝」再考

2004年04月14日 | 生産生業

本日、日本テレビの昼の番組の中で、西予市明浜町の「うど貝」料理が紹介されたようだ。各地に伝わる健康食品として取り上げられたらしい。「うど貝」については以前、このホームページで「うど」の語源を紹介していることもあり(2000年5月17日付)、流石は全国放送!健康食品となると興味を惹かれる方が多いようで、今日のホームページの来訪者も通常と比べて尋常じゃない。しかも「うど貝」に関する問い合わせメールが夕方までに5通も来ていた。
そのメールの中で、「うど」の語源について的確なご指摘をいただいたので、以前の掲載文の補足・修正をしておきたい。
そもそも「うど貝」とは、西予市明浜町高山付近の海岸で採れる貝で、石灰岩の中に自ら穴をつくり、そこに寄生する貝である。これを、味噌汁の中に入れたり、そのまま網焼きにすると美味で、地元独特の料理である。明浜の高山はかつて石灰を切り出す基地になっていたため、海岸に石灰岩が多く、そこに「うど貝」が自生しているのである。石灰産業の従事者が、仕事の合間に食べていたといい、産業と食文化の発達が絡み合う珍しい事例といえる。
以前、私が紹介した語源説は、次のようなものである。
「『うど』とは、『うつ(空)』が変化した語のようである。『続無名抄』という江戸時代の随筆に米が空っぽになることが『コメウトニナル』と表現されている。現在の方言を調べてみると、山口県祝島、徳島県美馬郡、愛媛県、高知県幡多郡、大分県など、四国から九州にかけての地域では洞穴のことを『うど』と呼んでいる。愛媛県中島町では『うどあな』ともいっている。東海地方になると、うどは川岸のえぐれているところをさすらしい(日本国語大辞典参照)。これら古語、方言をかんがみ、『うど貝』を漢字で表現するとすれば『空貝』となろうか。」
本日、ご指摘いただいたメールは、「うつ(空)」というより「うろ(洞)」ではないか、という内容であった。恥ずかしながら「うろ」についての知識がなかったので、私は「うつ」が訛って「うど」になったのかと考えたのだが、再度『日本国語大辞典』を眺めてみると「うろ」から「うど」になったと考える方が適当だと思えるようになった。
「うろ」は江戸期の代表的な辞書である『和訓栞』に「俗に老樹の空洞河中なとの洞窟をもいへり」とある。鈴木牧之の随筆『北越雪譜』にも、熊の住処の窟を「ウロ」と表記している。方言としても、関東地方から九州地方にいたる広い範囲に「うろ」はほらあな・空洞を指すものとして分布している。発音的にも「うつ(空)」よりも「うろ」が「うど」と訛りやすいこともあり、「うど貝」の「うど」は、空洞を示す方言「うろ」から来ているといえるだろう。
さて、さらに考えたくなるのが、その「うろ」の語源だが、はっきりしない。ただ、『俚言集覧』に、ウツロ(空)の略ではないかと紹介されているように、「うつろ」が訛って「うろ」になったのではないだろうか。さすれば、「うつろ」→「うろ」→「うど」という流れであり、もともとは漢字で表記すれば、やはり「空」ということになる。しかし、「うど貝」を漢字で表記するには「空貝」というより「洞貝」としたほうが、より具体的で、的確といえるだろう。間違いない!

