一遍会の会誌『一遍会報』451号(2023年2月刊)に空海と光定について寄稿、掲載したので、ここに転載しておきます。
平安時代前期の空海と光定
平安時代前期の空海
愛媛県歴史文化博物館では、平成二四(二〇一二)年より弘法大師空海の生涯を和紙彫塑で紹介した新常設展「密●空と海-内海清美展」を開催しており、この約一〇年間、筆者もその展示担当者として弘法大師空海の生涯、特に伊予国をはじめ四国との関わりについての調査研究を進めてきた。しかし、空海が活躍した平安時代前期の伊予国や四国に関する文献を用いた実証的な研究は進んでいるとは言い難い状況で、この時代の六国史「日本後紀」には欠落が多く、残された基礎史料が少ないことが最大の要因といえる。近年、四国四県では四国遍路文化をユネスコ世界遺産に登録に向けての活動が活発化しているが、四国遍路の起源として、高野山開創の前年の弘仁六(八一五)年に、弘法大師空海によって四国霊場が開創されたとの伝承があるが、これが歴史的事実として実証が困難なことは、これまで拙稿「弘法大師空海と四国遍路開創伝承」(愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年)などで指摘してきたとおりである。弘仁六年には空海は東国への密教の普及を試みていた時期で、四国を訪れたことを実証できる史料は確認できない。翌年に空海は朝廷から高野山開創の勅許を得るが、この時点で四国と高野山の直接的なつながりも確認できない。ただし、空海の著作「聾瞽指帰」や「三教指帰」、そして空海の没伝が掲載されている「続日本後紀」からは、讃岐国での空海誕生の史実や、若き日の空海が土佐国室戸岬や伊予国石鎚山で修行したことなど、空海と四国との直接的関係を示す史料も見られる。この点については、拙稿「『三教指帰』に見る空海と四国」(『四国遍路と世界の巡礼』六号、愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター、二〇二一年)、拙稿「高野山と伊予国―『国宝高野山金剛峯寺展』を観覧して―」(『伊予史談』四〇八号、伊予史談会、二〇二三年)にて紹介している。
そして、平安時代前期における空海の事績は、空海本人やその周囲の真言宗の関係者といった内部の視点だけで考えるべきものではない。当時の仏教界は奈良における南都六宗と、最澄により整備が進められていた天台宗、比叡山延暦寺の存在は大きく、それらと交流や対抗しながら、空海は真言密教を確立し、その道場として高野山や東寺を経営していったといえる。後世には、空海の事績は真言宗や高野山、東寺という枠組みの中で「祖師」としてストーリー化されて語られることが多く、空海存命中における奈良(南都)や比叡山との関係については語られにくい傾向があることは否めない。そこで、空海の他宗との関係の一例として、天台宗の最澄の弟子で、伊予国出身の光定を取り上げてみたい。
伊予の光定
宝亀五(七七四)年に讃岐国で生まれた空海と同時代に天台宗の僧侶として活躍したのが伊予国風早郡(現在の愛媛県松山市北部)出身の光定である。生年は宝亀一〇(七七九)年であり、空海より五歳若い。大同三(八〇八)年に比叡山に登って最澄の弟子となり、弘仁三(八一二)年には高雄山寺で空海から密教の灌頂を受けており、空海との直接の交流もあった。光定は最澄の念願であった大乗戒壇設立に貢献し、また天台座主に円澄が就任する際の人事で大きな発言権を持つなど、初期天台宗の基礎の確立に尽力している。承和元(八三四)年には自身の生涯や天台宗の出来事を記した「伝述一心戒文」を著し、承和二年には内供奉十禅師、同五年に僧位の首位である伝灯大法師位になっている。なお、当時、空海は先んじて伝灯大法師位となり、承和二年に高野山にて没している。仁寿四(八五四)年四月三日に円仁が第三世天台座主に就任したが、「天台座主記」によると同日に光定は延暦寺別当に補任されている。これによって光定は後世「別当大師」と尊称されることになった。
「延暦寺故内供奉和上行状」によると斉衡二(八五五)年、文徳天皇が天台宗を抑え、真言宗を賞賛する発言をしたため、光定は怒って「我再び参らず」といって宮中から比叡山に帰ったという逸話もあるが、天安二(八五八)年の八〇歳の祝いとして文徳天皇から恩賞を賜っている。その直後の同年八月一〇日に延暦寺にて没している。「本朝高僧伝」、「弘法大師十大弟子伝」などでは光定は、最澄の弟子であったが後に空海に師事した泰範と同一人物であるという説があるも、これは史実ではない。光定と泰範は入山時期も近く、交流は深かったと考えられる。泰範はその後、空海の十大弟子の一人として活躍し、弘仁七(八一六)年に高野山開創の勅許を賜った直後、空海に先んじて、同じ十大弟子の実慧と高野山に登山して造営に尽力した。空海が勅許後に高野山に初めて入るのは二年後の弘仁九年であり、開創初期には泰範の存在は大きく、空海の弟子達と光定の関係を考究する視点も重要である。
