愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛・災害の歴史に学ぶ14 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―2

2019年12月14日 | 災害の歴史・伝承
明暦3(1657)年に宇和島藩主・伊達秀宗によって五男宗純を吉田藩主として宇和島藩から三万石が分知されますが、この吉田においても伊達家は愛宕の崇敬が篤かったようで、貞享5(1688)年に吉田の町並みの南の立間尻浦に宇和島から愛宕宮が勧請されています。明治末期頃編纂の『立間尻村誌』によると、明治時代になり愛宕宮から「峰住神社」と改称されて現在に至っていますが、祭神は火の神である火産霊神と伊邪那美神となっています。
江戸時代、吉田の町はたびたび大火に見舞われましたが、愛宕宮を氏神同様に崇敬していた裡町三丁目だけは被害を免れたため、その後、火防の神としての祭祀が強調されていきます。これは宇和島でも同様であり、宇和島、吉田といった城下や町方で初期には藩主による武運長久祈願、国家安全(藩主の病気平癒等も含む)の性格が強かったものが江戸時代の町方での火災の頻発とともに火防の性格が強くなってくるようです。これが宇和島、吉田藩領内の村浦に伝播していったことにより、他地域よりも南予において火防神としての愛宕社が数多く見られることになったと推定できます。
また、城川町教育委員会編『ふるさとの祭と神々』(1982年発行)によれば、東宇和郡城川町(現西予市)内の神社総数は明治時代の神社合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっています。現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において愛宕社の占める割合が非常に高かったことがわかります。この愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではありません。このことからも愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言えます。
なお、西予市城川町高川の高野子菊之谷では現在でも毎年12月24日に「愛宕精進」と呼ばれる行事があり、地区の男性が川の淵の中に入って水垢離をしています。これは昔、この地区で大火があったため「愛宕大明神」を祀ったとされ、かつては冬至から3日間断食をして朝昼晩と一日3回の行水を行って火災除難を祈願していたといいます。また、火防祈願行事としては西予市野村町野村の「乙亥相撲」も有名です。嘉永5(1852)年に当時の野村、阿下両集落が大火に見舞われ、当時の庄屋緒方氏が氏神の境内社であった愛宕社を再建し、それから百年間、毎年旧10月乙亥の日に、火難除災を祈願して相撲を奉納しました。百年目に当たる昭和27年に願相撲は終りましたが、現在でも毎年、愛宕神社から御霊を遷して、引き続き乙亥大相撲が盛大に行われています。
また愛媛に残る愛宕曼荼羅について紹介しておきたいと思います。『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業―伊予市―』(愛媛県教育委員会、2012年発行)によると明治時代後半から大正時代に陶磁器生産の窯業で栄えた伊予市三島町では愛宕講(地元で「愛宕さん」と呼ばれる)が見られ、正月、5月、9月の23日に愛宕曼荼羅の掛軸を家々で回し、床の間に飾り小豆飯や菓子、かつてはあられを炒ったものを供えていました。窯業に伴う火を祀るとも言われています。この愛宕曼荼羅には勝軍地蔵を中心に天狗、太郎坊、地蔵、不動、毘沙門、前鬼、後鬼、役行者、狛犬が彩色で描かれており、絵具の種類から見ても江戸時代のものと推定できます。このように村社レベルや小祠としての祭祀ではなく講組織としての愛宕信仰の例も見られますが、火を扱う窯業地域でもあり、防火への祈りに関する事例といえます。
このように、人々の抱く火災に対する怖れが、様々な地域の伝統行事を継続する上で大きな要素となっており、これらは地域に伝承された防災民俗ともいえるでしょう。


愛媛・災害の歴史に学ぶ14 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―2

2019年12月14日 | 災害の歴史・伝承
明暦3(1657)年に宇和島藩主・伊達秀宗によって五男宗純を吉田藩主として宇和島藩から三万石が分知されますが、この吉田においても伊達家は愛宕の崇敬が篤かったようで、貞享5(1688)年に吉田の町並みの南の立間尻浦に宇和島から愛宕宮が勧請されています。明治末期頃編纂の『立間尻村誌』によると、明治時代になり愛宕宮から「峰住神社」と改称されて現在に至っていますが、祭神は火の神である火産霊神と伊邪那美神となっています。
江戸時代、吉田の町はたびたび大火に見舞われましたが、愛宕宮を氏神同様に崇敬していた裡町三丁目だけは被害を免れたため、その後、火防の神としての祭祀が強調されていきます。これは宇和島でも同様であり、宇和島、吉田といった城下や町方で初期には藩主による武運長久祈願、国家安全(藩主の病気平癒等も含む)の性格が強かったものが江戸時代の町方での火災の頻発とともに火防の性格が強くなってくるようです。これが宇和島、吉田藩領内の村浦に伝播していったことにより、他地域よりも南予において火防神としての愛宕社が数多く見られることになったと推定できます。
また、城川町教育委員会編『ふるさとの祭と神々』(1982年発行)によれば、東宇和郡城川町(現西予市)内の神社総数は明治時代の神社合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっています。現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において愛宕社の占める割合が非常に高かったことがわかります。この愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではありません。このことからも愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言えます。
なお、西予市城川町高川の高野子菊之谷では現在でも毎年12月24日に「愛宕精進」と呼ばれる行事があり、地区の男性が川の淵の中に入って水垢離をしています。これは昔、この地区で大火があったため「愛宕大明神」を祀ったとされ、かつては冬至から3日間断食をして朝昼晩と一日3回の行水を行って火災除難を祈願していたといいます。また、火防祈願行事としては西予市野村町野村の「乙亥相撲」も有名です。嘉永5(1852)年に当時の野村、阿下両集落が大火に見舞われ、当時の庄屋緒方氏が氏神の境内社であった愛宕社を再建し、それから百年間、毎年旧10月乙亥の日に、火難除災を祈願して相撲を奉納しました。百年目に当たる昭和27年に願相撲は終りましたが、現在でも毎年、愛宕神社から御霊を遷して、引き続き乙亥大相撲が盛大に行われています。
また愛媛に残る愛宕曼荼羅について紹介しておきたいと思います。『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業―伊予市―』(愛媛県教育委員会、2012年発行)によると明治時代後半から大正時代に陶磁器生産の窯業で栄えた伊予市三島町では愛宕講(地元で「愛宕さん」と呼ばれる)が見られ、正月、5月、9月の23日に愛宕曼荼羅の掛軸を家々で回し、床の間に飾り小豆飯や菓子、かつてはあられを炒ったものを供えていました。窯業に伴う火を祀るとも言われています。この愛宕曼荼羅には勝軍地蔵を中心に天狗、太郎坊、地蔵、不動、毘沙門、前鬼、後鬼、役行者、狛犬が彩色で描かれており、絵具の種類から見ても江戸時代のものと推定できます。このように村社レベルや小祠としての祭祀ではなく講組織としての愛宕信仰の例も見られますが、火を扱う窯業地域でもあり、防火への祈りに関する事例といえます。
このように、人々の抱く火災に対する怖れが、様々な地域の伝統行事を継続する上で大きな要素となっており、これらは地域に伝承された防災民俗ともいえるでしょう。