2004年04月14日

義農作兵衛

2004年03月23日 | 生産生業

作兵衛(さくべえ)は、元禄元(1688)年、伊予国松山藩筒井村(現松前町)の貧しい農家に生まれました。少年の頃より昼は田畑を耕し、夜は遅くまで草鞋を作るなど、昼夜一心に働いて、村の人は作兵衛を若い者の手本だと思っていました。
そのうち、家の暮らしも次第に楽になり、地味が悪いながらも少しばかりの田地を買うことができました。作兵衛は勇んで村役人のところへ行って、買った田地の所有手続きをしました。村役人は作兵衛の買った田地が、地味の悪い痩せた土地なので、収穫は少ないだろうと考え、税を納めさせるのは気の毒に思いました。しかし作兵衛は「どんな土地でも苦労して一生懸命に耕せば、必ず良い田地に仕上がり、多くの米を収穫することができるはずです。」と言いました。作兵衛は前にもまして農作業に精を出し、実際に良い田地に仕上げ、多くの収穫を得ました。痩せた土地を数年で見事な田地に変えたのです。その上に、他にも良い田地をたくさん買うことができました。
さて、享保17(1732)年、松山藩は大変な飢饉(ききん)に見舞われました。長雨と洪水につづいて、ウンカという害虫の発生がものすごく、稲をはじめ雑草まで食い荒らす有様で、米の収穫はごくわずかでした。農民たちはわずかに蓄えていた雑穀、くず根、ぬか類を食べて、飢えをしのいでいましたが、それさえもなくなり、餓死する者が数え切れないほど出てきました。
9月に入り、次第に涼しくなって麦をまく季節がやってきました。飢饉のため、田畑を捨てて離散する者も多かったのですが、作兵衛は、飢えの中、倒れそうになる体をふるいおこし、麦畑に出て、耕作をはじめました。けれども、あまりの飢えと疲労のため、その場に倒れてしまいました。近所の人に助けられ、ようやく家に帰ることはできましたが、起きあがることができなくなり、麦俵を枕にして寝込んでしまいました。
 このみじめな有様を見た近隣の人々は、その俵の麦を食べ、命を長らえるようにすすめました。すると作兵衛は「穀物の種子を播いて収穫を得て、租税として納めるのは民の務めである。これにより国の人々は生活ができるのである。しからば、穀物の種子は、自分の命に以上に貴重なものなのだ。民は国の基本であって、種子は農事の基本である。今もし、私一人がこの麦種を食して、数日の生命をつなぎ得たとしても、来年の麦種をどこから得ることができるであろうか。わが身はたとえ、ここに餓死すとも、この麦種によって幾万人かの生命を全うすることは、もとより私の願うところである。」と告げて、不帰の客となりました。享保17年9月23日のことで、全国的な「享保の大飢饉」の真っ只中の出来事でした。
 翌年、村の人々は作兵衛の残した種麦を、一粒一粒祈りを込めながら播いていきました。この話を伝え聞いた松山藩は年貢を免除し、村人は飢饉の苦しみから脱することができました。
そして作兵衛の死後44年を経て、安永5(1776)年に、松山藩主松平定静は、彼の功績を後世に伝えるため、碑文入りの墓石を建立しました。その後も作兵衛の尊い犠牲の精神は人々に語り継がれ、明治14(1881)年には、伊予郡の人々が作兵衛の祀る「義農神社」をつくり、その世話をする「義農会」もできました。種麦を枕に死んでいった作兵衛の銅像も建てられ、毎年4月23日にはそこで地元の人たちが義農祭を行っています。
(出  典)森恒太郎『義農作兵衛』(内外出版協会、明治42年)
(参考文献)『松前町誌』(松前町役場、昭和54年)
『愛媛子どものための伝記』第4巻(愛媛県教育会、昭和58年)
(追記)作兵衛といえば、種麦を残して餓死した逸話がクローズアップされているが、戦前の修身の教科書に取り上げられてるのは、種麦の話ではなく、本文前段に取り上げている、痩せた土地を懸命に耕して見事な田地に変え、多くの税を納めることができたという話が中心である。義農作兵衛の逸話の趣旨が時代とともに変わっていることも興味深い点である。