これまでの刊行物で光定の生涯については、越智通敏『法師光定』(一九七五年、後に四国天台仏教青年会、二〇〇五年)、『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』(一九八四年)、熊澤芳裕、吉本栄作『別当大師光定さま』(天台宗四国教区松山部寺院、二〇〇八年)に詳しく、一遍会でも平成一七年七月の第四〇一会例会にて熊澤芳裕「別当大師光定」の例会発表が行われている。本稿では、光定に関する史料を列挙しながら、それぞれから明らかになる光定の事績を紹介してみたい。
光定の生涯
空海と同時代の伊予出身の僧光定の一代記として「延暦寺故内供奉和上行状」がある。光定没後一八年と比較的早い時期の貞観一六(八七四)年五月五日、延暦寺僧の円豊等が編纂したものである。筆者はこの史料を京都大学附属図書館で実見したことがある。この京都大学附属図書館本は安政二(一八五五)年に延暦寺僧により書写された写本であり、延暦寺の中で書写され続けたものであることがわかる。園城寺にも写本が所蔵され、『国書総目録』には「国宝」と記載されているが、その詳細について筆者は把握できていない。『国書総目録』などを見ると、広く流通した版本としてはその存在は確認できない。活字本としては『続群書類従』八輯下があり、内容を把握することができるが、天台宗内で引き継がれてきた史料であり、中世、近世に文化人や知識人が読んだり、収集したりするような広がりはなかったようである。
この史料の中で、光定の出自について、俗姓は贄氏、予州風早郡の人、武内宿祢の六男葛城襲津彦の子孫であり、母は風早氏と記される。出生について、母の腹中に蓮華が生える夢をみて、身重であることが判明した等の奇瑞譚がある。光定著「伝述一心戒文」とともに光定の生涯を知る上での基礎史料である。
次に、朝廷の正史(六国史)の一つである「日本文徳天皇実録」の天安二年八月戊戌(一〇日)条に光定の卒伝(生涯の履歴)が詳細に記載されている。「内供奉十禅師(宮中の内道場に奉仕する高僧)で伝灯大法師位(僧位の最高位)の光定が没した。光定は俗姓が贄氏で伊予国風早郡の人」と記されている。「延暦寺故内供奉和上行状」に見える母が風早氏であることの記載は無いが、やはりここでも出身氏族が贄氏と記される。伊予国内の贄氏については「正倉院文書」の天平八(七三六)年の正税帳に「少領従八位上贄首石前」とあり、少領(郡司の次官)であった贄石前の一族の可能性があるだろう。また、「日本文徳天皇実録」には、光定が天安二年八月一〇日に八〇歳で没したとあり、ここから生年が奈良時代後期の宝亀一〇(七七九)年であったと推定することができる。大同年間に比叡山に登り、最澄の弟子となった事や、同五(八一〇)年には宮中の金光明会にて得度し、弘仁三(八一二)年に東大寺戒壇院で具足戒を受けた事、そして、光定の人となりは「服飾を事とせず、天皇は彼の質素を悦ばれ、殊に憐遇を加う」と記されている。
そして、光定自身の著作に「伝述一心戒文」がある。上・中・下の全三巻からなり、承和元(八三四)年に完成している。応徳元(一〇八四)年に良祐が書写した延暦寺蔵本が最古の写本として残され、国重要文化財となっている。筆者が実見したことがあるのは京都大学附属図書館本であり、これは寛文四年(一六六四)版で、江戸時代に出版され流布したが、愛媛県内での図書館、博物館などでの所蔵について筆者は確認していない。版を重ねて広く流通したとまではいえないのかもしれない。活字本としては『大正新脩大蔵経』七四巻、『日本大蔵経』七八巻、『伝教大師全集』一巻があるが、現在のところ定本となるような注釈本や現代語訳本は出版されていない。今後の伊予国関係の古代史や仏教史研究の課題として注釈、現代語訳の作業は必要であろう。
この「伝述一心戒文」には光定を中心に天台宗確立期の様子が詳細に記されており、光定自身の生涯を記す基礎史料であるとともに、初期天台宗史の基礎史料でもある。空海と最澄の交流についても記されている。「長岡乙訓の寺に海阿闍梨(空海)あり、先師(最澄)相語りて、かの寺に一宿す。先の大師(最澄)と海大師(空海)と面を交えること稍久し。灌頂の事を発す」とある。これは光定が空海から弘仁三(八一二)年一一月一五日に最澄とともに金剛界、一二月一四日に最澄、円澄、泰範ら一四五人と胎蔵界灌頂を受けた事に関する記事である。このように光定は空海との交流もあり、最澄と空海との交流が深い時期であった弘仁三年に光定は高雄山寺に留まり、空海より真言を学んでいる。
光定の活躍
