愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

五反田柱祭りと金剛院の伝説

2011年08月15日 | 年中行事
ごく最近の出来事。7月下旬のこと。私は愛媛県八幡浜市の五反田柱祭りの記録撮影のため、五反田地区に行った。この柱祭りは愛媛県指定無形民俗文化財であり、盆の火投げ行事として知られている。盆の行事なので精霊供養や新仏供養という意味合いかといえば、実はそうではない。非業の死を遂げた修験者の霊を慰めるための行事として江戸時代以前から連綿と続けられている。

祭りの由来伝承は戦国時代に遡る。当時この五反田にあった元城が、土佐長宗我部氏に攻め込まれる際に、五反田から九州に修行に行っていた修験者の金剛院円海法印が知らせを聞いて急ぎ戻ったところ、敵と間違えられて射殺されたという伝承がある。

その後、五反田に疫病が流行した際、神官が「これは金剛院の祟りに違いない」と主張し、その霊を慰めるために盆の8月14日に川原に約20メートルの柱を立てて、その頂部に据え付けられた漏斗に、火のついた麻木を投げ入れるという行事が始まったといわれている。この行事の開始は、戦国時代とも江戸時代初期とも、あるいは幕末ともいわれ、諸説あってはっきりしないが、少なくとも戦国時代に金剛院が誤殺されたという伝承は既に江戸時代には知れ渡っていたようである。

さて、この修験者・金剛院は現在、五反田の中で金剛院神社として祀られている。数坪程度の小さい境内であるが、祠があり、その中に無縫塔が安置されている。無縫塔とは僧侶や修験者の墓石として用いられるもので、これが一種、神社のご神体となっている。

金剛院や柱祭りにまつわる祟り話は現在でも五反田で生きづいている。先日聞いた話では、金剛院神社境内の銀杏の木の枝を切ったら、家族に不幸があったので、もう関わりたくないという話。他にもある。ここでは書く事ができないが、地元五反田の人に言わせれば、そんな祟り話は枚挙にいとまがないという。明治時代にも祭りが派手だということで警察から中止命令が出て一年止めたとたん、悪い病気が流行ってその後は毎年続けられている。最近の話も記しておきたいが、リアルすぎるのと、個人が特定される恐れがあるので、具体的には紹介できない。地元では、いまだ金剛院の霊は鎮まっていないと認識されているようにも感じる。

さて、金剛院神社に案内してくれた地元の方のご配慮で、祠の中の無縫塔を見せていただいた。中には他に霊璽もあったのだが、何故か転がって倒れていたので、丁重に拝んで立てておいた。少し気味が悪いというか、金剛院のいろんな話を聞いた後だけにいわばご神体を直接触ることには鳥肌が立った。一通り、境内を見せていただいて、同行の方と一緒に歩いて帰りながら世間話をした。金剛院神社を出て、川を渡る橋の上で「そういえば今日は蝉の声も聞こえないな。異常気象で今年は蝉が鳴き始めるのが遅かったから」と彼は言った。

夏真っ盛りの昼間の会話である。近くは雑木林の山に囲まれている。当然、蝉も泣き続けている。少なくとも私の耳にはうるさいくらいに聞こえる。

地元の同行者の聴覚に異常が出たのだろうか。まさか、金剛院の祟りなのか。そしてその会話は、金剛院神社前の橋の上での会話だったので、余計怖さを感じた。しかも、偶然以外の何者でもないが、その橋の欄干の近くには何故か女性の靴が並べて放置されている。靴には蜘蛛の巣が張っていたので古い物とすぐに解ったが、思わず橋の下の川を見入ってしまった。