2004年03月23日

いも地蔵-下見吉十郎の旅-

2004年03月23日 | 生産生業

「いも地蔵」は、江戸時代に甘藷(さつまいも)を瀬戸内海の島々に伝えた功労者である下見(あさみ)吉十郎(1673~1755年)を祀った、石造の地蔵菩薩像です。現在、越智郡上浦町瀬戸の向雲寺(こううんじ)境内にあり、台石の左面には「下見吉十郎」の文字が刻まれています。
 この吉十郎は、瀬戸村の生まれで、先祖は名族河野氏の出と言われています。吉十郎には妻と2男2女の4人の子供がいましたが、全員、早死にしてしまいました。嘆き悲しんだ吉十郎は、正徳元年(1711)、37歳の時に、六十六部廻国行者となって日本全国を回国行脚の旅に出ました。六十六部廻国行者とは、書き写した法華経を全国66ヶ所の寺院などの霊場に、一部ずつ納めて回る巡礼者のことです。
瀬戸村から旅立った吉十郎は、広島の尾道を経て、京都、大坂方面をまわり、九州に下りました。同年11月22日に、薩摩国(現鹿児島県)日置郡伊集院村を訪れ、そこで、土兵衛という百姓の家に宿泊させてもらいました。その際、薩摩地方で栽培されている甘藷をご馳走になりました。薩摩ではこの芋のことを琉球(沖縄)方面から伝わったとして「琉球芋」と呼ばれていました。土兵衛からは、甘藷は栽培方法が簡単で、主食にもなり、しかも悪い土壌でも育つので飢餓に耐えることのできるものであることを教えてもらいました。
吉十郎の故郷である瀬戸内海の島々は、平地が少なく、ひとたび水不足や洪水があると作物のあまり穫れなくなる所だったので、土兵衛に、ぜひこの甘藷の種芋を分けてほしいと願い出ました。食糧不足で悩む瀬戸内海の島々でこの甘藷を栽培することができれば、飢餓に苦しむこともなくなると考えたのです。
ところが、薩摩藩では甘藷を国外へ持ち出すことは、かたく禁止されていました。もし見つかってしまうと重い刑罰をうけなければならなかったのです。土兵衛には断られましたが、吉十郎は危険を覚悟で、ひそかに種芋を故郷に持ち帰える決心をし、種芋を携えて無事帰郷することができました。
翌年の春を待って種芋を植え、試しに苗を作ってみました。最初は、収穫があるかどうか、村人も半信半疑でしたが、やがて秋になると甘藷は豊作で、村人は大変喜びました。
こうして瀬戸村からはじまった甘藷栽培は、瀬戸内海の島々に広がっていき、農民はこれによって幾多の干害を切り抜けることができました。なかでも、享保17年(1732)に西日本でおこった大飢饉の際、松山藩では多くの餓死者が出たと伝えられていますが、この地方では、ほとんど餓死者を出すことはありませんでした。吉十郎の持ち帰った甘藷が人々を救ったのです。
後に、江戸幕府は、青木昆陽が江戸の小石川薬園で甘藷を栽培した後、幕府は飢饉の対策として、全国に甘藷の栽培を奨励しました。薩摩で「琉球芋」と呼ばれていた甘藷は、こうして全国に広まり「薩摩芋」と呼ばれるようになり、人々を飢饉から救いました。
吉十郎は80歳で亡くなりましたが、死後、瀬戸村の向雲寺に葬られました。この寺では、彼の業績を追慕して「いも地蔵」がつくられ、毎年命日の旧暦9月1日には供養祭「いも地蔵祭り」が営まれています。
(出典)『愛媛子どものための伝記』第4巻(愛媛県教育会、昭和58年)
(参考文献)木村三千人『さつまいも史話』(創風出版社、平成11年)
(追記)以上のいも地蔵・作兵衛・アメリカ移民の3話は、『伝えたいふるさとの100話』(地域活性化センター発行)の掲載候補として執筆・提出した文章である。このうち、いも地蔵・作兵衛が100話に選定された。文章はリライトされて掲載されているので、ここでは提出文を原文のまま掲載した。