さて、比叡山は「古事記」の大山咋神が鎮座したことを伝える記事が初見とされ、最澄が延暦四(七八五)年に登山し、同七年に比叡山寺が開創された。平安京遷都に伴って鬼門(丑寅の方角)にあたることから王城鎮護の山として重視され、弘仁一四(八二三)年に延暦寺の寺号を賜り、延暦寺は東塔、西塔、横川の三塔にわたり発展している。その平安時代前期における比叡山での光定の活躍ぶりについては、最澄の著作で、天台宗の根本史料でもある「山家学生式」も関係している。「山家学生式」は弘仁九(八一八)年五月一三日の「六条式」(「天台法華宗年分学生式」)、同年八月二三日の「八条式」(「勧奨天台宗年分学生式」)、同一〇年三月一五日の「四条式」(「天台法華宗年分度者回小向大式」)の三編で構成され、比叡山で学生を養成する法式を定めている。この時期には比叡山で得度しても、正式な僧(官僧)となるには奈良(南都)に設けられた戒壇で受戒する必要があった。最澄は比叡山での戒壇設立を主張するため「山家学生式」を著し、光定が使者となってこれを宮中、朝廷や当時の大僧都護命のもとに持参したが、すぐに朝廷から戒壇設立の許可は降りなかった。天台宗の基礎的な文献であるが、光定が使者として宮中、朝廷との連絡調整役であったことには注目すべきであり、後の仁明天皇の時代にも宮中との深い関係が続いたことは「伝述一心戒文」からも読み取れる。ただし光定と宮中との関係を考証した論考は管見の限り確認できず、今後、このテーマでの研究深化が求められる。
なお、それまで戒壇は、東大寺、筑紫の観世音寺、下野国の薬師寺の三ヶ所に限られ、新しい戒壇を認めることは奈良(南都)からの強い反発があった。天台宗の戒壇が勅許されたのは弘仁一三(八二二)年六月であり、最澄が没した直後であった。翌弘仁一四年四月一四日、公認後初めて義真を戒師として光定をはじめ一四人が受戒している。このとき光定は、空海とともに「三筆」の一人である嵯峨天皇宸筆の戒牒を賜っている。それが「光定戒牒・嵯峨天皇筆」であり、現在も延暦寺に国宝として伝存している。戒牒は縦簾紙に揮毫され、太政官印が捺されている。太政官印は従来、度牒(朝廷から出家者に与える許可証)に捺すが戒牒には捺さないものであったが、光定は延暦寺別当大伴国道に対して、唐において義真が受戒した戒牒に倣うことを主張し、認められたという経緯がある。天台宗の戒壇設立だけではなく、その制度の確立にも光定は関わっていた。
鎌倉時代に編纂された仏教史書である「元亨釈書」巻第三には、後世の記録ではあるが、光定の活躍が紹介されている。出自についても「日本文徳天皇実録」同様に「予州風早郡人」と記されるが母方の風早氏の記述は見えない。幼いときに父母が亡くなり大同年間に最澄に師事したことなども記される。そして、弘仁五(八一四)年に興福寺僧義延と「抗論」したとも記され、この年、最澄が宮中で諸宗と対論して天台教義を述べており、奈良仏教(南都六宗)と盛んに宗論していた時期であった。興福寺を氏寺とする藤原冬嗣(当時、従三位で、後に左大臣まで登る)の同席のもと、光定は義延と論じ合って法相宗よりも天台教義が秀でているとし、高名を得たとされる。光定の活躍により、天台教義が確立されていったことを物語る史料である。
また、「唐決集」という史料がある。最澄、光定、源信など天台宗の僧が、中国天台宗の僧に対して行った教義に関する質問とその回答を集めたものである。目次に「光定疑問、宗頴決答」とあり六ヶ条(最澄の質問は一〇ヶ条)が載せられている。内容は法相、三論、華厳との教義的な内容を質問し、会昌五(八四五)年三月二八日に唐・長安の醴泉寺の宗頴が答えている。南都六宗との宗論だけではなく、光定は唐の天台宗との問答により、天台教義を確たるものにしていったといえる。
ただし、光定は最澄の没後に天台宗を代表する座主に就いているわけではない。「続日本後紀」巻二の天長一〇(八三三)年一〇月壬寅(一〇日)条には、最澄の弟子で第二世天台座主に就任した円澄がこの日に没しており、その没伝記事が載っている。一説には没年は承和四(八三七)年とされるが、円澄は最澄の「澄」の一字を与えられている。円澄と光定との関係は深く、円澄の方が八歳年長であった。「伝述一心戒文」によると初代天台座主義真の没後、円修が座主を称したが、光定は最澄から付法印書で円澄を後継とすることを伝えられており、円澄を座主に推挙するため天皇に上表し、円澄が天台座主となったという経緯がある。光定は天台宗内で最澄の後継者を決定するにあたっての影響力を行使するほどであった。
光定没後の顕彰
さて、園城寺が所蔵する円珍「制誡文三条」という史料がある。円珍(智証大師)は弘仁五(八一四)年、讃岐国に生まれ、母が佐伯氏で、空海の姪の子にあたる。仁寿元(八五一)年に入唐して青龍寺などで学び、貞観一〇(八六八)年に天台座主に就任している。この史料は仁和三年(八八七)一〇月一七日に弟子達に対して示した三条の戒文で、第一に最澄の教えを守り、第二に光定の恩を忘れないこと、第三に円仁の遺戒を守るべきことが記されている。やはり、天台宗の草創期には光定の存在が大きかったことを物語る。
また、光定を造像したものとしては、現在、延暦寺の比叡山国宝館に保管されており国の重要文化財に指定されている木造光定大師立像がある。もとは比叡山麓で光定を祀る別当大師堂に安置されていたもので、像高は八三.三センチ。頭巾を被り、狩衣を着て、左手に持った袋を肩にかけ、沓を履いた像容である。一木造り、彫眼、素地仕上げの像であり、室町時代の作とされる。平安時代前期以降、比叡山では光定が祀られたり造像されたりしており、引き続き、天台宗の中でも重要な地位を占めていたことがわかる。