愛媛・災害の歴史に学ぶ13 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―1

2019年12月13日 | 災害の歴史・伝承
 『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、1974年発行)を参考にすると、愛媛県内で訶遇突智神(カグツチ)、火結神(ホノムスビ)などといった火にまつわる祭神を祀るのは80社(境内社含む)を確認することができます。そのうち愛宕神社は14社、秋葉神社は7社となっています。愛媛県は東・中・南予の三地域に分けられますが愛宕神社の分布を見ると東予2社、中予3社、南予9社と南予に多いという傾向が見られます。これは江戸時代から同じ傾向だったようで、東予の西条藩の詳細な地誌『西条誌稿本』では愛宕は1社のみが確認でき、土居村に愛宕、秋葉両権現を合祀した小祠があるという記述があります。愛宕と秋葉を合祀するのは当然、火除け、火伏せの願意からでしょうが、この合祀に抵抗がないことは愛宕信仰と秋葉信仰が競合しているわけではなく、共存していることを示しているといえます。愛媛県内では管見の限り、愛宕と秋葉が喧嘩した等の伝承は確認できず、京都の愛宕山や遠州の秋葉山と宗教者を介在させた直接的繋がりではなく、各在地の宗教者が火除け、火伏せの御利益を説いて祀られるようになったと推察できます。東予には小松藩もありましたが、その地誌『小松邑志』を見ても愛宕社は全く確認できません。中予の大部分は江戸時代は松山藩であり、その藩内の『伊予郡・和気郡・久米軍手鑑』の中に各村浦の神社が書き上げられています。しかし愛宕は1社も確認できません。ただし現在、神社庁管轄ではない小規模な愛宕社や愛宕山という地名は東予、中予にも少ないものの散見はできます。
それではなぜ、南予に愛宕社が多いのでしょうか。これは宇和島藩主伊達家による愛宕信仰が影響しているのが要因といえます。慶長20(1615)年に初代藩主伊達秀宗が東北仙台から宇和島に入部しますが、秀宗は伊達政宗の長子です。伊達家やその家臣が戦国時代より戦勝祈願として愛宕権現を尊崇していたことはよく知られています。宇和島藩の公的な編纂記録である『宇和島藩庁伊達家資料七 記録書抜・伊達家御歴代事記』によると「御入部後、秀宗様、御祈願被為在、毛山村之内御城より東之方一山に愛宕権現御造営二相成、御参詣道相作、数年相懸る」とあり、政宗の長子秀宗は宇和島に入った年に早くも愛宕権現の造営を開始し、そして元和9(1623)年にほぼ完成させています。
天和元(1681年)年成立の宇和島藩内の地誌『宇和旧記』には愛宕権現造営の詳細な記録があり、建物等には「愛宕山大権現堂」、「拝殿」、「愛宕山太郎坊堂」、「石鳥居」がありました。そして「愛宕山麓」に「地蔵院延命寺」という祈願所を設け、勝軍地蔵を祀っていることがわかります。この『宇和旧記』には棟札の写しも記載されており、愛宕大権現堂の開山法印は武蔵国秩父郡生まれの権大僧都清意で、奉行人は伊勢国生まれの川原吉右衛門家久、大工は山城国「宇多木郡水井住人」の藤原上松但馬守宗次、小工は「都六條住人」の辰巳右衛門尉定次であり、京都の人物名も確認できます。拝殿については奉行が奥州の武田監物成長らで、大工、小工は奥州や地元住人となっています。建立の大願主は伊達秀宗であり、願意は「御武運長久、国家安全」と棟札にあり、この時点で火除け、火伏せの願意は見られません。なお地蔵院延命寺は「愛宕山延命寺」とも記されていますが、延命寺に修験者がいたためこの町は江戸時代に「山伏町」と呼ばれ、現在でも「愛宕町」という地名となっています。延命寺は現在の愛宕町には存在せず、明治時代以降どのような経緯をたどったか不明ですが、現在は愛宕権現の流れをくむ「愛宕護神社」が愛宕町に近い宇和津彦神社に境内神社として合わせ奉祀されています。江戸時代には頻繁に火災が発生していた宇和島地域の愛宕信仰は、武運長久から火除けへと願意が移り変わる歴史が見て取れる事例として興味深いといえます。


