愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

高知県の五つ鹿踊

2022年11月23日 | 祭りと芸能


五つ鹿踊は、高知県西部と愛媛県南予地方に見られる民俗芸能である。一人立ちで和紙の張り子製の鹿の頭(かしら・地元では面ともいう)をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、横縞模様の幌幕で半身を覆って踊る。一人立ちの鹿踊は、全国的に見ると東北地方に広く分布するが、西日本方面での分布は高知県西部と愛媛県南予地方のみであり、約九〇ヶ所で継承され、現在、高知県内では、四万十町地吉、四万十市西ヶ方、半家、宿毛市母島に見られる。かつては昭和初期頃に梼原町でも見られたいずれも愛媛県南予地方(旧宇和島、吉田藩領内)に隣接する地域に分布しており、高知県側には南予地方から伝播しているが、その年代は確定できない。南予地方では宇和島藩の初代藩主伊達秀宗(仙台藩主伊達政宗の長男)が元和元年(一六一五)に宇和島に入部した折に、家臣や商人、職人など約一二〇〇人が移住したとされ、それを機に、東北仙台から伝播している。慶安二年(一六四九)に宇和島城下の一宮祭礼(現宇和津彦神社祭礼)に町人町の裡町から鹿踊が出るようになり、宇和島藩領内と支藩である吉田藩(藩主は伊達家)の領内に江戸時代中期以降、広く伝播し定着したことがわかっているが、江戸時代に高知県(土佐藩)側に伝播した史料等は確認できない。

地吉では鹿踊や神輿をはじめとする道具箱に明治二十年代前半の墨書が確認できることから、藩境を越えて人の交流が困難だった江戸時代が終焉し、人、物、情報の交流が活発化した明治時代前半から半ばにかけて、愛媛側から伝播したと考えるのが適当であろう。実際に鹿踊の道具や面の製作年代や製作者を示す墨書は今回の調査事業では確認できなかった。地吉の記録では大正一二(一九二三)に鹿踊が出ている記録が残るが、儀礼的にも神輿の渡御行列や神事の中心に据えられることはなく、比較的新しい時代(近代)に神社の神事、祭礼に加わったと考えるのが適当だろう。

鹿踊は、地元での呼称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「シカノコ」等である。踊る人数によって「○鹿」と呼ばれることが多い。半家では五人で踊るので「五鹿」と呼ぶものの、踊り手は「シカノコ」と呼ぶこともあり、「五鹿」が対外的呼称、「シカノコ(鹿の子)」が地域内の一般呼称であるともいえる。

歌詞については、雌鹿隠しの歌が主であり、東北仙台や南予と高知県内で共通する。冒頭に「廻れ廻れ 水車 遅く廻りて 堰に止まるな 堰に止まるな」、最後が「国からも 急ぎ戻れと 文が来た おいとま申して いざ帰る」であり、これが高知、愛媛の五つ鹿踊の定型となっている。

 五つ鹿踊は東北の鹿踊が愛媛県南予地方、そして高知県西部に伝播した歴史を持ち、東北では江戸時代以降と形状など大きな変容を遂げている。一方、高知、愛媛の鹿踊は一六〇〇年代前半の東北の鹿踊が伝播し、そこからの変容が見られ、高知、愛媛の鹿踊を手掛かりとして、東北の鹿踊の歴史性や実態を明らかにすることも可能である。つまり、高知、愛媛の五つ鹿踊は、単に四国の一部に独自に見られる民俗芸能という扱いではなく、日本列島における広範囲な民俗芸能の伝播、変容事例として稀少かつ貴重と判断することができるといえるだろう。


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