この木造光定大師立像は明治四三年に滋賀県が発行した『滋賀県写真帖』にも写真が掲載されている。この写真帖は滋賀県内の名勝、旧跡、文化財などを掲載した写真集で、この中に光定像も紹介されており、滋賀県内に残る代表的な彫刻文化財といえる。写真を見ると、やはりこの像は肩に袋を背負っており、大黒天像にも類似する。これは『日本文徳天皇実録』の卒伝に光定が比叡山で「資用絶乏」の生活をしていることを聞いた嵯峨天皇が特別に乞食袋を賜った話が紹介されており、この話を由来として後に光定が大黒天信仰と習合していったと考えられる。
光定を祀る「別当大師廟」は、最澄の廟所である比叡山浄土院の奥に位置する。円珍著「行歴抄」には天安三(八五九)年正月に浄土院で最澄の霊を訪ね、次に光定の墳を訪ねたとあり、当時から浄土院の近くに光定に葬られ、祀られていた。「天台座主記」によると貞応三(一二二四)年には別当大師廟が整備されており、現在の廟前の灯籠は宝暦一二(一七六二)年の建立であり、光定が平安時代から連綿と最澄の廟近くに祀られている。「比叡山延暦寺案内全図」という明治四二年に刷られたこの比叡山の絵図を確認すると、最澄を祀る廟である浄土院の脇に「別当大師廟」の文字が見える。比叡山の中でも重要な廟として近代、そして現代にいたるまで継承されている。
光定と伊予国
光定は「日本文徳天皇実録」によると、一〇歳頃までに父母を失い、服喪を終えると山林修行、斎戒の生活に入ったとされる。この奈良時代後期から平安時代前期には「日本霊異記」の寂仙の説話として、石鎚山は修行の山として朝廷にも知られる存在であった。一説には西条市小松町の四国霊場第六〇番横峰寺は、光定を開山第二世と位置づけており、同時代史料が確認できるわけではないが、光定が修行したのは石鎚山や瓶ヶ森などであったと伝わる。
光定にゆかりのある寺院としては、医座寺と佛性寺がある。いずれも松山市北東部の旧風早郡に近い場所である。医座寺は松山市東大栗にある天台宗寺院である。開基は行基とされ、天長六(八二九)年に光定が中興開山となったと伝えられる。松山市北東地域にはこの医座寺、佛性寺、吉祥寺(現在、佛性寺に合併)と光定が開山、もしくは中興開山とする寺院があり、その周辺に天台宗の古寺が残っている。松山周辺では後に真言宗や鎌倉仏教に改宗した寺院が多いが、この地域に集中的に天台宗寺院が存在することは、光定の出身地もこの辺りであると推定できる。佛性寺は、松山市菅沢にある天台宗寺院で、光定が開山したとされる。佛性寺伝によると天長六(八二九)年、淳和天皇の詔勅により、光定が両親の菩提を追善するため、出身地の伊予国に佛性寺を開山したとされる。境内には本堂の隣に「大師堂」がある。四国では「大師堂」といえば一般に弘法大師(空海)を祀ることが多いが、この佛性寺の大師堂は当然、別当大師(光定)を祀っている。
なお、医座寺に祀られている木造の別当大師光定像が祀られている。制作年代は不明であるが、愛媛県内に残る数少ない作例である。長年の痛みで台座や手足、裳の部分が欠損していたが、平成に修復されている。これとは別に四国天台仏教青年会の尽力で別当大師光定像を製作し、平成一七年三月に延暦寺に奉納されている。
この地域の天台宗寺院としては定額寺の存在も無視できない。「続日本後紀」巻九の承和七(八四〇)年九月庚辰(八日)条には、温泉郡定額寺を天台別院としたという記事がある。定額寺が温泉郡のどの位置にあったかは詳らかではないが、天台宗の「別院」つまり本山に準ずる寺院としての格式を持った。光定の出身地やゆかりの寺院も温泉郡の北側に隣接しており、中央での光定の活躍の影響とも考えられる。一遍上人ゆかりの道後の宝巌寺も光定の時代に天台宗となり鎌倉時代、一遍によって時宗に改宗したと伝えられる。なお、「日本紀略」前篇一四の天長五(八二八)年一〇月乙卯条には美濃国菩提寺、伊予国弥勒寺などが定額寺の預かりとなっている記事がある。定額寺とは律令制下で国分寺と並んで選ばれる官寺の一種で、「定額」とは定員、定数の意味である。つまり全国で一定の数を限って選定された寺院のことである。もともと貴族や地方豪族が私に建てた寺院を朝廷が公認したもので、平安時代前期には地方豪族建立によるもの、平安時代中期には天皇、皇族の御願による定額寺が多い。伊予の定額寺は温泉郡にあったが、弥勒寺は光定ゆかりの天台宗寺院の多い松山市北部(現在の食場町付近)にあった寺院であり、それが定額寺預かりとなっており、やはりこの地域の天台宗の勢力の隆盛は、出身者の光定の中央での活躍に影響されたものと考えるのが妥当だろう。
以上、空海と同時代の天台僧である光定の事績を、主に平安時代前期成立の史料からまとめてみた。「延暦寺故内供奉和上行状」、「伝述一心戒文」の内容は他にも多岐にわたり光定関連の記述が見られるが、紙幅の都合で、簡略な紹介にとどまってしまったが、ご容赦いただきたい。