2004年03月23日

新宮村の「縄文的文化」

2001年03月30日 | 生産生業
 最近、四国山地の各所を重点的に歩いている。3月16日には上浮穴郡面河村相ノ木に出向いてトチの実をアク抜きして実食していた食文化について聞き取りを行った。地元ではトチモチといっており、縄文時代の遺物からも推定されているドングリ類の食文化との繋がりを視野に入れながら、調査をしている次第である。
 そして3月21日には宇摩郡新宮村に出向いた。そこでは、稗や蕎麦、救荒作物としての彼岸花、カシの実など様々な情報を得ることができた。これらを直接的に縄文文化に繋げることはできないが、縄文時代から連綿と続くであろう「縄文的文化」としてとらえ、以下紹介してみたい。(ただし、玉蜀黍や唐芋など歴史時代に入ってからの作物もあるが、これも併せて紹介しておく。)
内容は『新宮村誌』の記述および、その補足として聞き取りしたものである。

主食
 主食糧は、唐芋・蕎麦・稗・玉蜀黍・粟・黍・麦などで、それらのものを唐臼や水車で搗いたり、石臼でひいたりして、粉・団子・餅・雑炊・粥などにして食べることが多かった。
 米を食べるようになったのはずいぶん後のことであり、それも少しだけそれらに混ぜて食べるくらいだった。米食だけになったのは少し前のことである。
<唐芋>
 唐芋は干魃にも強く、以前は農家の主食だった。唐芋を輪切りにして乾燥したものをシラボシといい、それを唐臼で搗いて細かくなったものを、石臼でひいた粉をお茶で練って食べる。唐芋を輪切りにしたものに穴をあけ、藁を通して茹でて干すとカンコロができる。カンコロはそのまま食べることもできるが、小豆と混ぜて炊いて食べることもある。
<里芋>
 里芋は茹でてそのまま食べたり、野菜や穀類と混ぜて炊いて食べる。たくさん茹でて残ったものをアジカ籠に入れておき、必要なときに食べる。
 芋類はイモツボに保管する。土間から茶の間の地下に向けて需要量に応じた深さ、広さの穴を掘る。唐芋と里芋は別々に保管する。底と側面を藁で囲って芋が直接土に触れないようにする。畑で掘った唐芋・里芋を選別して隙間のないよう詰め込み、唐芋は上に籾殻を30㎝くらいの厚さで覆い、里芋は古筵をかける。そうすれば腐らないで長期間保存できる。
<稗>
 稗は蒸すと先端が開くので、それを乾燥してから臼で搗き、麦を少し混ぜて炊く。または粉にひいたものを炒って、お茶で練って食べる。
<蕎麦>
 蕎麦は実を粉にして熱い湯で練ったり、団子にしたり、あるいは野菜と混ぜてソバ雑炊にした。
<玉蜀黍>
 玉蜀黍は焼いたり炊いたりして食べる。又は乾燥したものを砕き、それを粉にして麦や小豆をまぜて炊くのをトウキビメシという。<粟・黍>
 粟や黍の「もち性」のものは搗いて餅にした。また、野菜や麦と混ぜて炊いたりしても食べた。
<麦>
 麦は常畑で栽培され、米が主食になるまでは麦が主食だった。
 裸麦を唐臼でつくと丸麦ができる。それを洗って釜に入れ、倍量の水に長時間浸しておき、それから炊き込む。しばらく沸騰させて二、三時間蒸したものを「ヨマシ」という。「ヨマシ」を釜の底からかき混ぜて水と少量の米を加えて炊き、沸騰したら薪を取り除き、オキでよく蒸すと麦飯ができる。
 麦を石臼などでひいて野菜と混ぜて炊いて食べたりもした。
<動物性蛋白質>
 動物性蛋白質は山野にいる動物や川魚から摂取していた。
 山にいるイノシシ・ウサギ・キジなどは鉄砲や罠を仕掛けて捕っていた。
 川にはアメゴ・イダ・ウナギ・シハライ・クグ・フナ・コイなどがいた。
 「ハレ」の日の正月や盆に塩気のきいた鯖(サバ)・鰺(アジ)のほかに干した鱈やスボシを行商人から買うようになったのは戦後ずいぶん経ってからであり、無塩の魚を食べるようになったのは、つい最近のことである。
<餅無しの正月>
 新宮村には正月餅を搗かない家がある。
 新瀬川の某家:正月に餅を搗かない。雑煮は米粉団子に里芋をいれたものである。十五日のしめはやしが終わってから餅を搗く。
 田之内の某家:正月に餅を搗かない。借金を取りにきた女を騙して風呂で蒸し殺した祟りで、餅を搗こうとすると蒸籠に梟がとまって動けないので餅が搗けない。正月十一日の蔵開きが終わるまでは餅を搗かない。
 大窪の某家:ある年の大晦日に某家で大喧嘩があって中に迷惑をかけたので、の申し合わせにより、正月十五日まで餅をついてはならない、また酒を正月中用いてはならないと申し渡された。
<山菜>
 ワラビ・ゼンマイ・芹・蕗・筍・ウド・タラノメ・茗荷などをおかずにした。
 余ったものは漬物・日干し・佃煮にして保存した。
<救荒作物>
