徳島県小松島市赤石町の豊浦神社境内にある地震・津波碑。
神社の入口の鳥居の近くに建てられている。
ここには嘉永7年(1854)の安政南海地震のことが刻まれている。
「この地震による津波により多くの死者が出たが、豊浦近郊の村人は、この神社の庭に避難し、難を逃れた。これは白楽天王(地元ではこの神社を「はくろくさん」というらしい)のおかげ。後世まで忘れないように記した」という内容である。
「安政といふはしめのとし霜月五日、大地おほひに震ひ、高浪にひかれて死る人数をしらさりしに、この豊浦の人々、近き村々の人々は、みな白楽天王のゆにはに、はしり集りて、難をのかれたりしは、偏に神の守り玉ふ恵の深きなれは、後のちまてもわすれさるため、しるすものなりかし」
ところが、この神社は海からも近い場所。現地を歩いてみても、神社は小高い場所ではない。Mapionで標高を検索すると海抜2m。
石碑に刻まれた内容から解釈すると、「先人の知恵や経験」として、この神社に避難すれば大丈夫、というメッセージにも見えるが、実際に津波からの避難場所としては低すぎる。
過去の地震・津波の歴史を刻む石碑の内容が「絶対的」なものではない、ということを痛感させられる。
この石碑の建立年は不明。
この神社の歴史を確認しないといけないが、過去は小高い場所にあって、明治初期の神仏分離、神社合祀などで社地が移転した可能性もあるし、近代の開発で社地が削られて平地になった可能性もある。実際に安政南海地震ではこの場所に津波は到達しなかったのかもしれない。
神社も、石碑も場所を移転するものであって、この歴史的推移を確認しないといけない。
この石碑だけではなく、地震・津波碑については、単に刻まれた内容を額面通り受け取るのではなく、その周辺調査、確認作業も必須だといえるだろう。
(地元の図書館に行って調べてみようと思ったが、今回は時間切れ。)