平安時代前期の空海と光定
平安時代前期の空海
愛媛県歴史文化博物館では、平成二四(二〇一二)年より弘法大師空海の生涯を和紙彫塑で紹介した新常設展「密●空と海-内海清美展」を開催しており、この約一〇年間、筆者もその展示担当者として弘法大師空海の生涯、特に伊予国をはじめ四国との関わりについての調査研究を進めてきた。しかし、空海が活躍した平安時代前期の伊予国や四国に関する文献を用いた実証的な研究は進んでいるとは言い難い状況で、この時代の六国史「日本後紀」には欠落が多く、残された基礎史料が少ないことが最大の要因といえる。近年、四国四県では四国遍路文化をユネスコ世界遺産に登録に向けての活動が活発化しているが、四国遍路の起源として、高野山開創の前年の弘仁六(八一五)年に、弘法大師空海によって四国霊場が開創されたとの伝承があるが、これが歴史的事実として実証が困難なことは、これまで拙稿「弘法大師空海と四国遍路開創伝承」(愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年)などで指摘してきたとおりである。弘仁六年には空海は東国への密教の普及を試みていた時期で、四国を訪れたことを実証できる史料は確認できない。翌年に空海は朝廷から高野山開創の勅許を得るが、この時点で四国と高野山の直接的なつながりも確認できない。ただし、空海の著作「聾瞽指帰」や「三教指帰」、そして空海の没伝が掲載されている「続日本後紀」からは、讃岐国での空海誕生の史実や、若き日の空海が土佐国室戸岬や伊予国石鎚山で修行したことなど、空海と四国との直接的関係を示す史料も見られる。この点については、拙稿「『三教指帰』に見る空海と四国」(『四国遍路と世界の巡礼』六号、愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター、二〇二一年)、拙稿「高野山と伊予国―『国宝高野山金剛峯寺展』を観覧して―」(『伊予史談』四〇八号、伊予史談会、二〇二三年)にて紹介している。
そして、平安時代前期における空海の事績は、空海本人やその周囲の真言宗の関係者といった内部の視点だけで考えるべきものではない。当時の仏教界は奈良における南都六宗と、最澄により整備が進められていた天台宗、比叡山延暦寺の存在は大きく、それらと交流や対抗しながら、空海は真言密教を確立し、その道場として高野山や東寺を経営していったといえる。後世には、空海の事績は真言宗や高野山、東寺という枠組みの中で「祖師」としてストーリー化されて語られることが多く、空海存命中における奈良(南都)や比叡山との関係については語られにくい傾向があることは否めない。そこで、空海の他宗との関係の一例として、天台宗の最澄の弟子で、伊予国出身の光定を取り上げてみたい。
伊予の光定
宝亀五(七七四)年に讃岐国で生まれた空海と同時代に天台宗の僧侶として活躍したのが伊予国風早郡(現在の愛媛県松山市北部)出身の光定である。生年は宝亀一〇(七七九)年であり、空海より五歳若い。大同三(八〇八)年に比叡山に登って最澄の弟子となり、弘仁三(八一二)年には高雄山寺で空海から密教の灌頂を受けており、空海との直接の交流もあった。光定は最澄の念願であった大乗戒壇設立に貢献し、また天台座主に円澄が就任する際の人事で大きな発言権を持つなど、初期天台宗の基礎の確立に尽力している。承和元(八三四)年には自身の生涯や天台宗の出来事を記した「伝述一心戒文」を著し、承和二年には内供奉十禅師、同五年に僧位の首位である伝灯大法師位になっている。なお、当時、空海は先んじて伝灯大法師位となり、承和二年に高野山にて没している。仁寿四(八五四)年四月三日に円仁が第三世天台座主に就任したが、「天台座主記」によると同日に光定は延暦寺別当に補任されている。これによって光定は後世「別当大師」と尊称されることになった。
「延暦寺故内供奉和上行状」によると斉衡二(八五五)年、文徳天皇が天台宗を抑え、真言宗を賞賛する発言をしたため、光定は怒って「我再び参らず」といって宮中から比叡山に帰ったという逸話もあるが、天安二(八五八)年の八〇歳の祝いとして文徳天皇から恩賞を賜っている。その直後の同年八月一〇日に延暦寺にて没している。「本朝高僧伝」、「弘法大師十大弟子伝」などでは光定は、最澄の弟子であったが後に空海に師事した泰範と同一人物であるという説があるも、これは史実ではない。光定と泰範は入山時期も近く、交流は深かったと考えられる。泰範はその後、空海の十大弟子の一人として活躍し、弘仁七(八一六)年に高野山開創の勅許を賜った直後、空海に先んじて、同じ十大弟子の実慧と高野山に登山して造営に尽力した。空海が勅許後に高野山に初めて入るのは二年後の弘仁九年であり、開創初期には泰範の存在は大きく、空海の弟子達と光定の関係を考究する視点も重要である。
