愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

籌木(クソベラ)について

2001年06月10日 | 衣食住
上浮穴郡面河村に行った際に、籌木(ちゅうぎ)の話を聞いてみた。これは『面河村誌』にも少し紹介されており、気になっていた話題の一つだったからである。
そもそも面河ではトイレットペーパーを使用するようになったのは、終戦後の物資の不足が一段落したころだったという。紙でお尻を拭く行為は戦後からであるという話にも驚かされたが、それ以前に使っていた籌木の使い方がいまいち私はイメージがつかめず、この話をすることを少々嫌がる地元の老人に強引に聞いてみた。
当然、籌木とは用便(大便)の際に、尻をぬぐう木片で、またの名前を「落とし木」とか「掻木」と言っていたそうだ。幅は約3㎝、長さは約15㎝の薄い木片で、材はスギもしくはモミの木を使っていた。いずれも木の肌触りが良く、柾目の良い木材を、自分の手で割って作っていた。便所には、備え付けの木箱が置かれ、その中に籌木を何本も入れておき、用便が終わると、まずは木片の片面でおおまかな残り便を取り除き、そして、裏面で細かい残便を処理していた。木の肌触りは柔らかいので、痛いというわけではなかったらしい。用済みになった籌木は、別の木籠に入れておくことになっていた。直接便壺に入れてしまうと、後に便を肥料として使用する場合に、困るからだということである。用済みの籌木がたまったら、川に流しにいって処理をした。
籌木といえば、『餓鬼草紙』に描かれる排便風景の中で紹介されているが、このような用便処理方法が、約50年前まで日常的に行われていたのである。

2001年06月10日

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大洲の巨石文化

2001年06月10日 | 地域史

大洲市高山にメンヒルがあり、大洲の一種の観光名所になっている。かの鳥居龍蔵が「東洋一のメンヒルだ」と言ったという高さ4.75メートルの立石である。メンヒルの脇に大洲市教育委員会が設置した説明看板には、次のように書かれている。「大洲市指定史跡、高山ニシノミヤ巨石遺跡、昭和31年9月30日指定、先史時代の人々の手でこの地に遺したとされる巨石の中で代表的な立石である。 古来前面を仏とし背面を神として崇拝され特に目ぼのある者が祈願すれば霊験を得るとして、参詣する風習があり、その前面には積石の祭壇を設け今なお香華が供えられている。昔藩令により久米喜幸橋の石材に用いようと運び出し翌日橋をかけようとしたところ、この巨石が夜のうちに元の位置に坐っていたという民話もある。 昭和3年11月故鳥居龍蔵博士の来洲によってメンヒルとしては東洋一のものだろうと推称されて以来にわかに有名になった立石である。 平成3年1月吉日建立、大洲市教育委員会」
『大洲市誌』によると、「高山寺山(通称高山)の中腹標高280メートルのニシノミヤ高橋邸内に一個の巨石が立っている。地面から高さ4.75メートル、幅2.3メートル、厚さ66センチで、先端が丸くなった緑色片岩である。石の正面にあたるはるか遠方には、どちらも二等辺三角形の格好の良い神南山が左に、如法寺山(冨士山)が右に並んで見え、その真中が真東にあたり、天気の良い日にはこの山の向こうから赤い日の出が見られる。(中略)この石の地面下は様子はわかっていないが、おそらく二千数百年以前もの昔、祖先の人達が太陽や巨石を尊んだ素朴な信仰が、この巨石を立てさせたものと思われる。」とあり、位置的には、真東を向いて朝日を一面に受けるような形で立っているのである。
私が興味を抱いているのは、この立石がいつ、どのような目的で立てられたのかということではない。二千数百年前といえば、弥生時代にあたると思われるが、弥生時代の建立かどうかは考古学上でも立証されていないようで、今後の研究課題になっているようである。それよりも私は高山に訪れた際に、石鎚信仰の盛んなことを聞かされ、この立石にまつわる伝承も石鎚信仰の影響があるのではないかと勝手に推測したのである。というのも、立石のことを地元では「石仏」と呼んでいたようで、これは西園寺源透の著した『大洲地方巨石文化写真帳』(昭和初期成立、愛媛県立図書館蔵)にも、この「石仏」の名称で紹介されている。石の前面には五輪塔が一基あり、仏としての崇拝の厚いことがわかる。石鎚信仰については、高山に「お山踊り」という石鎚の御詠歌を唄いながらシデを持って地元の人が踊るという芸能がある。この歌詞の中に「前は神様、後ろは仏、参る心で常々見よれ」という文句があり、現在は立石は、前面が仏で、後面が神としているが、これは実は逆で、前面が神様、後面が仏ととらえられていたのではないかと勝手に推測してみた。それは、立石の前方には、神の山とされる神南山(かんなんざん:神奈備山が訛ったものと言われている)が位置し、後方には高山寺山、そして名刹金山出石寺がひかえているからである。この立石は石鎚の御詠歌にある文句を体現したものではないのか、というのが私の勝手な推測である。(では、この立石は、石鎚信仰がこの周辺に広まった江戸時代後期以降にたてられたのもの?という、混乱が生じてくるが・・・。)
そもそも、鳥居龍蔵が「東洋一のメンヒル」と発言したかどうかは、確認がとれない。鳥居は昭和3年11月に大洲に来て、大洲各地にある巨石遺物を調査している。この時にどういった調査をしたのか、よくわからないが、この鳥居の調査に触発されて、地元の郷土史研究者横田伝松、長山源雄はそれぞれ鳥居の調査直後の昭和4年と5年に『伊予史談』に大洲の巨石文化の考察を掲載している。ところが、この横田、長山の原稿を読むと、鳥居が調査した中で最も興味を持った対象は神南山の巨石群であったようで、高山の立石についてはほとんど触れられていない。高山のメンヒルについては、長山が「久米村高山の石仏と呼ぶ立石は、橋材にする為堀倒されたが、一夜のうちに原の通りになって居た」という一文があるのみである。横田、長山のいずれの原稿にも、鳥居が「東洋一のメンヒル」と評価したという内容は、一切出てこないのである。昭和47年発行の『大洲市誌』には、鳥居は東洋一と言ったと書かれているが、この発言の原典をつかむことができない。もしかすると、発言が一人歩きした可能性もある。高山のメンヒルは謎が多くて、厄介な資料だ。
ところで、大洲地方の各地にある巨石遺跡は、今ではメンヒル・立石やドルメンなどと呼ばれているが、『大洲地方巨石文化写真帳』によると、当時の巨石の呼称が何例か出ていたので、ここで紹介しておく。高山のメンヒルは「石仏」、五郎の立石は「山ノ神」もしくは「伊佐高権現」、神南山の「弥勒様」、「ドンビ岩」、冨士山の「座禅石」。これらはいずれも宗教的な色彩の強い名称である。謎の多いとされる大洲の巨石文化については、今後、当然、考古学的なアプローチがなされるべきであろうが、上記のように一種信仰の対象となっている場合が多く、宗教民俗学からのアプローチも必要なのかもしれない。

2001年06月10日

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