 享保六年(一七二一)に記された『新宮村明細帳』に「男女作間の稼ハくずわらび堀飯米ニ仕候」とある。
 飢饉の年には、椎の実、樫の実、とちの実などの木の実や、野草、ひがん花の球根からとれる澱粉まで食した。
 西横野、脇氏所蔵文書によると、天保八年(一八三八)四月、「数珠花トモ言其根ヲ白イモト言ナリ、是ヲ前里金川領家辺ヨリ当村ヘ持来致シ洗ヒ芋ニテ一升ニ付一二文ヨリ一四文ナリ 其外樫ノ実ナラノ実葛コビ野ソバト言木ノ葉ヲ粉ニシ其余色々ノ物ヲ食スナリ」(葛コは葛の根からとった澱粉)
 明治二二年一月九日付け 上山村戸長役場から各組長あてに出した文書「去ル明治廿年以来儲蓄セル稗石数届出之儀ハ毎年十二月三十一日限リ之処今ニ何等届出デザルニ就テハ儲蓄法ノ破レタル義ト候哉 而ラザレバ儲蓄ノ石数直チニ届出ヅベシ」これを見ると、明治の中ごろまで、飢饉に備えて各農家に稗の蓄えを命じ、毎年年末にその量を報告させていたようである。
<彼岸花球根食>
 救荒作物の一つに彼岸花の球根がある。
 有毒成分アルカイドが含まれており、これを十分除かなければならない。
 球根採取:四月から八月ごろまで、花の咲くまでが澱粉量が多い。
 澱粉採取の過程:堀取った球根を水洗いしたあとヒゲ根と茎を切る。
 するつぶすか臼で突き砕き、バケツ等容器に入れて澱粉が流れない程度に水をかけて流して三ないし四日間さらす。
 五日目くらいに全部を木綿袋等に入れ、水中でもみほぐして澱粉を漉し出す。
 更に一日か二日水にさらしてから上水をとり、沈殿した澱粉を採取する。
 採取した澱粉はもち状にして、ほうろくか鉄板上で焼き、みそなどをつけ食した。
 あく抜き法には、球根を煮てからすりつぶす方法もあり、この場合二日程度短縮される。
 また、煮る時に灰汁を入れて煮ると、更に一日くらい短縮される。
<樫(カシ)の実食>
 そのままでは渋くて食べられない。
 種子採取:十月下旬ごろ落果したのを拾い集める。木についている実は渋が抜けにくい。 二日、三日から一週間天日干しをするか、三日四日水浸して虫を殺してから一週間くらい天日干しをして保存する。
澱粉採取:保存していた実を二・三日天日干しをすると荒皮が割れ易くなる。平らな台石の上で平石等で押しころがして荒皮を除くか、踏臼(だいがら)で突き砕いて荒皮を除く。
より分けた実を石臼でひくが、だいがらで突き砕いて細粒にする。粒を木綿袋に入れ、容器を入れて五日間くらい流水でさらす。渋が抜けたら水を切り、石臼ですりつぶし、木綿袋に入れて、水を入れた容器の中でもみ出し、澱粉を沈殿させる。水は茶褐色になるが、無色になるまで水を取り替える。
 さらした澱粉を鍋に入れ、弱火でゆっくり煮詰める。ゆっくりしたたり落ちる程度に煮詰まったら型に流し込み、自然にさます。固まったものは水中で、毎日数回水を取り替えると一週間くらいは保存ができる。
 食べるときは適当に切り、単に醤油をかけるか、ユズ味噌のタレなどをつけて食する。
<焼畑>
 新宮村では遅くまで焼畑が行われていた。蕎麦や稗や粟は山を焼いたあとにつくった。
 山を焼いたあとに作物をつくることを焼畑又は切替畑という。
 山を焼く場合、下草を刈り、木の枝を伐る作業をする。木を伐るときは依代となる木に「おりかけだる」(竹で作った樽二個が外皮でつながっている)に入れたお神酒を捧げ、山の神に祈る。そして何日か乾燥させて燃えやすい状態にしておく。
 畑の上部と両側に延焼防止のための防火線「ヒミチ」をつくる。「ヒミチ」は周囲に延焼しないくらいの幅であり、草や木などの可燃物を取り払い、畑の外へ火が移ることを防ぐ。
 火入れは風のない日を選んで行われる。このときも山の神に火入れをする許しを請い、山に住む生き物が早く逃げるように唱え言を言う。祈りがすむと、上から火をつけて、時間をかけてだんだんと下へ下へと焼いてくる。そうすればきれいに焼けて危険も少ない。下から火をつけると、いっきに燃え上がるので燃え残りも多く、延焼しやすい。それよりも気をつけなければならないのは、上のほうにいると煙や炎に包まれる危険がある。上から火をつけて焼いても燃え残りができるので、こんどはそれらを集めて燃やした。
 山を焼いてから何日かして雨が降ったあとに種を播いたり、植え付けをしたりした。
 山焼きをしたあと、一年目は蕎麦や稗をつくる。
 蕎麦は七月に焼いて八月に播けば七五日でできる。
 稗は春の三月か四月に焼いて植え付けをし、秋に収穫する。あるいは蕎麦の二年目につくる。
 稗のあとは小豆や大豆、そして粟をつくった。
 その場所で四、五年作物をつくると地力を回復させるために休耕地として他の場所に移る。