これまでの刊行物で光定の生涯については、越智通敏『法師光定』(一九七五年、後に四国天台仏教青年会、二〇〇五年)、『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』(一九八四年)、熊澤芳裕、吉本栄作『別当大師光定さま』(天台宗四国教区松山部寺院、二〇〇八年)に詳しく、一遍会でも平成一七年七月の第四〇一会例会にて熊澤芳裕「別当大師光定」の例会発表が行われている。本稿では、光定に関する史料を列挙しながら、それぞれから明らかになる光定の事績を紹介してみたい。
光定の生涯
空海と同時代の伊予出身の僧光定の一代記として「延暦寺故内供奉和上行状」がある。光定没後一八年と比較的早い時期の貞観一六(八七四)年五月五日、延暦寺僧の円豊等が編纂したものである。筆者はこの史料を京都大学附属図書館で実見したことがある。この京都大学附属図書館本は安政二(一八五五)年に延暦寺僧により書写された写本であり、延暦寺の中で書写され続けたものであることがわかる。園城寺にも写本が所蔵され、『国書総目録』には「国宝」と記載されているが、その詳細について筆者は把握できていない。『国書総目録』などを見ると、広く流通した版本としてはその存在は確認できない。活字本としては『続群書類従』八輯下があり、内容を把握することができるが、天台宗内で引き継がれてきた史料であり、中世、近世に文化人や知識人が読んだり、収集したりするような広がりはなかったようである。
この史料の中で、光定の出自について、俗姓は贄氏、予州風早郡の人、武内宿祢の六男葛城襲津彦の子孫であり、母は風早氏と記される。出生について、母の腹中に蓮華が生える夢をみて、身重であることが判明した等の奇瑞譚がある。光定著「伝述一心戒文」とともに光定の生涯を知る上での基礎史料である。
次に、朝廷の正史(六国史)の一つである「日本文徳天皇実録」の天安二年八月戊戌(一〇日)条に光定の卒伝(生涯の履歴)が詳細に記載されている。「内供奉十禅師(宮中の内道場に奉仕する高僧)で伝灯大法師位(僧位の最高位)の光定が没した。光定は俗姓が贄氏で伊予国風早郡の人」と記されている。「延暦寺故内供奉和上行状」に見える母が風早氏であることの記載は無いが、やはりここでも出身氏族が贄氏と記される。伊予国内の贄氏については「正倉院文書」の天平八(七三六)年の正税帳に「少領従八位上贄首石前」とあり、少領(郡司の次官)であった贄石前の一族の可能性があるだろう。また、「日本文徳天皇実録」には、光定が天安二年八月一〇日に八〇歳で没したとあり、ここから生年が奈良時代後期の宝亀一〇(七七九)年であったと推定することができる。大同年間に比叡山に登り、最澄の弟子となった事や、同五(八一〇)年には宮中の金光明会にて得度し、弘仁三(八一二)年に東大寺戒壇院で具足戒を受けた事、そして、光定の人となりは「服飾を事とせず、天皇は彼の質素を悦ばれ、殊に憐遇を加う」と記されている。
そして、光定自身の著作に「伝述一心戒文」がある。上・中・下の全三巻からなり、承和元(八三四)年に完成している。応徳元(一〇八四)年に良祐が書写した延暦寺蔵本が最古の写本として残され、国重要文化財となっている。筆者が実見したことがあるのは京都大学附属図書館本であり、これは寛文四年(一六六四)版で、江戸時代に出版され流布したが、愛媛県内での図書館、博物館などでの所蔵について筆者は確認していない。版を重ねて広く流通したとまではいえないのかもしれない。活字本としては『大正新脩大蔵経』七四巻、『日本大蔵経』七八巻、『伝教大師全集』一巻があるが、現在のところ定本となるような注釈本や現代語訳本は出版されていない。今後の伊予国関係の古代史や仏教史研究の課題として注釈、現代語訳の作業は必要であろう。
この「伝述一心戒文」には光定を中心に天台宗確立期の様子が詳細に記されており、光定自身の生涯を記す基礎史料であるとともに、初期天台宗史の基礎史料でもある。空海と最澄の交流についても記されている。「長岡乙訓の寺に海阿闍梨(空海)あり、先師(最澄)相語りて、かの寺に一宿す。先の大師(最澄)と海大師(空海)と面を交えること稍久し。灌頂の事を発す」とある。これは光定が空海から弘仁三(八一二)年一一月一五日に最澄とともに金剛界、一二月一四日に最澄、円澄、泰範ら一四五人と胎蔵界灌頂を受けた事に関する記事である。このように光定は空海との交流もあり、最澄と空海との交流が深い時期であった弘仁三年に光定は高雄山寺に留まり、空海より真言を学んでいる。
光定の活躍