私は不可思議なことだと思ったが、彼には「直接、蝉がうるさいくらいに鳴いていますよ」とは言えないまま別れて、私は五反田を離れてしまった。

その後、金剛院の祟り話が脳裏から離れないが、今にいたるまで、自分の身には何事もない。でもそれ以来、慎んで生活をしないと心の安寧が来ない。



※これは私の実体験をもとに若干、フィクションも加えています。あしからず。どこがフィクションかはヒミツです。







今年で最後の和歌山県すさみ町の佐本川柱松

2011年08月15日 | 年中行事
紀伊民報によると、和歌山の投げ松明行事の佐本川柱松。こちらも継承の危機に直面していて、今年の柱松を最後に保存会が解散するとのこと。


http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=215248



柱松継承へ黄信号 保存会、今年で解散


 和歌山県すさみ町佐本地域で220年続く伝統の盆行事「佐本川柱松」の継承が危ぶまれている。担い手不足や材料確保の難しさが原因で、地元住民でつくる佐本川柱松保存会(浦愛一郎会長)が、今年の柱松を最後に解散することを決めた。ただ、大学生や町職員ら地域外の若者から協力の申し出もあり、地元住民は「できれば途絶えさせたくない。何とか続けられたら」と話している。


 「佐本川柱松」は高さ20メートル前後の丸太の先に、松の枝や稲わらで作った「巣」を付け、火が付いたたいまつを巣に投げ入れる行事。着火するまで続けられる。夏の夜空に火が弧を描く幻想的な行事を見ようと帰省客や見物人ら300~400人が訪れ、地域人口の2倍近くの人でにぎわう。

 江戸時代後期の1787(天明7)年から2年間、夏に疫病がはやり、多くの村人が死亡したことから、供養と無病息災の祈願のため始められたとされる。1970年代からしばらく途絶えたが、83年に「佐本親子クラブ」が復活させた。主催はいったん地元区長会に移り、90年代からは保存会が営んできた。

 保存会会員は出身者らを合わせて14人。全員40歳以上。60代と70代が8人で全体の半数以上を占めている。家族が初盆に当たる人は関われないため、年によってはさらに担い手が減る。当日朝に行われる柱松作りも人手や技術がいる。以前は参加者が持参していたたいまつも保存会が約250本作って用意している。

 また、欠かせない材料の松も松食い虫の影響で、年々確保が難しくなっている。
 そのため、昨年は取りやめになり、そのまま会の解散も検討された。昨夏から児童を引率し、旧佐本小校舎を拠点にキャンプに来ている摂南大学(大阪府寝屋川市)のクラブ「ボランティア・スタッフズ」から「柱松を楽しみにしていた子どものためにも実施してほしい」と保存会に働き掛けがあったため、保存会は6月の会員総会で、今年の柱松を最後に解散することにした。

 同クラブは、キャンプの日程に柱松を組み込み、児童に参加させる。学生は当日朝、柱松作りを手伝ったり、会場の河原の掃除をしたりする。町職員ら地域外の若者もボランティアで手伝う予定で、賛同者を呼び掛けている。

 松については一昨年から集めてきたものがあり、たいまつは保存会会員が7月に入ってから作り始めている。

 保存会の浦剛さん(68)は「昨年は地元の人も帰省する人も寂しがった。保存会の行事としては最後になるが、新たに続けていける仕組みを考えられれば」、会員最年長の白滝寛志さん(79)も「材料や人手不足など課題はあるが、伝統が消えていくのはもったいない。応援してもらえれば何とか続けていけるかもしれない」と期待している。

 摂南大卒業生で、柱松実施に向けて活動しているすさみ町のNPO「魅来(みらい)づくりわかやま」の武田真哉さん(30)は「地域の伝統文化が廃れると過疎が進む。今後も学生が協力を続けたり、地域出身者らに積極的に協力してもらえるような仕組みをつくったりし、応援していきたい」と話している。

 柱松は13日午後7時から古座川支流の平野渕である。学生は午後4時半から旧佐本小で「夏祭り」を開く。食べ物やゲームの屋台や子どもや学生らの音楽演奏がある。

 同時に摂南大学とすさみ町教育委員会が12~15日に旧佐本小校舎でキャンプを開く。学生50人、寝屋川市の小学生100人が来町予定。希望した町内の小学校4~6年生も13、14日の1泊2日で参加。柱松に参加するほか、夏休みの宿題をしたり、川遊びをしたり、肝試しをしたりする。


【たいまつを作り、柱松の準備を進める佐本川柱松保存会会員(和歌山県すさみ町佐本中で)】

(2011年08月04日更新)