愛媛・災害の歴史に学ぶ13 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―1

2019年12月13日 | 災害の歴史・伝承
 『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、1974年発行)を参考にすると、愛媛県内で訶遇突智神(カグツチ)、火結神(ホノムスビ)などといった火にまつわる祭神を祀るのは80社(境内社含む)を確認することができます。そのうち愛宕神社は14社、秋葉神社は7社となっています。愛媛県は東・中・南予の三地域に分けられますが愛宕神社の分布を見ると東予2社、中予3社、南予9社と南予に多いという傾向が見られます。これは江戸時代から同じ傾向だったようで、東予の西条藩の詳細な地誌『西条誌稿本』では愛宕は1社のみが確認でき、土居村に愛宕、秋葉両権現を合祀した小祠があるという記述があります。愛宕と秋葉を合祀するのは当然、火除け、火伏せの願意からでしょうが、この合祀に抵抗がないことは愛宕信仰と秋葉信仰が競合しているわけではなく、共存していることを示しているといえます。愛媛県内では管見の限り、愛宕と秋葉が喧嘩した等の伝承は確認できず、京都の愛宕山や遠州の秋葉山と宗教者を介在させた直接的繋がりではなく、各在地の宗教者が火除け、火伏せの御利益を説いて祀られるようになったと推察できます。東予には小松藩もありましたが、その地誌『小松邑志』を見ても愛宕社は全く確認できません。中予の大部分は江戸時代は松山藩であり、その藩内の『伊予郡・和気郡・久米軍手鑑』の中に各村浦の神社が書き上げられています。しかし愛宕は1社も確認できません。ただし現在、神社庁管轄ではない小規模な愛宕社や愛宕山という地名は東予、中予にも少ないものの散見はできます。
それではなぜ、南予に愛宕社が多いのでしょうか。これは宇和島藩主伊達家による愛宕信仰が影響しているのが要因といえます。慶長20(1615)年に初代藩主伊達秀宗が東北仙台から宇和島に入部しますが、秀宗は伊達政宗の長子です。伊達家やその家臣が戦国時代より戦勝祈願として愛宕権現を尊崇していたことはよく知られています。宇和島藩の公的な編纂記録である『宇和島藩庁伊達家資料七 記録書抜・伊達家御歴代事記』によると「御入部後、秀宗様、御祈願被為在、毛山村之内御城より東之方一山に愛宕権現御造営二相成、御参詣道相作、数年相懸る」とあり、政宗の長子秀宗は宇和島に入った年に早くも愛宕権現の造営を開始し、そして元和9(1623)年にほぼ完成させています。
天和元(1681年)年成立の宇和島藩内の地誌『宇和旧記』には愛宕権現造営の詳細な記録があり、建物等には「愛宕山大権現堂」、「拝殿」、「愛宕山太郎坊堂」、「石鳥居」がありました。そして「愛宕山麓」に「地蔵院延命寺」という祈願所を設け、勝軍地蔵を祀っていることがわかります。この『宇和旧記』には棟札の写しも記載されており、愛宕大権現堂の開山法印は武蔵国秩父郡生まれの権大僧都清意で、奉行人は伊勢国生まれの川原吉右衛門家久、大工は山城国「宇多木郡水井住人」の藤原上松但馬守宗次、小工は「都六條住人」の辰巳右衛門尉定次であり、京都の人物名も確認できます。拝殿については奉行が奥州の武田監物成長らで、大工、小工は奥州や地元住人となっています。建立の大願主は伊達秀宗であり、願意は「御武運長久、国家安全」と棟札にあり、この時点で火除け、火伏せの願意は見られません。なお地蔵院延命寺は「愛宕山延命寺」とも記されていますが、延命寺に修験者がいたためこの町は江戸時代に「山伏町」と呼ばれ、現在でも「愛宕町」という地名となっています。延命寺は現在の愛宕町には存在せず、明治時代以降どのような経緯をたどったか不明ですが、現在は愛宕権現の流れをくむ「愛宕護神社」が愛宕町に近い宇和津彦神社に境内神社として合わせ奉祀されています。江戸時代には頻繁に火災が発生していた宇和島地域の愛宕信仰は、武運長久から火除けへと願意が移り変わる歴史が見て取れる事例として興味深いといえます。


愛媛・災害の歴史に学ぶ12 消防体制―住民活動から公的組織へ―

2019年12月12日 | 災害の歴史・伝承
 火災に対する消防は、明治時代中期以前には現在のような公的組織があったわけではなく、住民による自主的な活動が基本でした。明治6年2月に石鈇県は「失火消防規則」を定め、住民に対して松山・今治等の市街地では街ごとに月番を、郷中では戸々にそれぞれ消防出役を義務づけています。そして戸長が消防活動を指揮し、防火器具を備え、失火合図の方法などを規定しました。明治時代初期には県が消防体制の整備を意図していたものの、消防活動に従事するのは住民自身であり、消火責任も住民が負うという自主体制だったのです(註:『愛媛県史 社会編』)。消防が公的に組織化されるのは明治27年以降のことです。明治27年に「消防組規則」が明治政府により制定され、府県知事に消防組設置の権限を与え、その維持管理を市町村に任せ、警察署長に指揮監督させることとし、全国的に画一された近代消防体制が組織化されることになりました。愛媛県においては大正時代末期には271組が置かれています。ただし常設常備の消防組織ではなく、火災の時だけ出動する義勇消防でした。常備消防は大正13年に松山市に6名を配置したのが始まりで、昭和5年に消防ポンプ車を常備し、昭和7年に現在の「119番」にあたる火災通報用電話を松山警察署に置き、次第に県内各都市にも広がっていきました。戦後には昭和22年の「消防団令」により現在に続く消防団が確立し、それまで内務省・府県警察主管課の管轄であったものが自治省消防庁のもと市町村消防として現在に至っています(註:『愛媛県百科大事典上』昭和60年、663頁)。
 さて、それ以前の江戸時代の消防はどうだったのでしょうか。例えば大洲藩において慶安4(1651)年『大洲町中拾人与(くみ)』という町内の諸規定の中に消防に関する規定が見られます。①毎夜、町代が町内を回ることを、一番小屋に詰めて夜回りをする「番太郎」に十分に申し付け、特に風の強い時には町代が警戒巡視すること。②火の用心のために桶、「さをえんさ」(大きなハタキ。水を浸けてたたき消す道具)を常備し、火事を発見したら道具を持って出動すること。③梯子を各町内に4個は備え置くこと。④町内の水路を定期的にさらえ掃除し、油断をなくすこと。以上のような防火対策が申し渡されていました。これは城下町における規定であって、拾人与を主体とするいわば近所の人々による駆け付け消防でした。やはり現在のような公的な消防組織は江戸時代の地方都市にも見られなかったのです。大洲では文政元(1818)年に「出火の節、太鼓櫓にて知らせ、鐘打つ事始まる」と『加藤家年譜』にあり、大洲城の太鼓櫓に見張り人を置いて火災の早期発見を行うようになっています。これは江戸時代中期から後期にかけて城下町で大火が相次いだことによるものと思われます。また、新谷藩においては町方の町内に水路を設け、溝底に瓦を敷き詰めて流れを良くし、火災のときは新谷藩邸の池(現在の新谷小学校の池)の樋を抜いて、この溝に水を流した上でせき止めて消防用水とするなど町ぐるみでの防火対策がとられていました。
 なお、家屋の屋根を瓦葺きとすることも消防対策の一つでした。もともと江戸時代初期から中期に城下町が形成された際には武家屋敷は瓦、板もしくは杉皮葺きで、一般の町家は瓦の使用は認められていませんでした。ところが大洲では享保から元文年間に大火が相次ぎ、600軒近くが被災した元文5(1740)年の大火の後、町家でも瓦屋根とすることを差し支えないとする通達が出ています(註:『大洲市誌』昭和47年、380〜381頁)。
このように地域における消防組織は明治時代後期以降に次第に整備されたのであり、それまでは地域住民主体となって防火体制を構築していたのです。