さて、比叡山は「古事記」の大山咋神が鎮座したことを伝える記事が初見とされ、最澄が延暦四(七八五)年に登山し、同七年に比叡山寺が開創された。平安京遷都に伴って鬼門(丑寅の方角)にあたることから王城鎮護の山として重視され、弘仁一四(八二三)年に延暦寺の寺号を賜り、延暦寺は東塔、西塔、横川の三塔にわたり発展している。その平安時代前期における比叡山での光定の活躍ぶりについては、最澄の著作で、天台宗の根本史料でもある「山家学生式」も関係している。「山家学生式」は弘仁九(八一八)年五月一三日の「六条式」(「天台法華宗年分学生式」)、同年八月二三日の「八条式」(「勧奨天台宗年分学生式」)、同一〇年三月一五日の「四条式」(「天台法華宗年分度者回小向大式」)の三編で構成され、比叡山で学生を養成する法式を定めている。この時期には比叡山で得度しても、正式な僧(官僧)となるには奈良(南都)に設けられた戒壇で受戒する必要があった。最澄は比叡山での戒壇設立を主張するため「山家学生式」を著し、光定が使者となってこれを宮中、朝廷や当時の大僧都護命のもとに持参したが、すぐに朝廷から戒壇設立の許可は降りなかった。天台宗の基礎的な文献であるが、光定が使者として宮中、朝廷との連絡調整役であったことには注目すべきであり、後の仁明天皇の時代にも宮中との深い関係が続いたことは「伝述一心戒文」からも読み取れる。ただし光定と宮中との関係を考証した論考は管見の限り確認できず、今後、このテーマでの研究深化が求められる。
なお、それまで戒壇は、東大寺、筑紫の観世音寺、下野国の薬師寺の三ヶ所に限られ、新しい戒壇を認めることは奈良(南都)からの強い反発があった。天台宗の戒壇が勅許されたのは弘仁一三(八二二)年六月であり、最澄が没した直後であった。翌弘仁一四年四月一四日、公認後初めて義真を戒師として光定をはじめ一四人が受戒している。このとき光定は、空海とともに「三筆」の一人である嵯峨天皇宸筆の戒牒を賜っている。それが「光定戒牒・嵯峨天皇筆」であり、現在も延暦寺に国宝として伝存している。戒牒は縦簾紙に揮毫され、太政官印が捺されている。太政官印は従来、度牒(朝廷から出家者に与える許可証)に捺すが戒牒には捺さないものであったが、光定は延暦寺別当大伴国道に対して、唐において義真が受戒した戒牒に倣うことを主張し、認められたという経緯がある。天台宗の戒壇設立だけではなく、その制度の確立にも光定は関わっていた。
鎌倉時代に編纂された仏教史書である「元亨釈書」巻第三には、後世の記録ではあるが、光定の活躍が紹介されている。出自についても「日本文徳天皇実録」同様に「予州風早郡人」と記されるが母方の風早氏の記述は見えない。幼いときに父母が亡くなり大同年間に最澄に師事したことなども記される。そして、弘仁五(八一四)年に興福寺僧義延と「抗論」したとも記され、この年、最澄が宮中で諸宗と対論して天台教義を述べており、奈良仏教(南都六宗)と盛んに宗論していた時期であった。興福寺を氏寺とする藤原冬嗣(当時、従三位で、後に左大臣まで登る)の同席のもと、光定は義延と論じ合って法相宗よりも天台教義が秀でているとし、高名を得たとされる。光定の活躍により、天台教義が確立されていったことを物語る史料である。
また、「唐決集」という史料がある。最澄、光定、源信など天台宗の僧が、中国天台宗の僧に対して行った教義に関する質問とその回答を集めたものである。目次に「光定疑問、宗頴決答」とあり六ヶ条(最澄の質問は一〇ヶ条)が載せられている。内容は法相、三論、華厳との教義的な内容を質問し、会昌五(八四五)年三月二八日に唐・長安の醴泉寺の宗頴が答えている。南都六宗との宗論だけではなく、光定は唐の天台宗との問答により、天台教義を確たるものにしていったといえる。
ただし、光定は最澄の没後に天台宗を代表する座主に就いているわけではない。「続日本後紀」巻二の天長一〇(八三三)年一〇月壬寅(一〇日)条には、最澄の弟子で第二世天台座主に就任した円澄がこの日に没しており、その没伝記事が載っている。一説には没年は承和四(八三七)年とされるが、円澄は最澄の「澄」の一字を与えられている。円澄と光定との関係は深く、円澄の方が八歳年長であった。「伝述一心戒文」によると初代天台座主義真の没後、円修が座主を称したが、光定は最澄から付法印書で円澄を後継とすることを伝えられており、円澄を座主に推挙するため天皇に上表し、円澄が天台座主となったという経緯がある。光定は天台宗内で最澄の後継者を決定するにあたっての影響力を行使するほどであった。
光定没後の顕彰
さて、園城寺が所蔵する円珍「制誡文三条」という史料がある。円珍(智証大師)は弘仁五(八一四)年、讃岐国に生まれ、母が佐伯氏で、空海の姪の子にあたる。仁寿元(八五一)年に入唐して青龍寺などで学び、貞観一〇(八六八)年に天台座主に就任している。この史料は仁和三年(八八七)一〇月一七日に弟子達に対して示した三条の戒文で、第一に最澄の教えを守り、第二に光定の恩を忘れないこと、第三に円仁の遺戒を守るべきことが記されている。やはり、天台宗の草創期には光定の存在が大きかったことを物語る。
また、光定を造像したものとしては、現在、延暦寺の比叡山国宝館に保管されており国の重要文化財に指定されている木造光定大師立像がある。もとは比叡山麓で光定を祀る別当大師堂に安置されていたもので、像高は八三.三センチ。頭巾を被り、狩衣を着て、左手に持った袋を肩にかけ、沓を履いた像容である。一木造り、彫眼、素地仕上げの像であり、室町時代の作とされる。平安時代前期以降、比叡山では光定が祀られたり造像されたりしており、引き続き、天台宗の中でも重要な地位を占めていたことがわかる。
