愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

津波の記憶を伝えきれなかった石碑

2012年03月09日 | 災害の歴史・伝承
津波の記憶は石碑として建立すれば必ず後世に伝わる、というわけでもない。昨年6、7月に少し話題になった津波石。


http://sankei.jp.msn.com/life/news/110721/art11072107590003-n1.htm

岩手県大船渡市三陸町吉浜の吉浜川河口で見つかった大きな津波石。昭和8年の昭和三陸津波で海から約200メートルも流されたもので、幅約3メートル、高さ約2メートル、重量約30トンの巨石である。ここに「津波記念石 前方約二百米突 吉浜川河口ニアリタル石ナルガ昭和八年三月三日ノ津波ニ際シ打上ゲラレタルモノナリ 重量八千貫」と刻まれている。

実はこの津波石。1970年代の道路工事で地中に埋められてしまい、今回の東日本大震災での津波で道路が崩壊し再び地表に現れたのである。昭和三陸津波が1930年代。道路工事で埋められたのが1970年代。約40年の時間が経過している。先に投稿した徳島県海陽町の津波石建立も40年後。やはり世代の交代で記憶の風化が起こってしまい、吉浜の津波石も後世に保存するという意識よりも開発が優先され、次第にその石の存在も忘却されていったのだろう。

このように、石碑を建立しても、もしくは石に刻んだとしてもすべての記憶が後世に伝わるわけではない。忘れないこと。後世に伝えること。長期にわたる不断の活動が必要だ。


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津波の記憶を伝える石碑

2012年03月09日 | 災害の歴史・伝承
徳島県海陽町の海岸部を歩いているといたるところで見られる「南海地震津波最高潮位」と刻まれた石碑。昭和21年12月21日未明にこの地を襲ってきた津波の記憶を今に伝えている。この石碑が建てられたのは昭和60年。合併前、当時の海南町が主体となって建てられた。海陽町は江戸時代から幾度の津波被害を経験している。後世に津波の危険性を伝えるためには、書物での文献記録や看板表示ではなく石碑にすることで永年の記憶化を図ったといえる。石碑が建てられたのは津波から約40年後。次第に世代が交代し口伝えで津波の記憶が地域住民の中で共有化しづらくなったことに起因するのかもしれない。建立は自治体主導。この石碑のある地区では南海地震津波で85名もの犠牲者が出ている。それでも40年経つと記憶は風化し、忘却されてしまい、新たに津波の悲惨さを伝える石碑建立という記念化行動を起こさないといけない。それぞれの津波石には、発生時、建立時、そして今現在の「記憶」化や「忘却」対策の想いが込められているわけであり、津波が襲ってきた事実だけではなく建立者の意図などについても知っておく必要がある。

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