化粧廻しをつけた八~一二名の子供力士が円陣を組み、立行司の語る文句に合わせて踊るもので、演じる者はほとんどの地区が小学生である。南予地方の祭礼の練りに加わるものであるが、現在の分布は、大洲市上須戒、平地(現在中断)、長浜町出海、八幡浜市川名津(平成八年より中断)、舌間、真網代、保内町川之石楠町、伊方町河内、瀬戸町川之浜、三崎町三崎、三瓶町朝立、明浜町狩浜、高山、野村町惣川、宇和島市三浦大内、日吉村上鍵山、内海村家串にあり、西宇和郡、八幡浜市近辺に多いという特徴がある。旧宇和島藩・吉田藩領内の分布がほとんどであるが、一部、旧大洲藩領内にも見られる。大洲市上須戒では、天保年間(一八三〇~四三)に、宇和島藩側から移入したと伝えられ、また、同じく大洲藩であった長浜町出海も、宇和島藩に隣接する位置にあり、宇和島藩側からの伝播と考えられる。
『愛媛県の民俗芸能-愛媛県民俗芸能緊急調査報告書-』(愛媛県教育委員会、一九九九)が引用している宇和島市三浦の田中家文書によると、天保一五(一八四四)年八月二九日「天神宮祭礼の節、大内浦より角力礼差出度く願済」、同年九月一八日「大内浦相撲礼八番に相立、船隠よいやさ、千代浦牛鬼は其の後一相廻候様申し聞かす」とあり、宇和島市三浦大内では、この年に相撲練りが始まっていたことがわかる。また、野村町惣川でも、祭礼に取り入れられたのが天保年間と伝えられており、この時期に南予地方各地に伝播したことが推測できる。ただし、その伝播の要因や、相撲練り自体を最初に始めた祭礼がどこであったかは不明である。なお、西宇和郡や八幡浜では、明和六(一七六九)年に、八幡浜浦八幡神社で始められたのが最初という説明がなされることが多いが、史料上では確認できない。八幡浜市舌間では、佐田岬半島方面から伝習したという伝承があり、また、伊方町河内や瀬戸町川之浜では、保内町楠町のものを伝習したと言わる。三瓶町朝立でも、明治時代初期に八幡浜方面から習ったと伝えられており、現在、西宇和、八幡浜方面に多く分布するのは、明治時代に各所で伝習し合ったことによるものと思われる。
2001年03月13日