愛媛・災害の歴史に学ぶ11 愛媛における「大火」—近現代編—

2019年12月11日 | 災害の歴史・伝承
 消防白書では、建物の焼損面積が33,000㎡(1万坪)以上の火災を「大火」と定義づけられています。戦後の日本では昭和41年青森県三沢市大火(焼損282棟、53,537㎡)、43年秋田県大館市大火(281棟、37,790㎡)、51年山形県酒田市大火(1,774棟、152,105㎡)などが知られ、平成に入ってから都市型大火は無くなったかと思われていましたが、平成28年12月には新潟県糸魚川市で147棟、約40,000㎡を焼損するという大火が発生しており、街や建物の耐火、防火対策が進んだ現在でも大規模火災が充分に起こりうることが再認識されたところです(註:災害情報学会編『災害情報学事典』2016年、342〜343頁)。また、平成29年2月には西予市野村町予子林でも強風に煽られて11棟が全焼するという火災も発生し、愛媛県内でも防火、防災に対する意識が高まっています。
 明治時代以降の愛媛県内における「大火」は、戦時中の松山、今治、宇和島などの空襲被害を除くと、実は都市部では少なく、漁村、山村といった郡部で頻繁に発生しています。明治初期から昭和20年までの間で最も被害が大きかったのは、明治34(1901)年11月28日に発生した佐田岬半島西部の名取地区(当時は神松名村、現在の伊方町)の大火です。午前10時頃に名取地区の農家の納屋から出火し、強い西風にあおられて大火災となり、集落のほぼ全体にあたる204棟が全焼し、午後3時ごろようやく鎮火しました。888人が罹災する惨状となったのですが、急遽、八幡浜警察署、松山警察署、県警察部から職員を派遣し、57戸の仮小屋建設や救護に当たりました。同年12月2日、天皇・皇后両陛下から被災者に対し、救恤金250円の下賜もあり、全国的にも注目された火災でした。これが近代(明治から昭和20年)愛媛の最大の火災被害です。なお、名取地区には江戸時代の文化13(1816)年建立の鎮火地蔵も祀られており、明治34年以前にも火災による大きな被害があったことが推測できます。
 そして、戦後最大の火災は昭和23(1948)年9月17日の長浜町(現大洲市)の大火です。午後0時半ごろに、長浜町港町の木工製作所の煙突から出た火の粉が、隣接した煮干製造、保管倉庫の屋根に着火し、北西の強風にあおられて町の四方に燃え広がりました。現場は家屋の密集地帯で、連日の旱天で乾燥していた屋根の杉皮に燃え移り大火となりました。長浜町の消防団、警察署だけではなく、喜多地区、大洲町警察署にも応援を求め、消防団約1,300名、警察官322名の協力で午後4時ごろ鎮火しました。被害家屋は全焼185棟、負傷者は重傷2人、軽傷60人、罹災者は788人、損害額は約1億円に達しました。
 明治時代以降、50棟以上が被災した火災は他にもあり、明治13(1880)年11月16日の現松山市内の魚町付近の103棟、明治25(1892)年3月15日の現松山市の南八坂町の約50棟、明治29(1896)年8月13日、現愛南町の西外海村船越の約50棟、大正8(1919)年10月21日、現愛南町の東外海村字岩水の59棟、大正10(1921)年12月24日、現伊方町の伊方村大浜の65棟、昭和10(1935)年6月27日、現鬼北町の下鍵山地区の67棟などの火災の歴史が残り、大規模火災が、季節や地域を問わず発生していることがわかります。

愛媛・災害の歴史に学ぶ10 文学作品に見る昭和南海地震

2019年12月10日 | 災害の歴史・伝承
 昭和21(1946)年12月21日に発生した昭和南海地震。愛媛県内で死者26名を出すなど大きな被害をもたらした地震ですが、戦後間もない混乱期でもあり、その被害の様子を克明に記録した史料等は多くはありません。その中でも獅子文六が執筆した小説『てんやわんや』は、昭和南海地震の様子を具体的に記述しており、将来の南海トラフ巨大地震が起こる際、参考になるかと思われます。
 獅子文六(明治26年〜昭和44年)は、太平洋戦争終戦の直後に妻の実家のある岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開し、その時の様子を題材に『てんやわんや』を執筆し、昭和23年から24年にかけて毎日新聞で連載されました。『てんやわんや』は闘牛、牛鬼、とっぽ話、方言など南予地方独特の文化が取り上げられており、これまでも南予の民俗を知る上では重要な作品として知られていました。
 『てんやわんや』では主人公の犬丸順吉が東京で戦犯の容疑から逃れるため「相生町」(モデルは岩松)に疎開します。物語の終盤、犬丸は「相生町」から「檜扇」(モデルは御槇)に行っていた際、南海地震に遭遇します。「昭和二十一年十二月二十日・・・・・いや、もう二十一日の領分に入ったかも知れぬが(中略)闇黒のなかに、轟々と、天地も崩れる物音が、暴れ回っていた。同時に、私の体は、宙に持ち上げられ、また、畳に叩きつけられ、何か固いものが、額へゴツンと衝突し、土臭い埃の匂いが、急激に鼻を襲った。」、 「村道の所々に、大きな亀裂ができたり、大石が転落していたりする」と地震の揺れの状況や地面の亀裂、岩の崩落が記されています。犬丸はすぐに「相生町」(岩松)に戻りますが、その被害も大きく、「私は拙雲の寺のある裏山へ踏み込んでいた。(中略)驚いたことに、彼の古寺は、二本の蘇鉄が立ってるきりで、潰れた折詰のような形になっていた。」と寺院が倒壊している様子や、「一歩を町に踏み入れると共に、予期以上の惨状に驚いた。本町通りは、ほとんど全滅と言ってよかった。ブック・エンドを不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた。」と家屋倒壊など建物被害が大きかったことを紹介し、さらには津波被害についても記しています。「しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向って、逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯にも見舞われたことを、直覚した。(中略)海嘯は、今暁の地震の直後に起り、その時が最も烈しく、その後、数回寄せてくるが、河岸通りだけの浸水に止まっている、とのことであった。私は、幾度か、堆積物に躓きながら、やっと、玉松本家の前へ出た。」とあり、岩松に津波が押し寄せて、河川に面した通りは浸水して物が流され、泥などが堆積した様子がうかがえます。
 これらの記述は文学作品なので「事実」とは異なる「創作」の側面も考慮しなければいけませんが、実際、岩松は昭和南海地震で建物被害、津波の浸水、地盤の沈降での防波堤の被害や田畑への海水流入などの被害が見られ、昭和23(1948)年には地元岩松から国会に復旧工事の陳情がされるほどでした。この『てんやわんや』は愛媛県、特に南予地方沿岸部での南海地震被害を想定する上で参考となる作品だといえるでしょう。

