アメリカ西海岸の日本人社会では、八幡浜市を中心とした近隣の出身者が多数活躍しています。『八幡浜市誌』によると、この地方の出身者の2~4世を合わせると実に1万人近くにもなるといいます。
このように八幡浜地方からの出身者が際立って多いのは、アメリカ移民の先駆者で、「日本移民のパパさん」と呼ばれた、西井久八の絶大な影響であるといわれています。
西井久八は、安政3(1856)年8月、現在の八幡浜市向灘に生まれ、明治8(1875)年、海外への渡航を夢見て、九州、更には横浜へ行き、外国船の水夫として働き、明治11年、22歳の時にアメリカへ向けて出航しました。
日本を出たあと、香港・シンガポールを経てヨーロッパに到着し、6ヶ月かかって米国オレゴン州ポートランドに上陸しました。それまで日本人にとって未到の地であった場所で、一生懸命に働き、シアトルやタコマで、日本人初の経営となる「スター洋食店」を開きました。更に農場経営やその他数々の事業に成功し、一躍、大実業家となりました。そして在留日本人の事業活動を積極的に援助・指導し、アメリカにおける日本人社会は目覚しい発展を遂げました。
成功者となった久八は明治22年に、妻を迎えるために日本に帰国し、「みよ」と結婚しました。そして八幡浜の若者達に、アメリカの将来の有望性を説き、数名を同行して帰りました。久八の成功談は近隣の村々に広がり若者達の夢を盛り上げました。また、地元の小学校などの教育機関に多額の寄付をするなど、郷里の後進を育成するための努力を惜しみませんでした。
ところが、日本からの移民を積極的に受入れていたアメリカでは、大陸横断鉄道の事業が一段落つくと、失業者が急増し、熱心な働き手の多かった日本人を排斥する運動が広がりました。ついには、明治41年に「日米移民紳士協約」が成立して、日本からアメリカへの渡航は困難となってしまいました。
しかし、久八の成功談の伝わっていた八幡浜では、正規の渡航とは別に、密航によりアメリカを目指す若者も後を絶ちませんでした。大正2(1913)年には、真穴地区の若者15人がアメリカに向けて地元を出港しました。彼らは長さ約15メートル、重さ50トンの打瀬船に乗り、北針(きたばり)と呼ばれる木枠の磁石を頼りに、伊豆大島から海流に乗って、危険な航海に出ましたが、出航から58日目、ついに憧れの地、アメリカ、サンフランシスコ北のアレナ海岸に到着しました。距離にして1万キロの移動でした。数日後、一行は密航者として日本へ強制送還されましたが、わずか50トンの小船で太平洋を横断し、勇躍新天地へと向かった15人の行動は、全米の新聞に「コロンブスのアメリカ発見にもあるまじき奇蹟なり」と報道されました。また、そのことは八幡浜の人達にも勇気を与え、翌年、翌々年と夢を求める多くの若人たちが航海に挑んだといいます。そして、現実にアメリカで一旗揚げる者もかなりの数に上ったそうです。この話は「北針物語」として、八幡浜市民の間で語り継がれています。
このように、西井久八に始まる八幡浜のアメリカ移民の歴史は、この地方の人たちが持っていた進取の気性をあらわしているといえます。
(出典)村川庸子『アメリカの風が吹いた村』(愛媛県文化振興財団、昭和62年)
(参考文献)『愛媛県史人物編』(愛媛県、1989年)
2004年03月23日