2001年03月30日

塩の道・千国街道

2000年10月07日 | 生産生業

9月30日に訪れた流鏑馬資料館は、大町市の塩の道博物館に隣接するものであった。この塩の道博物館では、新潟県糸魚川から長野県大町にかけての千国街道、別名塩の道に関する展示をしていた。展示物で眼をひかれたのは、裂織りの炬燵布団であった。2年前に千葉県佐倉市の歴博で行われた企画展「布のちから・布のわざ」にて、展示されていたのを見たことがあり、裂織り炬燵布団を見るのは二度目だが、なかなかの感動ものである。愛媛では裂織りは仕事着、帯以外には使用されている例を見たことがなく、炬燵布団のように大量の布を利用したものを見ると、手仕事の素晴らしさを実感してしまう。裂織りは日本海側に多く見られるが、この大町も千国街道を経由して日本海側から裂織り文化が流入しているのであろう。かつては、塩の道は塩だけではなく、大量の物資も運搬されていたはずで、北前船によって大量の木綿布が糸魚川にもたらされ、千国街道を通って運搬されたはずである。
塩も当然、北前船によって運ばれていた。博物館で写真展示してあった資料によると、寛政4(1792)年に大町の人が糸魚川で買い入れた竹原塩(広島県竹原市のことであろう)を運ぶために、番所を通過させてほしいとの願書が残っているらしい。瀬戸内の塩が日本海を経由して長野にまで流通していたことも興味深く感じた。

2000年10月07日