愛媛・災害の歴史に学ぶ9 ため池の保全・防災

2019年12月09日 | 災害の歴史・伝承
 ため池は、江戸時代初期から農業用水を確保するために各地で築造され、現在、全国には約20万ヶ所、愛媛県内でも3,256ヶ所(農林水産省資料より)を数えます。西日本、特に瀬戸内海沿岸の各県に多く、降水量が比較的少なくて大きな河川のない地域で数多く築造されています。愛媛県内では今治市、松山市、伊予市、西予市、宇和島市に多く見られます。
 県内の代表的なため池の一つに、農林水産省のため池百選に選定されている松山市堀江の「堀江新池」があります。江戸時代の松山藩内では最大の12万t規模で、少雨、旱魃対策として天保6(1835)年に庄屋の門屋一郎次が呼びかけ、村民総出で3年をかけて完成したもので、現在は親水公園としても整備されています。また、伊予市大谷池は貯水量175万tの県内最大のため池として知られ、伊予市域の田畑938haに農業用水を供給しています。池の位置する旧南伊予村は、少雨地帯で大きな河川もなかったため、村長武智惣五郎が先頭に立ち、のべ37万人がその築造工事に従事し、昭和20年に完成しています。このような大規模なため池ばかりではなく、ほとんどは1万t以下の小規模なもので、集落ごとに管理されています。
 ため池の管理は地元集落や水利組合などが主体となって保全、管理されてきたのですが、近年では農家数が減り、土地利用も農地から転用されるなど、保全組織が充分機能せず、以前と比べてため池の管理が困難になってきている事例も多く見られます。ため池の管理が充分になされていないと、ため池が決壊する可能性があります。決壊すれば下流域にあたる住宅地や田畑に大量の水が流れ込むことになります。
 平成23(2011)年3月11日の東日本大震災の際に、福島県須賀川市の藤沼湖(藤沼ダム)が決壊しました。これは戦後に完成した150万tの大きなため池です。愛媛県内では例えば西予市宇和町に関地池がありますが100万t規模です。その1.5倍のため池が地震で決壊したのです。その水は下流に流れ、須賀川市内で死者、行方不明者が8人出て、市の文化財収蔵庫も流され、歴史資料が被災しています。
 愛媛県内でも平成17(2005)年3月に伊予市稲荷の「八幡池」が決壊し、1万3千㎡の農地被害、24棟の浸水被害が出たことがありました。水が出る樋部分の施工不良が原因であると愛媛県原因調査検討委員会では結論づけましたが、その4年前の芸予地震の影響を指摘する見方もあります。底が決壊して直径3mの穴があき、そこから水があふれ出て、池から約1km地点まで浸水しました。また平成9(1997)年には松山市畑寺町のため池「宝谷池」も決壊した事があります。最近では平成28(2016)年6月の大雨のよって西予市宇和町大江の「フケ下池」が決壊し、住民に避難指示が出たこともありました。
 ため池決壊は地震、大雨によって引き起こされますが、高齢化や担い手不足によって日常管理が行き届かない所も今後増えてくると予想されます。今後30年、50年を考えると、ため池防災は、愛媛県の地域的特性の一つであり、喫緊の課題といえるでしょう。

愛媛・災害の歴史に学ぶ8 「天災は忘れた頃にやってくる」

2019年12月08日 | 災害の歴史・伝承
 「天災は忘れた頃にやってくる」とか「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉がありますが、これは高知県出身の物理学者で随筆家の寺田寅彦の言葉です。ただ寺田寅彦の書いた著作をいくら探しても「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉は出てきません。実は寺田寅彦と地震学で交流のあった今村明恒の著作『地震の国』の中に「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している」とあり(今村明恒『地震の国』文藝春秋新社、昭和24年)、それ以降に広く一般に定着した言葉といわれています。
 寺田寅彦自身が「天災は忘れた頃にやってくる」と記しているわけではありませんが、このことを意図した関連文章はあるのでここに紹介します。寺田が昭和9(1934)年11月に執筆した随筆「天災と国防」(寺田寅彦『天災と国防』講談社、2011年所収、9〜24頁)に「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車の顛覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからであろう」とあり、また災害が忘却される事例として昭和8年5月執筆の「津波と人間」(『天災と国防』所収、136〜145頁)で、同年の昭和三陸津波を紹介し、その前の明治29(1896)年の三陸津波の災害記念碑が倒れたままになってしまっていることを嘆いています。
 また、昭和10(1935)年7月に執筆された「災難雑考」(『天災と国防』36〜56頁)では「われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって」、「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」と、寺田の逆説的な災害、防災観がうかがうことができます。実際に、日常から防災対策に取り組むことや、災害が起こった場合の復旧、復興によってその地域は再編、再構築されるわけであり、「人間は災害によって育まれる」というのも一理あることだといえます。
 そして寺田は「『地震の現象』と『地震による災害』とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減される可能性があるのである」とも述べていて、防災の重要性を指摘しています。小林惟司『寺田寅彦と地震予知』(東京図書、2003年)によると、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』(全6巻)の書名になった「防災」は、寺田寅彦が命名したとされます。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行を契機に「防災」という言葉が一般名称化したともいえます。
 なお、寺田寅彦については高知市小津町に寺田寅彦記念館があり、同市丸ノ内の高知県立文学館には常設展として「寺田寅彦記念室」が設けられており、その生涯や防災のことについて展示紹介しています。南海トラフ地震の発生で被害が予想される四国の出身の寺田寅彦は防災面で警鐘を鳴らす文章を数多く残しており、学ぶべき点は多いといえます。