この木造光定大師立像は明治四三年に滋賀県が発行した『滋賀県写真帖』にも写真が掲載されている。この写真帖は滋賀県内の名勝、旧跡、文化財などを掲載した写真集で、この中に光定像も紹介されており、滋賀県内に残る代表的な彫刻文化財といえる。写真を見ると、やはりこの像は肩に袋を背負っており、大黒天像にも類似する。これは『日本文徳天皇実録』の卒伝に光定が比叡山で「資用絶乏」の生活をしていることを聞いた嵯峨天皇が特別に乞食袋を賜った話が紹介されており、この話を由来として後に光定が大黒天信仰と習合していったと考えられる。
光定を祀る「別当大師廟」は、最澄の廟所である比叡山浄土院の奥に位置する。円珍著「行歴抄」には天安三(八五九)年正月に浄土院で最澄の霊を訪ね、次に光定の墳を訪ねたとあり、当時から浄土院の近くに光定に葬られ、祀られていた。「天台座主記」によると貞応三(一二二四)年には別当大師廟が整備されており、現在の廟前の灯籠は宝暦一二(一七六二)年の建立であり、光定が平安時代から連綿と最澄の廟近くに祀られている。「比叡山延暦寺案内全図」という明治四二年に刷られたこの比叡山の絵図を確認すると、最澄を祀る廟である浄土院の脇に「別当大師廟」の文字が見える。比叡山の中でも重要な廟として近代、そして現代にいたるまで継承されている。
光定と伊予国
光定は「日本文徳天皇実録」によると、一〇歳頃までに父母を失い、服喪を終えると山林修行、斎戒の生活に入ったとされる。この奈良時代後期から平安時代前期には「日本霊異記」の寂仙の説話として、石鎚山は修行の山として朝廷にも知られる存在であった。一説には西条市小松町の四国霊場第六〇番横峰寺は、光定を開山第二世と位置づけており、同時代史料が確認できるわけではないが、光定が修行したのは石鎚山や瓶ヶ森などであったと伝わる。
光定にゆかりのある寺院としては、医座寺と佛性寺がある。いずれも松山市北東部の旧風早郡に近い場所である。医座寺は松山市東大栗にある天台宗寺院である。開基は行基とされ、天長六(八二九)年に光定が中興開山となったと伝えられる。松山市北東地域にはこの医座寺、佛性寺、吉祥寺(現在、佛性寺に合併)と光定が開山、もしくは中興開山とする寺院があり、その周辺に天台宗の古寺が残っている。松山周辺では後に真言宗や鎌倉仏教に改宗した寺院が多いが、この地域に集中的に天台宗寺院が存在することは、光定の出身地もこの辺りであると推定できる。佛性寺は、松山市菅沢にある天台宗寺院で、光定が開山したとされる。佛性寺伝によると天長六(八二九)年、淳和天皇の詔勅により、光定が両親の菩提を追善するため、出身地の伊予国に佛性寺を開山したとされる。境内には本堂の隣に「大師堂」がある。四国では「大師堂」といえば一般に弘法大師(空海)を祀ることが多いが、この佛性寺の大師堂は当然、別当大師(光定)を祀っている。
なお、医座寺に祀られている木造の別当大師光定像が祀られている。制作年代は不明であるが、愛媛県内に残る数少ない作例である。長年の痛みで台座や手足、裳の部分が欠損していたが、平成に修復されている。これとは別に四国天台仏教青年会の尽力で別当大師光定像を製作し、平成一七年三月に延暦寺に奉納されている。
この地域の天台宗寺院としては定額寺の存在も無視できない。「続日本後紀」巻九の承和七(八四〇)年九月庚辰(八日)条には、温泉郡定額寺を天台別院としたという記事がある。定額寺が温泉郡のどの位置にあったかは詳らかではないが、天台宗の「別院」つまり本山に準ずる寺院としての格式を持った。光定の出身地やゆかりの寺院も温泉郡の北側に隣接しており、中央での光定の活躍の影響とも考えられる。一遍上人ゆかりの道後の宝巌寺も光定の時代に天台宗となり鎌倉時代、一遍によって時宗に改宗したと伝えられる。なお、「日本紀略」前篇一四の天長五(八二八)年一〇月乙卯条には美濃国菩提寺、伊予国弥勒寺などが定額寺の預かりとなっている記事がある。定額寺とは律令制下で国分寺と並んで選ばれる官寺の一種で、「定額」とは定員、定数の意味である。つまり全国で一定の数を限って選定された寺院のことである。もともと貴族や地方豪族が私に建てた寺院を朝廷が公認したもので、平安時代前期には地方豪族建立によるもの、平安時代中期には天皇、皇族の御願による定額寺が多い。伊予の定額寺は温泉郡にあったが、弥勒寺は光定ゆかりの天台宗寺院の多い松山市北部(現在の食場町付近)にあった寺院であり、それが定額寺預かりとなっており、やはりこの地域の天台宗の勢力の隆盛は、出身者の光定の中央での活躍に影響されたものと考えるのが妥当だろう。
以上、空海と同時代の天台僧である光定の事績を、主に平安時代前期成立の史料からまとめてみた。「延暦寺故内供奉和上行状」、「伝述一心戒文」の内容は他にも多岐にわたり光定関連の記述が見られるが、紙幅の都合で、簡略な紹介にとどまってしまったが、ご容赦いただきたい。