愛媛・災害の歴史に学ぶ7 愛媛の史料から見た九州の災害

2019年12月07日 | 災害の歴史・伝承
 江戸時代、九州肥前国島原(現在の長崎県)の雲仙岳で火山活動が続いていたところ、2度の強い地震が起こって東端の眉山が山体崩壊し、その土砂が有明海に流れ込み、対岸の肥後国(現在の熊本県)に大津波が押し寄せた災害。いわゆる「島原大変肥後迷惑」が寛政4(1792)年4月1日に起こっています。崩壊した土砂の量は3億4000万立方メートルに上るとされ、それが島原城下を通って有明海へと一気に流れ込みました。土砂は海岸線の約900メートル先までを陸地と化し、その衝撃で島原では高さ9メートル以上、肥後側では5メートル以上の津波が襲いました。その災害での死者・行方不明者は島原で約1万人、肥後で5千人の計1万5千人を越えると言われています。これは有史以来、日本で最大の火山災害とされています(註 都司嘉宣、日野貴之「寛政4年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸溯上高」(『東京大学地震研究所彙報』 第68冊第2号、1993年)。
 この大災害「島原大変肥後迷惑」については、愛媛県八幡浜市真網代の庄屋の記録「二宮家系図調書真網代古事録」(成立年代は明治時代後期。江戸時代から明治30年代の真網代地区の事蹟が編纂、掲載されている)にも記述があり、「嶋原温泉嶽壊崩」、「当辺迄、七日七夜ノ猛音ス」と書かれています。つまり、雲仙眉山の山体崩壊とそれに伴う津波の轟音が、愛媛県にまで響き渡っていたということがわかります。
 雲仙眉山の山体崩壊の原因は火山噴火によるものではなく、地震によるものとされています。爆発的噴火であれば音が四国まで響き渡っても不思議ではないのですが、地震による崩壊の音が四国まで聞こえていたとすると、かなりの轟音だったと思われます。「嶋原大変記」に「百千ノ大雷一度ニ落チルガ如ク天地モ崩」とあるように一度に百、千もの雷が落ちたような轟音だったようで、それが四国まで届いていたのです(註「嶋原大変記」『日本農書全集第66巻 災害と復興一』農山漁村文化協会、1994年)。
 実はこの「真網代古事録」は既に知られた史料で、宝永4(1707)年の宝永南海地震など災害記述も見られ、災害研究では引用されてきた文献でした。しかし取り上げられる災害は愛媛県内のものに限られ、「島原大変肥後迷惑」に関する記述は見落とされてきたのです。平成28年4月の熊本地震の発生を契機に、改めて九州での地震に関する史料がないのか今一度、各種史料を確認したところ、この記述が確認できたのです。現在のところ、愛媛県内で確認できる「島原大変肥後迷惑」の史料は「真網代古事録」のみです。
 災害の歴史は、現在の都道府県単位で考えるのではなく、近畿、中国、九州と四国といった県境を越えて災害史料を突き合わせてみることが大切なのだと、熊本地震のあと、改めて考えさせられたところです。
 なお、島原の眉山は、寛政4年の山体崩壊のあとも、明治22(1889)年の熊本地震の際も山が崩れ、平成28年熊本地震でも小規模ですが崩れています。このような史料情報の集積は防災の上で大事なことであり、愛媛県内の災害史料情報も各時代ごとに集積の上、四国内外で共有する必要があるといえます。

愛媛・災害の歴史に学ぶ6 龍・蛇と災害伝承

2019年12月06日 | 災害の歴史・伝承
 松山市奥道後に竜姫宮(りゅうきぐう)というお宮が祀られています。「竜のお姫様の宮」というものの、伝説上では退治された大蛇が祀られています。奥道後の湧ヶ淵には雌雄の大蛇が棲みついて住民に多くの災いをもたらしていましたが、石手寺の僧侶が石剣で雄の大蛇を退治したといいます。現在、石手寺にはその時の石剣と大蛇の頭骨が宝物館に展示されています。そして生き残った雌の大蛇は美女に化け、通行する者を淵に引きずり込むので、湯山の城主・三好氏が鉄砲で退治し、雌蛇の頭骨が現在、竜姫宮に祀られています。この付近は平成13(2001)年6月の集中豪雨で、ホテル所有の大きな建物「錦晴殿」が流されたことがありました。この川では土砂災害、水害がよく起こっています。地名として、もしくは伝説として竜(龍)とか蛇(大蛇)の名前がついたり、語られたりするところは案外多いのです。
西予市宇和町多田地区に伊延というところがあります。大安楽寺という寺院があり、その参道沿いに「蛇霊大神」を祀る蛇骨堂があります。蛇を祀るお堂で、毎年11月23日に盛大な祭りが催されています。ここには昔、大蛇の霊が出たという伝説があります。伊延を含む多田地区を開墾した宇都宮永綱が大蛇を退治することによって、そこの地域に住み続け、治めることができたという伝説です。実はこの蛇骨堂の裏側の山というのは、土砂災害警戒区域に指定されており、大雨によって急傾斜の山肌が崩れ、蛇が通っているかのように先人は見てきたのです。土砂災害を大蛇や竜(龍)のようだと昔から表現することは全国各地にあり、中部地方の「やろか水」(洪水)とか「蛇抜け」(山崩れ)、江戸時代の妖怪絵に出てくる「天狗礫」(落石)などがあります。
 このような災害を怪異に見立てる事例は全国的にも見られ、土地土地の伝説の中には、先人が経験した災害の恐怖の原因を、妖怪や神々といった超自然的存在のなせる業と考え、それを地元の物語として構築し、それが後世に伝えるための災害記憶装置となっているといえるでしょう。
 さて、明治32(1899)年8月28日に愛媛県内で起きた大水害では、県内全体で828名、現在の新居浜市で512名が亡くなるという大きな被害が出ました。特に旧別子の被害が大きく、この大水害によって旧別子から東平、端出場(現在のマイントピア別子のあたり)に銅山施設の中心が移っていくという一つのきっかけになりました。旧別子に向う途中に新居浜市立川(たつがわ)という地区があります。立川は「川が立つ」と書きますが、地元に行って、神社を見てみると「たつがわ」と呼ぶものの「龍河神社」と表記されています。荒れ狂う龍のように水害が起こる可能性がある地域の神社ということで、龍河と名付けられた可能性があります。そして大正元年に架けられた橋の名前も「龍川橋」となっています。現在は「立川」の字を一般的に用いられていますが「立」と「龍」が併用されているのです。
 龍、蛇がつく地名、神社名などがすべて災害に結び付くものだという早急な判断は禁物ですが、水害被災地において龍、蛇の地名が残っていたり、祀られていたりする事例は多く、地域で語り継がれてきた怪異伝承の中に防災の知恵が込められていることも忘れてはいけません。

愛媛・災害の歴史に学ぶ5 地震の時の唱えごと

2019年12月05日 | 災害の歴史・伝承
 地震の予兆に関しては、一般にナマズが暴れると地震が起こると言われています。これは茨城県の鹿島神宮にある要石が、普段はナマズを押さえているが、手をゆるめると地震が起こるという伝説が江戸に広まり、鯰絵として絵画の主題になったり、文芸にも取り上げられたりして広まったものです。愛媛県内にも松山市の北条鹿島の鹿島神社境内に要石があり、事実かどうか疑問ではありますが、この石によって「風早地方では地震が少ない」と説明されています。なお、江戸時代初期以前にはナマズではなく龍の仕業と考えられていました。江戸時代初期の「大日本国地震之図」を見ても日本列島を龍が取り囲んでいます。『増補大日本地震史料』によれば江戸時代以前の地震を「龍動」、「龍神動」と記す例もあります。地震災害も龍といった超自然的存在が原因と考えられていたのです。また、夜中にキジが鳴くと地震が来るというのも全国的に聞くことのできる予兆の言い伝えです。
 さて、実際に地震が発生した時に、かつては地震が止むようにと唱え言をしていたといいます。全国的に見ると、地震の時の唱え言としては「マンザイラク(万歳楽)」があり、江戸時代から、危険な時や驚いた時に唱える厄除けの言葉として有名です。八幡浜市では、地震の時に「コウ、コウ」と叫んだといい、また大洲市でも同じく「コウ、コウ」と言うと地震が早く止むとされます(『大洲市誌』1972年)。これが今は途絶えた伝承かといえばそうではなく、平成26年、愛南町発行の『今語り継ぐ、愛南町の災害体験談』には昭和初期生まれの女性が体験談として語っています。
感覚としては、落雷の時に「クワバラ、クワバラ」と唱えるようなものでしょう。このクワバラは桑原のことで、菅原道真の所領の地名であり、道真が藤原氏により大宰府に左遷され、亡くなった後、都では度々落雷があったものの、この桑原には一度も雷が落ちなかったという言い伝えから、雷の鳴る時には「クワバラ、クワバラ」と言うようになったと『夏山雑談』に記されています。この唱え言は謡曲「道成寺」など、歌舞伎や狂言の台詞にも登場し、一般に広まったものです。大洲市のことわざで「麻畑と桑畑に雷は落ちぬ」といいますが、桑の木は比較的低いため、桑畑(桑原)には実際に雷が落ちる可能性が低いといえるのかもしれません。
 話は戻って、地震の時に「コウ、コウ」と叫ぶ事例は高知県にもあります。これについては、坂本正夫氏が『とさのかぜ』19号(高知県文化環境部文化推進課、2001年)にて紹介しています。高知県中部では「カア、カア」、土佐清水市や宿毛市、大月町などの高知県西部では「コウ、コウ」と言うそうです。また仁淀川上流の吾北村や池川町などの山村では、地震は犬を怖がるのでコーコー(来い来い)と犬を呼ぶ真似をすれば地震がやむと言われています。『諺語大辞典』(有朋堂書店、1910年)には「地震ノ時ハカアカア、土佐の諺、地震の時は川を見よの意なりと云う」とあります。坂本氏によると、地震が発生したら、落ち着いて川の水の状態や海水面の変化などをよく観察し、山崩れや津波の来襲に気を付けるようにという科学性に富んだことわざとのことです。
 八幡浜市等の「コウ、コウ」も「川、川」が訛ったものと思われますが、実際に地震が起こった場合は、冷静に周囲の状況を見て、行動することが大切だということを示唆しているといえます。

愛媛・災害の歴史に学ぶ4 土石流と天然ダム

2019年12月04日 | 災害の歴史・伝承
 愛媛県は土砂災害の頻発する地域といえます。県内の土砂災害危険箇所は計15,190ヶ所(平成15年3月愛媛県公表)にのぼり、47都道府県の中で14番目に多いのです(註1)。土砂災害にはおおまかに分けて、①山に堆積した土砂や石などが集中豪雨による水とともに一気に流れ出してくる「土石流」(県内5,877ヶ所)、②緩やかな斜面で地下の粘土層などが地下水などによってゆっくりと動き出す「地すべり」(506ヶ所)、③斜面に水が浸み込んで弱くなって瞬時に崩れ落ちる「がけ崩れ」(急傾斜地崩壊、8,807ヶ所)があります。その中でも土石流に関する愛媛の代表事例を紹介します。
 松山自動車道川内ICから約6キロ北東に位置する東温市松瀬川の音田という地区では、天明から寛政年間(1781~1801年)に皿ヶ森の南斜面が崩壊し、大規模な土石流が発生して音田の集落を呑みこみ、土砂が本谷川の流れをせき止め、天然ダムができたという言い伝えがあります。天然ダムは数日後に満水となり決壊しましたが、音田の約1キロ上流の五社神社付近まで水がきたものの、神社は湛水からはのがれたといいます。この地域には東西に中央構造線断層帯の川上断層が走っており、その断層の北側にあたる部分が崩落しています。
なお、愛媛県内には東予地方から伊予灘に抜ける形で中央構造線断層帯が通っていて、大地震発生の可能性が指摘されていますが、中央構造線断層帯の北側には、和泉層群と呼ばれる礫岩、砂岩、泥岩が堆積した地層があり、豪雨で崩れやすいとされています。これが四国中央市から新居浜市、西条市、東温市、松山市、砥部町、伊予市の東西に分布し、この音田の大崩壊も中央構造線断層帯とその北側の和泉層群で発生しています。地震を引き起こすだけではなく、特に北側では土砂災害が起こりやすいというのが中央構造線断層帯の恐ろしさといえます。
この音田の災害は「大崩壊(おおつえ)物語」として地元で語り継がれています(註2)。昔、音田の娘が雨滝神社に立ち寄った際に、渕に櫛を誤って落としました。ある夜、娘の家に櫛を持った青年が訪れ、毎夜、娘に会いに来る。娘は男の妖しさを感じ、男の肌を傷つけ、男は血を流しながら雨滝神社の渕に消えていきました。娘は身ごもっており、生まれた子は蛇でした。男は雨滝神社の渕の精だったのです。しかし子は皿ヶ森のふもとに葬られてしまいます。そのことを知った渕の精は龍となって七日七晩、豪雨を降らせました。そして皿ヶ森で山津波が起こり、民家が押しつぶされました。人々が龍神に祈願すると豪雨は止み、龍神の祠が建てられ、祀られたといいます。現在でも龍神の祠があり、その場所は土石流が流れ込み、天然ダムができた地点に近く、隣の桧原に天然ダムの水が流入しそうになった場所といわれています。
現在は穏やかな田園風景の広がる東温市山間部ですが、豪雨、土石流、天然ダムという過去の災害の記憶を伝説や祭祀という形で伝承してきた事例と言えます。
(註1)国土交通省ホームページ「都道府県別土砂災害危険箇所」http://www.mlit.go.jp/river/sabo/link20.htm
(註2)『川内町新誌』、『四国防災八十八話』

愛媛・災害の歴史に学ぶ3 周期的におこる南海地震

2019年12月03日 | 災害の歴史・伝承
 静岡県沖から四国沖を震源として連動して発生するとされる「東海地震」(駿河湾から遠州灘)、「東南海地震」(遠州灘から紀伊半島沖)、「南海地震」(紀伊水道沖から四国沖)の3つの大地震を総称して「南海トラフ巨大地震」と呼んでいますが、過去をひも解くと、およそ100年から200年の間隔でこの種の地震が発生しています。
 直近では、和歌山県潮岬南南西沖を震源とする南海地震が昭和21(1946)年12月21日に発生し、愛媛県内では26名の死者が出ています。その2年前の昭和19(1944)年12月7日に紀伊半島南東沖を震源とする東南海地震が発生し、双方の連動地震で犠牲者は全国で計2,500名以上とされています。
 その前の南海トラフ地震は、昭和の約90年前、嘉永7(1854)年11月4日に東海、東南海地震が発生し、その32時間後の11月5日に南海地震が起きて、関東から九州までの広い範囲で大きな被害が出ています。この地震の直後に改元され、元号は「安政」となったため「安政地震」と呼ばれています。地震の規模は昭和南海地震がM8.0、安政南海地震はM8.4といわれ、安政の方が大きい地震規模で、揺れ、津波被害も昭和より甚大でした。
 その安政よりも被害が甚大だったのが安政の約150年前、宝永4(1707)年10月4日の宝永地震です。東海、東南海、南海地震の3連動で発生し、地震規模はM8.6とされています。この時は伊予国(愛媛県内)でも津波による死者が南予地方を中心に20名近く出ています。『楽只堂年録』など幕府へ報告された死者数は5,000名余りで、実際にはさらに被害が大きかったと推定されています。
そして宝永の約100年前には、慶長9(1605)年12月16日に慶長地震が発生しています。この地震では津波被害が甚大で、房総半島から紀伊半島、四国にその記録が残っています。その前は慶長の約100年前、明応7(1498)年に発生し、さらに137年前の正平16(1361)年6月24日に正平南海地震が起っています。『太平記』によるとこの時は「雪湊」(徳島県由岐)で大津波によって1,700軒の家々が被害を受けたとされています。
その前となると、正平の263年前という長いブランクとなりますが、承徳3(1099)年正月24日に発生しています。この年は地震と疫病が頻発したので元号が「承徳」から「康和」に改元され、「康和地震」と称されています。土佐国(高知県)で千余町が海底となった、つまり地盤の沈降による海水流入が大規模に見られ、歴代南海地震でも同様の被害が見られます。その康和の212年前の仁和3(887)年7月30日に仁和地震が起こり、近畿地方を中心に大きな被害が出ています。その仁和の203年前に発生した南海トラフ地震が、『日本書紀』に記された天武天皇13(684)年10月14日の白鳳地震となります。このように、文献史料からひも解くだけでも、古代から現代まで南海トラフを震源とする大地震がおよそ100年から200年の周期で起こっていることがわかるのです。

愛媛・災害の歴史に学ぶ2 南海トラフ巨大地震

2019年12月02日 | 災害の歴史・伝承
 今後30年以内に70%程度の確率で発生すると予想される「南海トラフ巨大地震」。南海トラフの「トラフ」というのは、海底が溝状に細長くなっている場所のことです。水深7,000m以上のものを「海溝」と呼び、それよりも浅いものを「トラフ」と呼んでいます。このトラフ地形はプレートの沈み込みによってできたもので、地震の多発域となっています。
南海トラフは静岡県の駿河湾から御前崎沖を通って、和歌山県の潮岬沖、四国の室戸岬沖を越えて九州沖にまで達する海の溝であり、フィリピン海プレートが日本列島側のプレートの下にもぐり込むことで徐々にひずみが蓄積され、限界に達したところで元に戻ろうとして巨大地震が発生する。これが南海トラフ巨大地震の仕組みです。
 さて、「南海トラフ巨大地震」イコール「南海地震」ではありません。「南海地震」は紀伊水道沖から四国南方沖を震源とする地震で、「南海トラフ巨大地震」のうちの一部です。駿河湾から遠州灘にかけて発生するのが「東海地震」、紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域で発生するのが「東南海地震」。これら三つを総称している名称が「南海トラフ巨大地震」です。なぜこれが総称されているかというと、過去の地震では、この三つの地震が連動して発生しているからです。東海地震、東南海地震、南海地震の震源域で数時間から数年の間にほぼ同時期に三つの大きな地震が連動しています。
 この東海、東南海、南海地震の連動は様々な史料から明らかになっていますが、その様子を物語る四国での史料を紹介します。高知県香南市香我美町の飛鳥神社にある地震津波碑です。この石碑には次のような内容が刻まれています。嘉永7(1854)年11月4日に地震があった。手結港の潮がひいて、ウナギがとれるほどだったと記され、これは南海地震ではなくて、その32時間前に発生した東海地震の地震、津波の様子になります。この時は東海に加え東南海の領域も震源域に入っていて、東海、東南海の同時発生とされています。そして碑には、翌日の11月5日に大地震があって、家も塀も崩れるなど被害の状況が刻まれています。これが南海地震(いわゆる安政南海地震)にあたります。まず11月4日に東海、東南海地震(М8.4)が起こって関東から近畿まで大きな被害が出て、その32時間後に南海地震(М8.4)がおこって西日本に大きな被害がでた時の様子を記したものといえます。これと同様の連動を示す史料は八幡浜市にも残されており、別稿で紹介する予定です。
ちなみに、昭和21(1946)年に発生した昭和南海地震での「連動」ですが、南海地震の2年前の昭和19(1944)年に東南海地震が発生しています。しかし東海地震は起こっていません。昭和の南海トラフ地震は、南海地震、東南海地震は発生しましたが、過去連動して発生していることが多い東海地震の震源域では大きな地震が起らずに空白域となっていて、プレートの沈み込みによるひずみが解消されていないとされています。このことから東海地震が発生するのではないかと1970年代以降、注目されてきたのです。